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赤い林檎について
視覚の問題です、とある本によると、赤い色が見えるのは、網膜に赤い色が写るというよりは、神経細胞から受けた信号を脳によって処理した「バーチャル」的赤さだと言うような内容でした。 光の周波数にあわせて、脳の中で赤い色を創造すると言うことでしょうか? そこで以前から気になっていたことですが、私とあなたが、たまたま、果物屋の店先に立ち、林檎の品定めを始めたとします。私が見ている「赤」とあなたが見ている「赤」が同じ「赤」だと証明する事は可能なのでしょうか? もし、私とあなたの間に可視光線の周波数値に個人差があれば、「私の赤」と「あなたの赤」が違っていても不思議でないような気もしますが。
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>光の周波数にあわせて、脳の中で赤い色を創造すると言うことでしょうか? 参考1の回答4と、参考3を見てください。人間が、「この世界で見ている物体等の色」は、外部には実在しないものだということが分かります。参考1の ster_flora の回答は、かなり簡略化した話で、もう少し丁寧な説明が本来必要なのですが、「色/光の三原色」とか、「加色混合」「減色混合」などの説明もしているので、詳細に見えて、大分、抜けているところがあります(これは、参考3のページのように、色つきの絵で示せないで、言葉で説明しているためもあります)。 「この世界で見ている物体等の色」は、様々な振動数の光の混合としてあるのですが、人間の目は(そして、どのような生物の視覚器官も、電子的なデバイスも)、あらゆる光の色の振動数に対応しているのではないのです。人間の目の場合、三種類の感度頂点振動数の異なる錐体細胞と、これも一種の色光感受細胞とも云えるが、実際は、「光の全体的強度」を感受するのに使われている桿体細胞の四種類の細胞が感受する、「光」についての感受強度情報を、途中でフィルターにかけたり、合成したり、パターン処理したりして、「何らかの色」の感覚を生成しています(桿体細胞も、色感覚の生成で役割を当然持っています。三種類の錐体細胞が、主として色相を形成するに対し、桿体細胞は、主として明暗を構成しているという意味です)。 感覚で見る、この「何らかの色」は、物理的自然世界には存在しないのです。 参考1の回答4で述べられていますが、「単色光」の「黄色」に当たる光を人間の目が見ると、「黄色」の感覚が生まれます。しかし、奇妙なことに、「単色光」の「緑」と「赤」の光を同時に見ると、やはり、「黄色」の感覚が生まれるのです。 「奇妙」と書きましたが、これは奇妙でも何でもなく、「幅のある感受特性」を持った、三種類の錐体細胞で、可視光線のレンジをカバーして、三種類の細胞が、それぞれ、どういう「強度情報」を受け取ったかで、「感覚で見える色」を生成しているためで、奇妙なことは別にないのです。 参考3での言葉では、主に赤を見るのはL錐体、主に緑を見るのはM錐体、主に青を見るのはS錐体です。 「黄色の単色光」は、L錐体とM錐体の両方を刺激するので、LとMから信号が来ます。他方、「赤の単色光+緑の単色光」も、前者はL錐体、後者はM錐体を刺激するので、結果的に、LとMから信号が来ます。LとMから信号が来るということでは、「黄色の単色光」と「緑+赤の単色光」では同じなので、「緑+赤」は、「黄色の光」に見えるのです。これが減色混合です。光は混ぜれば混ぜるほど、「白」に近くなって来るのです。 こういう事実からして、「人間が見ている色」は、外的な物理的世界には、存在していないということが出てくるのです。存在するのは、無数(無限)の振動数ヴァリエーションのある光のスペクトルと単色光の混合状態です。 >光の周波数にあわせて、脳の中で赤い色を創造すると言うことでしょうか? これは、だから、その通りです。「中間色」という微妙な色が見えるのは、「三つの錐体細胞の感受信号+一つの桿体細胞の感受信号」の「合成」で調整されて、生成されているのです。参考2で、「色弱」であると自分で述べている回答者が、「中間色」が判断しにくいと述べているのは、標準の三つの錐体細胞が十分に機能する人に比べ、錐体細胞の一つの機能が弱かったりするため、「合成」と「調整」がうまくいかないので、「標準的な色の識別」で、識別できない中間色などが出てくるためです。 >私が見ている「赤」とあなたが見ている「赤」が同じ「赤」だと証明する事は可能なのでしょうか? 色は、上に述べたように、個人個人の大脳において、また精神作用において、「生成」されています。