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どのようにして罪を深く感じ取るか

クリスチャン、またはその立場に一定の理解をお持ちの方に質問です。 人はどのようにして自分の罪を可能な限り切実に感じ取ることが出来ますか? キリストの教え、なかんずくパウロの教えを私は次のように理解しています。 人は原罪と己の犯した罪を負っている。それは律法を完全に行えないことにより証明される。 律法を完全に行うことの出来ない人の罪は、 神の子であり完全なる(罪のない)人間でもあるイエスキリストの贖い、 その流された血によって洗い清められる。 そしてそれに対する信仰により人が霊的な位置において、 主の血によって罪が洗い流される。 このとき、人が罪を洗い流される必要を感じるためには 目的としては審きのときにおいて父なる神の御前に義と認められること、 そして手段としてのキリストの血の贖いと悔い改めであること。 ここで問題となるのは血による贖いも悔い改めも、 自身の罪の深さを認識し、いよいよ自身に救いが必要であると感じることです。 けれども私は自身の罪を認識はしても、 それを感情や魂の悔やみとして深く感じ取ることが出来ません。 牧師や神父はこう言うでしょう。 「あなたの神に祈りなさい、そして聖霊様に祈りなさい、  あなたがそれを正しく理解し、それを心から感じ取ることが出来ますように。」 たしかに己の至らぬ点において祈りと願いによって助けを求めることは必要です。 しかし同時に自身のより一層の感情としての感じ取りに対して人としての 持ちうる限りの努力も必要だと思います。 人としての最大限の努力をなし得ていないならばそれは切実には求めていないからです。 祈りと願いとしては別に人としてのなし得る術として、 人はどのような方法によって可能な限り自身の罪を深く知り得ますでしょうか。

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  • ベストアンサー
  • magga
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回答No.6

こんにちは。 僕なりの思ったことを書きますので、何か参考になれば幸いです。 <<ここで問題となるのは血による贖いも悔い改めも、自身の罪の深さを認識し、いよいよ自身に救いが必要であると感じることです。>> 僕も、自分の問題点を「理性に落として明らかにすることによって明確にすること」は重要なことと思います。 <<けれども私は自身の罪を認識はしても、それを感情や魂の悔やみとして深く感じ取ることが出来ません。>> しかしながらそれを再び感情的に「後悔」と言う暗い怒りの感情に転化して増幅させてしまえば、さらに感情的になり、理性的に物事を観る力を滅してしまうのではないでしょうか。 理性を圧迫し滅するなら、己が問題点も改善すべきものも、その方法も、念じるべき思念も見出すことは難解になるし、 理性を圧迫し滅するなら、物事の道理を見抜く力も滅し、再び問題点なる新たな罪を多くなす可能性を増幅させてしまいはしないでしょうか。 <<たしかに己の至らぬ点において祈りと願いによって助けを求めることは必要です。>> 人の心は多く・多数念じた思念に傾く性質が有ると感じます。重要なことですね。なぜそうなるかのその性質の原因をキリスト教の方は「己の至らぬ点において祈りと願いによって助けを求めること」として信仰しているのかな。と感じました。 <<しかし同時に自身のより一層の感情としての感じ取りに対して人としての持ちうる限りの努力も必要だと思います。人としての最大限の努力をなし得ていないならばそれは切実には求めていないからです。>> そうですね。信仰を持つ人持たぬ人に関わらず、人としての持ちうる限りの努力は必要ですし、賞賛すべきものと思います。 <<祈りと願いとしては別に人としてのなし得る術として、人はどのような方法によって可能な限り自身の罪を深く知り得ますでしょうか。>> 感情的になれば物事を観る力はなくなる。 物事を観る力はなくなるなら問題点が見えなくなる。 問題点が見えなくなるなら再び同じ問題や その問題点によって起こる諸々の問題を繰り返しおかしてしまう。 理性的になれば物事を観る力が出てくる。 物事を観る力が出てくれば問題点が観える。 問題点が見えれば改善策がたてられる。 改善策がたてられれば、再び同じ問題や その問題点によって起こる諸々の問題を繰り返すことがなくなる。 理性を育み、理性を持って感情を観て滅していくなら、生命としての問題点・原因が解るようになると思います。 理性に落とし込むことが重要とかんじます。 ゴータマさんは多くこの方法を理性的に論理的に厳密に現実的に科学的に反証も受け入れる姿勢を持って語られています。人として出来ることを具体的に反論が成り立たぬように気をつけながら語られているように感じます。 「八正道」のなかには多く理性に落とし込む方法・ヒントがかかれていますよ。納得がいく所を拾い集めて実践してみてください。 自分の生命としての問題点を見つけ、改善する方法としては、ここまで詳細に厳密に語られたものを他に知りません。人としてのなし得る術として限界まで語られたものと感じます。 信仰に関係なくこの方法は役に立つものと思います。 サンガ出版「仏法」の八正道の項目に詳細にのってます。 参考になれば幸いです。 ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

