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あなたは 自由を持て余しているか
1. どういう自由か? ―― 一連の歴史をつうじて明らかになった次のような自由である。 2. アダムとエワは 善と悪とを知る木から採って食べた。そうするのは 胸の動悸で告げられるヤマシサ(恥づかしさ)反応があったにもかかわらず。 3. これは 自由意志のおこないであり わが心にさからうことも その自由度の範囲内だ。この自由度は 人間の思いや考えや想像力の行き着くところまで行き着くらしい。 4. アーリア民族の高貴な血を守るためには 或る異民族の血をことごとく抹殺するというところにまでも。 5. あるいは アダムらの子のカインは 弟のアベルが気に喰わないというので 抹殺した。 6. かれらは楽園を追放されたし 人殺しのシルシを額につけられた。が 自由意志のハタラキについては神にとっては織り込み済みなのであって 人間には ゆるされている。 7. カインを殺す者は七倍の復讐をしてやろうと神自身が言ったという。 8. アブラハムはこの神を心に どういうわけか 受け容れた。 9. 百歳でやっとさづかった嫡男のイサクをも神にささげるというほどの《自由意志におけるその意志の神へのゆだね》をよしとした。 10. イサクを屠ろうとしたとき神が止めた。《わたしが望むのは愛であって いけにえではない》と。 11. モーセは 社会における人びとの間の秩序のためにこれを《なんぢ 殺すなかれ》という倫理規範かつ法律とした(石打ちの死刑など 罰則がある)。 12. イエスはこのいわゆる律法を・そして民族の神をも揚げて棄てた。 13. 律法はその倫理規範に背いたヤマシサ(罪)をおしえるだけのものであるゆえ このオシへ(宗教である)による自己経営を棄てた。 14. 石板に書かれた十戒ではなく 心の胸板に書かれているものであることを指し示した。 15. ヤハヱー神についてはそれを 民族の外に開くことによって棄て 民族神からじんるいにとっての普遍神へと〔イエスが〕揚げた。 16. 揚棄される前の神についても 《わたし(神)は憐れもうと思う者を憐れみ 慈しもうと思う者を慈しむ》とか《わたし(神)は双子の兄弟の兄エサウを――母の胎内にあるときから――憎み 弟のヤコブを愛した》と言う場合がある。 17. エコヒイキはある。《風は気ままに吹く》。 18. 義人ヨブもが艱難に遭う。神などはオサラバしてしまえと言われるほどにゴミ屑同様の状態に成り得る。因果応報説は 人間の知恵どまりだと言わざるを得ない場合がしばしばである。 19. 原罪は 人間がウソをつきイツハリをおこなうということだ。ウソとはヤマシサ反応に逆らうこと。その自由度が われわれの自由意志にはそなわっている。ということらしい。 20. 原罪説(オシヘ)が――あるいは 不殺生戒や不邪淫戒が―― 人びとの意志の自由を抑えて秩序が保たれるという社会と時代は去った。その自由を 人びとは どう受け取っているか? ――持て余しているのか。 21. 人びとは オシヘ(つまりシュウキョウ――それは 人間の言葉で書かれているからには 信じるものではなく 考えるためのものである――)を 心の主人としてその奴隷に成り下がっている時代が過ぎたというのに ただただなお慣性の法則に従ったままである。――のだろうか? 22. あたまとたましひが――シュウキョウとつるんだマツリゴトによって――鈍ってしまったのだろうか。 ☆ あなたは 自由を持て余しているか
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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そうさね、助けてくださいと懇願したために、助けてくれた人の言いなりになる。 宗教への恨みつらみだろうけど、それは弟子がいけなかったんだろう。 ところが、キリスト教の場合「父よ」と懇願する母子家庭生まれのイエスの師匠は誰かだ。 聖母マリアさんについては、男遊びのお盛んな淫乱だったので、父親がだれかわからないから手っ取り早く、死にかけを夫にしたとでも考えればすっきりする。 イエスは父を知らないという斬新な着眼点だ。 私の見聞では、聖母マリアと、聖霊マリアもありうる。 ファザコンかつマザコンだ。 あいつも、人を救う観念の通過に死の儀式を採用して、十字架は神聖だろうと処刑台だ。 おかげでイエスを自らの手で殺すことが天界人チケットだよ。 腐乱死体に魂が宿った人形が、なにかブツブツ言っている臭い奴をアマテラスミッションで回収に出動したことがある。その背後には彼が救った人々を象徴する、雲を突き抜ける大樹が育っていた。 まあ、そういうわけで弟子はともかく、イエスはやはり本物だろう。 私が取り組んでいるのは、「観念の通過は死の儀式」これでね、弊害は天界も承知していても、一方的に天界側だけで撤回できないんだってさ。 人はどうしても死の結論から動かない。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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「私は私である」 この言葉そのままに、自己として自覚する過程と、生活上の自立の交えて人間目線でしかないのではないかね。