従って、「同じ」とか「違う」という比較が、本質的に不可能です。 「生成」されている、という事態を、もっと明確に示すとすると、目の「暗順応」などを考えて実験してみると分かります。左目は、光を通さないパッチのようなもので覆います。右目は、赤か青のセロファンか、色フィルターを付けた光源装置で、相当に明るい赤か青の色の光をずっと見ています。 こういう状態を五分ほど続けた後、パッチも光源も外して、裸眼で、林檎を見ます。左右の目を交互につぶって見てみると、林檎の「赤い色」が、左右の目で、「違う赤い色」に見えます。林檎だけでなく、外の世界が、一方は、赤みがかって見え、他方は、青みがかって見えます。 十分か二十分ほど見ていると、左右での色の感じの違いが失われて行き、どちらで見ても、同じ林檎の赤になります。しかし、この実験で、本人自身の「主観的視野の色」自体で、「違い」と「同一性」の両方が出てきます。左右で同じ色になるのは、「左右の色感覚の調整」によるものだと考えた方が妥当なのです。 つまり、「同一人」自体の主観において、「同じ色」を見ているというのが、調整によって維持されているので、本当は、林檎の色は、瞬間瞬間、刹那ごとにあり、同じ色は二度とないのだということです。 ただし、精神の認識空間が、超越的に同型だという証明ができれば、(色については、知覚の色空間の枠が同型であれば)、ある稀な場合には、あるいは、普段のありふれた経験のなかでは、「同じ色」を異なる主観が経験しているという可能性はあります。 これは、精神の認識空間の超越的(そして超越論的)同型性の問題になります。 この超越的同型性に対する反論として、例えば、「サピーア・ウォアーフの仮説」と呼ばれる、名前が付くと認識が変化する……色について、多数の識別名称がある場合、それだけ細かく色が認識され、大雑把な名前しかないと、大雑把な感覚経験しかない、というような説があります。 「サピーア・ウォアーフ」は、有効だという証拠と、不十分だという証拠の両方があります。有効だというのは、言語色盲だったか(正確に何というのか、今不確かですが)、「色の概念カテゴリー」が、脳の損傷などで失われた人の場合、赤と黄色の中間の色を示されて、これを赤か黄色に分類せよと云われると、できなくなるという実験的事実があります(普通の人の場合、どちらかに分類するか、または「中間のオレンジ色だ」とか、「分類できない中間の色だ」とか、簡単に判断できるのです……勿論、なかには悩む人もいますが、それは、分類しにくい、であって、「できない」のではありません)。 不十分だというのは、参考2の色弱の人の話で、ある日、緑だと思って色を塗ると、翌日、赤みがかった色に見えた、という話がそうです。「赤」と「緑」の「色の概念カテゴリー」があっても、主観的知覚の色判断は揺れが出てきています。 -------------------- >極端な表現をすれば、私の見ている「赤」が「客観的赤・絶対赤」ではないという可能性のあることへの不安です。 「絶対的赤・客観的赤」など、存在しないことは自明です。あなたは、素朴実在論的なところから質問を立てておられるのですが、その場合は、答えは、「ない」です。超越的に、感覚空間の同型性、または通約性というものがあれば、「同じ赤」と云える可能性があるのですが、超越的課題に経験的な答えはないのです。 >身近な色までが絶対性をなくしてしまいそうなことに動揺しているのです。 素朴実在論的な世界把握の展開上での哲学的な世界把握だと、「絶対性」はないのです。しかし、あなたが見ている林檎の赤と、別の人が見ている林檎の赤が「同じ」だというのは、間主観的には、「事実」です。間主観的に「同じ」であるというのは、同じであると話をしていて、話が齟齬を来さないからです。厳密に云えば、違いはありますが、(自分自身で、左右の目で見て、視界世界が違う例を説明しました)、大まかには「同じ」と判断してよいのです。 「かなり違う」というのは、色覚に障害がある場合に、色の話や互いの経験で食い違いが出てくるので、自覚が生まれると云うことになります。絶対音感のある人は、ある種の場合に苦痛を感じるのですが、それは絶対音感のない人には経験できないものです。しかし、味が良いと評判の店の料理は、多くの人が食べて、やはり美味しいのです。 「赤い林檎」というのは、誰かがそういい、実際に赤い林檎なら、相互了解ができているので、同じ「赤い林檎」を見ていると云うことは明らかです。「この林檎は少し虫に食われている、ここに傷がある、こちらは少しいたんでいる」というような話が、普通は通じるはずです。同じものを見ているのでないとすると、何を見ているのかです。 