noname#74446
質問者

お礼

「理性に落とし込んで」の作業がまだ不十分なのかもしれません。 私は「理性」で理解し、「感受性」で無理解であると自己認識していましたが もしかしたら本当は「理性」においてもまだ理解は不十分だったのかもしれません。 理解を更に深めていく中で「理性」と「感受性」の結合するどこかで真の理解が可能かもしれません。 大変参考になりました。ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (5)

noname#117439
noname#117439
回答No.5

A4です。 >なぜなら罪なんて嘘ですから。 このように遠慮なくイエスを生贄にささげるのがキリスト教の正しい教えです。

noname#117439
noname#117439
回答No.4

むしろイエス自身が罪を捏造した人物です。 古代において神を語るにはよかったかも知れませんが、21世紀の現在も禍根を残している犯罪者です。 このようにイエスの罪を告発するとまさに原罪の体現者になれます。 でも私は平気です。 なぜなら罪なんて嘘ですから。

noname#80116
noname#80116
回答No.3

 ★ 祈りと願いとしては別に人としてのなし得る術として、 / 人はどのような方法によって可能な限り自身の罪を深く知り得ますでしょうか。  ☆ 誰の意見・表情にも 耳を傾けることです。そして 歴史を知ることです。  自分や自分の支持する思想を批判する人の見解を 徹底的に 知り 分析するとよいでしょう。そのような内容を 歴史にも 学びます。  ですが 罪の意識は どこまで持つべきなのでしょう。罪を知ったあと どこまで それを深めるかのように 持ち続けるのが よいでしょうか。原罪にしても 個々の罪にしてもです。けれども 神は もはや 罪を思い出さないと言っています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミヤ書 31:31-34)  これは 成就したと考えます。あるいは パウロも 伝ダヰデの詩を引いています。  ▲ (ローマ書4:7~8) ~~~~~~~~~~~~~~~  「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。  主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」   (詩編32:1-2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あるいは これは 《祈り》ですが ルカで  ▲ (ルカ福音11:4) わたしたちの≫ 罪 ≪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。  ☆ と《罪 hamartia 》を言いますが マタイでは  ▲ (マタイ福音6:12) わたしたちの≫ 負い目 ≪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。  ☆ と《負い目・負債( opheilemata )》の語を用います。  むろん 《罪》の語は あちこちに見られます。強弁するつもりはありません。  この投稿の意図は 罪とその意識は おのれの内面における作業として納めていることが 肝心なのではないかと思うそのことです。

noname#74446
質問者

お礼

>作業として納めていること この一文を参考にして再度考え続けてみます。 ご回答ありがとうございました。

  • silversan
  • ベストアンサー率34% (17/50)
回答No.2

私にこの真摯な疑問に答える資格があるのかどうか些か疑問ではありますが・・・。 私たち人間においてあなたがなしうるベストを尽くすこと以上はできないし求められていないように思います。 あなたがベストを尽くすように真摯に思いをはせれば、自ずとあなたに必要なものを気づく機会が与えられるように思います。

noname#74446
質問者

お礼

>自ずとあなたに必要なものを気づく機会が与えられるように 今は気持ちを切らさずに継続する必要がありそうですね。 ご回答ありがとうございました。

  • mmky
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回答No.1

どのようにして罪を深く感じ取るか ほとんどの人はたいした罪を犯してはいませんので、自己反省すればいいだけですよ。パウロにだまされてはいけませんよ。パウロは本当に重い罪を犯した本人ですからね。キリスト者はユダ一人を責めますが、イエスを処刑した側にいたのがパウロ(改名前の名前はサウロ)ですから。その上弟子の一人を石打で殺しています。さらにダマスコにいる弟子を捕らえにいく最中にキリストが現れ、回心した人物です。そのとき、イエスは、「サウロよサウロよ何故お前は私を傷つけるのか。」といったそうです。ある意味、ユダよりひどいことしてますね。ただ、パウロはローマの市民権もあり、高度に教育された人物であったので、その後の伝道は最初の弟子よりりっぱにやったことも事実ですね。それ故ローマカソリックでは評価されていますが、ご本人の罪意識はそれは大変なものでしょう。主たるイエスも弟子も殺したのですから。自身の罪意識を隠すことはできませんが、後世の弟子が余りに哀れなので「原罪」などというありもしない作り話をしたんでしょうね。そんな罪を隠そうという話を信じてどれほどのものが罪意識を刷り込まれたことか、とイエス様も苦笑してらっしゃいますよ。つまり、パウロほどのたいした罪もないのだから反省して祈ればいいんですよ。

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