お礼
ええ そうですよ。つまり: ★ 人間目線 ☆ ですよ。基本的に。そして 確かに同時に: ☆★ 「私は私である」 ☆ なる観点とその実際上の過程について問題を――自由論として――取り上げています。 ご回答をありがとうございます。 ★ 生活上の自立 ☆ は しばしば何でもないようなこととして扱われる場合があるようですが――世俗の問題よりも 精神ないしイデアのほうが重要だといったかたちで ですが―― あんがい・または基本として 大事なことだと考えられます。 ★ 「私は私である」――この言葉そのままに、自己として自覚する過程 ☆ この場合の特に表現は 微妙です。 わたしはわたしであると言うのは――実際にそう自己表現するのは―― 言ってみれば《何かの拍子に われがわれに還る》というような事態を言っています。 おれは自分を取り戻したというかたちの自己還帰のことです。 《自己として自覚する》という表現の与えるニュアンスは 微妙に違うかも知れません。――いや 同じだと言われるかも知れませんが わたしの印象では まさに微妙だと思われましたので。 念のために言えば 《自己の自覚》は どちらかと言えば精神的・理性的な現象です。 《われがわれに還る》自己到来は 明らかにヒラメキとともにわが身に起きる感覚的な――そして そのあと(もしくは 身と同時に)心にも現われる――事態だと思います。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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2. アダムとエワは 善と悪とを知る木から採って食べた。そうするのは 胸の動悸で告げられるヤマシサ(恥づかしさ)反応があったにもかかわらず。 これだけ抽出すると、人の知恵として、神話中に人生を持ち込んだだけだろう。 性徴のことだよ。知性が足りていない初原に神を理解するための教えとしてもちょうどいい。 大人になる兆しで、男女がわかり始めて、神のようにふるまう両親から追放されて、神は親のようなものだとか何とかいうそれだけでないかね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ☆☆ 2. アダムとエワは 善と悪とを知る木から採って食べた。そうするのは 胸の動悸で告げられるヤマシサ(恥づかしさ)反応があったにもかかわらず。 ★ これだけ抽出すると、人の知恵として、神話中に人生を持ち込んだだけだろう。 ☆ いや 違う見方も出来ますよ。すなわち: ☆☆ 19. 原罪は 人間がウソをつきイツハリをおこなうということだ。ウソとはヤマシサ反応に逆らうこと。その自由度が われわれの自由意志にはそなわっている。ということらしい。 ☆ つまり 《神話中に人生を持ち込んだ》というよりは 人間の存在と行為の関係(自然をふくめよ)としての世界に神話〔の解釈〕を持ち込んだのです。 同じく次の解釈例も この問題にかかわっているはずです。: ☆☆ 20. 原罪説(オシヘ)が――あるいは 不殺生戒や不邪淫戒が―― 人びとの意志の自由を抑えて秩序が保たれるという社会と時代は去った。その自由を 人びとは どう受け取っているか? ――持て余しているのか。 ★ 性徴のことだよ。知性が足りていない初原に神を理解するための教えとしてもちょうどいい。 ☆ いや――動物の雌雄の区別はともかく―― ひとの男女の違いは 人間の自由――つまり 自由意志を発揮するその自由度――にとって 特には影響しないと思うんですが。 《知性が足りているかどうか》という観点で見るよりも 《情報の少ない状態に立っても発揮されうる自由度》を問題としてよいと思いますよ。 エワは 光が影のところで直進するだけではなく曲がって入っている(回析している)ことを発見して このあたかも光の曲がりを真似て 夫アダムとのやり取りにおいて 自分(エワ)の心に逆らって応答した。ウソをついた。ウソをつくときには ヤマシサを感じた。つまり 《善と悪とを知った》。 ――こういう自由度の問題です。 ★ 大人になる兆しで、男女がわかり始めて、神のようにふるまう両親から追放されて、神は親のようなものだとか何とかいうそれだけでないかね。 ☆ アダムとエワは――神話のしるすところでは―― 神が土からつくったということなので 親はいません。 まぁ そういう問題は別として 一般に子どもの成長過程とそこにおけ親の役割りといった観点から見れば どうか? 