「大まかに同じでよい」というのは、林檎の赤に対し、感覚空間が無限に近いヴァリエーションを持っていても、互いに、そのヴァリエーションに無限の幅があるなら、感覚に共通成分があり、通約性があることになるのです。一人の人間が見る色でさえ、左右で微妙に違いがあるが(そしてそのヴァリエーションは刹那刹那で無限だが)、それは気にならないというのなら、他者との感覚の微細な違いは、当然あるとして、間主観的には、問題なく、「同じ色を見ている」でよいということです。 >>[錐体 色 光]の検索結果 >参考1>No.257882 質問:色はどうして識別できるのですか。 >http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=257882 >参考2>No.43531 質問:色の見え方は誰でも同じ? >http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=43531 >参考3 >http://www.microsoft.com/japan/msdn/columns/hess/hess10092000.asp
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- maris_stella
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「補足」に対してのわたしとしての見解を述べる前に、少し、「認識論」的な図式というものを整理しておきます。わたしは、質問者の立脚するのは「素朴実在論」だと述べているのですが、これは、哲学的科学論でも一つの立場としてあるとも云えます(ポパーは素朴実在論ではありません)。一般的に、多くの人は、ものの認識を、次のような図式で考えています: 物体林檎→ (1)色や光(赤など)→ (2)網膜の感覚細胞→ → (3)伝達処理神経→ (4)大脳の神経系→ (5)統覚主体(自我主観) 普通は、(1)から(4)までの過程を考えています。その場合、(1)の過程で、物体林檎から出ている「光や色」が、「林檎の色」だと普通には考えるのです。しかし、実はそうではないのだということを説明しました。(2)から(4)までの過程で、「色は生成されている」というのが事実なのです。 そして、(2)から(3)の過程において、個人の網膜の色感覚細胞(錐体細胞)の状態や、過程(3)や(4)での神経系での処理や統合に「個性差・個人差」が当然ながら存在するので、(4)での処理で生み出される、あるいは感受される「林檎の色」は、「違っていて当然」だという回答になるのです。 しかし、上の図式は、認知心理学や、認知の生理学的機構では、こういう図式かも知れませんが、哲学的には妥当性が必ずしも明確でないのです。 一番、重要なのは、過程の(5)での、統覚主体(自我主観)での、林檎の知覚神経情報が、どうやって、統覚主体に受け取られ、「知覚」が成立し、林檎の赤の「感覚」が成立するのかという点なのです。 「主観の知覚空間・認識空間における超越的同型性・通約性」ということを述べたとき、実は、この最後にある「知覚を統覚として認識する主体」の「認識の枠組み」の超越的な通約性のことを述べているのです。 ---------------------------------- ---------------------------------- >「赤」を複数の観察者が見た場合同じ赤には見えない、「赤」を正確に再現できないのではなく、そもそも「赤」に赤さが存在しないと言うことでしょうか? 「赤」という「色」は、人間の知覚の空間のなかに存在するもので、「赤い林檎」という物体は、人間の視覚・意識にとって、「赤」と認識される光(及び光のスペクトル)を放射するような、光源であるか、または、反射特性を持った物体で、前者は、「放射する光」が、「赤」の感覚を人間の知覚に引き起こすのであり、後者は、適切な色の光を反射すると、その反射光が、「赤」の感覚を引き起こす特性を持っているのです。 「赤という感覚・色」は、「意識の知覚」のなかに存在し、外部の物体が持っている性質ではないのです(白い紙に、色々な色の光を当てると、色々な色に見えます。赤の絵の具は、青い光のもとで見ると、紫に見えます。「色」は外部の物質世界には存在しないのです。感覚の原因となる、刺激電磁波が存在するのです)。 >そうであるなら、「赤」が一定の振動数の光源を観察者に与えつづける存在に、絶対性の要素はないのでしょうか。 意味が少し分かりにくいのですが、「一定の振動数の光源を観察者に与えつづける存在」とは、例えば、「赤い光」のことだとすれば、「この光」は、振動数が決まっていることから、人間の色覚検査に利用できるしょうし、物理的には、ある種の絶対性を持つとも云えます。しかし、人間が、この光を見れば、人によって、その見え方は相対的になるでしょう。 >仮定として観察者Aが、赤と青の認識が生まれながらに逆転していた場合、他の観察者が「赤」を見ながら赤いと表現するのに対して、観察者Aは、自分の脳の中に「青」をイメージしながら赤いことに同調できるのではないでしょうか? これはありえないのです(ありえるとすると、それは神のような存在の認識の水準でしょう)。「赤」とか「青」は、色の名前ですが、この名前で了解される、「感覚の要素」で、それがいかなるものかは、アプリオリ(前験的)に決まっていると云えます。「呼び名」を変えることはできても、色は、その色です。「脳の中にイメージ」というのは、「意識の中にイメージ」で、「赤」と「青」は、「別の色」であって、「差異性知覚の欠如」がない限り、混同は起こらないはずです(逆転もありえません)。 (……ただし、多くの人が「赤」だと云っている物体を見て、「青」が見える人はいるはずです。特定の物体で、「赤」の光の成分を取ると、弱い「青」の光を放っている場合、少し紫がかった赤ですが、赤の感受錐体細胞を持たない人が見ると、「青」の光だけ見えるということです)。 >>同じものを見ているのでないとすると、何を見ているのかです。 >「赤」を見ている複数の観察者によって色の感じ方が、同じか違うかを説明する為、同じものを見ていることを理由にしているように思えてしまいますが、私の理解不足でしょうか。 細かく説明しようとすると、この文章がそうであるように、異常に長くなってくるので、省略して述べたのです。この言葉の前に、次のようなことを述べています: %>しかし、味が良いと評判の店の料理は、多くの人が食べて、やはり美味しいのです。 %>「赤い林檎」というのは、誰かがそういい、実際に赤い林檎なら、相互了解ができているので、同じ「赤い林檎」を見ていると云うことは明らかです。 「料理」の話は、味覚という微妙なものであっても、「味が良い」と云われている店の料理は、複数の多数の人のあいだで、「美味しい」という「同意が成立する」ということを述べているのであり、人間の意識や精神、感情や感覚が通約性を持つ、「同じようなもの」だと示唆しているのです。意識や感覚が、相同なものを人は持つので、誰かが「赤い林檎」と云って、それを見ると「赤い林檎」である場合は、「同じ」「赤い」林檎を見ている……「同じ赤」を見ているのは、(おおむね)間違いがないということです。 「色の感じ方」という微妙な話では、個々人で、見えている赤の色の「感じ」が違っていると云うことはあり得るのです。同じ人でも、気分が悪いと、同じ色の赤が、気持ち悪い色に見えたり、また楽しい炎色に見えたりと変化があります。だから、この後で、「大まかに同じ色でよい」と述べています。 【結論】網膜における錐体細胞の状態や、個人個人の視覚神経信号の処理過程などの違いから、各人に見える「赤の色」は、最終段階の知覚認識の段階前までは、「違った色」である可能性が高いのですが、「林檎の赤い色」という概念的把握による補正がかかり、「大まかには」「同じ赤」の色であると考えられます。 「大まかには」とは、同じ人が、同じ対象を、同じ条件で見ていても、感覚としての「赤」は、微細な変化を展開している可能性があるからです。(2)(3)(4)で、各人で異なる色となるが、(4)(5)で、同じ「赤」に補正される可能性があるのです。(色覚障害の人でも、その色に着目すれば、おおむね同じ色を見ている可能性が高いです。他の色との比較、識別をしようとすると、知覚される色が変化するとも考えられます)。 ---------------------------------- なお、意識が知覚する色は、認識の図式の段階(4)か(5)の部分で、言語的・認識的な補正を受けると云うことは明らかです。言語的補正とは、「サピーア(サピア)・ウォーフの仮説」も関係してきます(「ウォアーフ」と書きましたが、「ウォーフ」とローマ字で書くようです。Whorf で、「ホワーフ」「ウォアーフ」とも読めるのですが、検索すると、「ウォーフ」が一般的です)。 色覚に障害のある人の場合、林檎を見ると、「林檎」という認識ができると、それは「赤く」見えて来ると云うことです。更に、誰かが「赤い林檎」というと、その言葉に応じて、「赤く」見えてくると云うことです。意識(精神)の認識空間の次元的な広がりにおいて、感受細胞の欠如や、性能の悪さで、色覚知覚空間に歪みが生じ、空間のひろがりが制限されていても、「言語的・認識的」に補正が可能だということです。 色覚障害の人はどのように色が見えているのか考えてみましたが、赤と緑の区別が困難な人でも、実際には、「赤」と「緑」が、私たちが見ているような色に見えているだろうというのが、暫定的結論です。(錐体細胞が四つの場合とか、動物の場合はどう見えるのか、等考えて見ましたが、複雑なのと、よく分からないこともあるので、これだけにします)。 (純粋理性の超越論的主観の独我論とか、感覚のアプリオリ性とか、独我論を越える間主観(共同主観)とか、統覚主観の通約性とか、色々と書いていましたが、そういう説明なしの方が分かりやすいと思い、省きました)。