子どもにとって親は どう映っているか。 基本的に――いろんな事態が 現象としては 親と子とのあいだに起こると見られますが 基本としては―― 人の自由意志の発揮としての自由度は 本人のあたかも我がままにもとづく。・・・のではないでしょうか? 人間の意志ないし心の恣意性がはたらく。仮りに親の心をとうとびそれに従うことが プラスの意志で さからうことが マイナスの意志だとしましょう。このとき やはり人間の意志は この正負それぞれの向きをおのが欲するままにえらんでその自由度を発揮する。 つまり 親はおろか 神でさえも 人間の自由意志の行使にたいしては・それがともかく起きるという現象じたいについては 何も出来ません。 自由という概念は そういった内容をふくむものだと考えざるを得ないようなのです。 この自由を われわれは――特には民主主義の世の中になって―― 持て余しているのか? という問いです。
- ノーバン(@nobound)
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人間は自由だからといって、渋谷のスクランブル交差点に車で突っ込んでいいのかどうか。論ずべきは個人の自由と周りとの人間関係ではないのだろうか。 ここに関しては、孤独でいいとか、炎上もいいとか、いろいろな論理の本が出ています。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 人間は自由だからといって、渋谷のスクランブル交差点に車で突っ込んでいいのかどうか。 ☆ むろん《自由》というのは――みづからの意志で自由に選択した思想や行動を表現するのですから―― その自由には なぜおまえはそのことを選んだかについての説明責任が 無条件に・絶対的に ついて来ます。 自由というのは そういうものです。 と同時に 《自由度》という点では あらゆることが自由です。 現にあちらの国では 学校で銃をぶっ放すことが 現象としては《自由に》おこなわれています。 人びとの自由な自己表現に対して 《検閲》が 堂々とおこなわれているところもあります。 ★ いいのかどうか ☆ というのは 実際の・現実の行動や表現を省みるように促すちからがありますが ただし 倫理規範としては その恥づかしさを思い知らせるはたらきのほかは その行動を思いとどまらせるちからはありません。 ★ 論ずべきは個人の自由と周りとの人間関係ではないのだろうか。 ☆ 歴史的な事例を 聖書での話に採って来ていますが それらは まさに個人の自己表現とそこにおける自由やあるいはその自由や自己表現をとおしての人間どうしの関係について 物語っているものと考えます。 たとえば 《普遍神》 これを持ち出すなら いかなる宗教のオシヘがとうとばれるとしても・そしてそのオシヘの伝える神が多くの人によって崇められているとしても その神は 唯一絶対であるとは言い切れないのですし 宗教のオシヘは 人間の表現したものであるからには みなで考えるための相対的な内容を持つ思想であると捉えられます。 これが 自由の問題でしょう。 ★ ここに関しては、孤独でいいとか、炎上もいいとか、いろいろな論理の本が出ています。 ☆ ん? 《自由》ってことですか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ▲ (パウロ:コリントの信徒への手紙一 15:54~55) ~~~~~ 「死は勝利にのみ込まれた。(イザヤ書25:8) 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(ホセア書13:14) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これが 人間のたどり着く最終的な状態です。 ただし 信仰にあっては・と同時に この場合は 哲学としても 《ものごとを終わりから始める》という行き方があります。 すなわち このいま すでに わたしたちは 死に対して勝利している。となります。 この地点から始めるのは ふつうの哲学でもおこないます。 死が死んだという命題は 信仰――非思考――のものです。 イエス・キリストなる存在というのは こうです。 マリアという女が その許婚のヨセフなる男とのあいだにコイトスを持ち そこに生まれたのが イエスであると。イエスは まったくふつうの人間です。男です。 そのとき 同時に――という話は やはり思考に非ずなる信仰の問題なのですが――マリアは 神なる聖霊によっても身ごもった。したがって 人間の男女から生まれた人間イエスは 人間であると同時に 聖霊なる神によって生まれた神の子であり みづからもキリストと呼ばれる神である。 父なる神に対しては 子なる神です。 父と子と聖霊とは それぞれ一つなる神の三つの位格だと説明されます。 光にたとえられ あたかも順に光源とその発耀とそれらの明るさや暖かさであるという説明です。