お礼
質問者の我儘な補足にお付き合いいただき、有難うございます。 質問者の低レベルに配慮していただいたことも併せて感謝いたします。 >これはありえないのです(ありえるとすると、それは神のような存在の認識の水準でしょう)。 #4さんのお礼に書き込みましたが、私の心理の奥に、全知全能の神のように、全てを知りたいと言う不遜な欲望が有るのかもしれません。 老婆と少女の絵、ミューラーの矢印、意識状態やアプリオリの影響で、認知の変化や錯覚がおきるようですが、色にまで意識の補正があることは知りませんでした。 この質問をする以前に、露天風呂で夕立に降られました。 無数にできる同心円の輪が重なり、雫の反作用で水面が垂直に飛び上がる、おもちゃ箱をひっくり返したような乱雑さでした。人間に紫外線や赤外線、音波や電磁波が見えたら、おそらくこれ以上に乱雑なことでしょう。 人間に可視光線しか見えないということがどんなに幸いなことか痛感した経験です。 そもそも色など無いと決めてしまっては人間を観察することは出来なくなります。ありもしない色を感じることによって、人間は生物的な有利さを獲得しているはずです。 個々に於いては、色の絶対性より相対的差異が重要な要素になっているのに、意識の補正は同じ色(通約性)を求めているのでしょうか、少々あやふやですが、この事にも何かの意味があるはずですね。 また次の疑問が出てきましたが、考えることを楽しむつもりです、私の稚拙な考えも哲学の一部と認めていただけたことも励みになりました、有難うございます。
「同じ花火を見たのではなく、同じ幸福な瞬間を二人で共有できたことが大切なのですね。」 パーペキです。 パーフェクト×完璧という意味です。 一歩二歩、を行く、質問者さんのテツガクに、万パイ! 万歳で乾杯という意味です。
お礼
Dragon_Brainさん、本日二回目?のご回答有難うございます。 これが世間で「誉め殺し」と呼ばれる、必殺技ですね。 私も自転車で富士山まで登ってしまいそうです。 Dragon_Brainの最初のご回答が少しは理解できた事が確認できて有り難く思っています。
- graphaffine
- ベストアンサー率23% (55/232)
fishbowl66さん、今晩は。#1のものです。 私は数学を趣味でやっていてその観点からの感想ですが、安易に証明と言う言葉を使いすぎている気がします。 証明のためには前提条件が明確になっている必要がありますが、貴兄が前提としているのは一体どんな事でしょうか。生理学的な観点、心理学的な観点等いろいろな立場がありますよね。この辺りを明確にしないと議論は発散するだけであり、証明するということ自体の意味がないと思います。
お礼
graphaffineさん、再度のご回答有難うございます。 証明とは何かと言い出すと益々議論が発散しますので、此処での証明は単に事実かどうかを確認するだけと言うことで。 (1)視覚がバーチャルである事実 (2)赤い林檎が人によって、同じに見えるか違って見えるかを証明することが本質的に不可能である事実 ですから、この質問は#1~#11さんの回答で解決している問題です。 質問の文章からは以上ですが、ではなぜ質問したのか、(1)も(2)もある程度は予想できながら、その結果をどう判断すべきかと言う疑問が質問者の心理の奥に有った訳です。 そのような、質問の文章に表現されていない部分を感じて回答をしていただく事も有り難いことだと考えています。 もちろん、graphaffineさんが指摘するように議論が発散するきらいは否めませんが、それはそれで参考になるのではないでしょうか。 厳密に言えば、色の見え方に関して、対象の変化や観察者の心理などに言及する個所もありましたので、その誤解を訂正する必要がありましたが、その誤解も質問者の稚拙な文章の責任と考えています。 #11さんに補足をした関係でもう暫らく待っていようかと考えています、数学が趣味の方には乱雑に感じるかもしれませんが、しばしのご猶予をお願いします。 長々と済みませんでした。合掌
違って当たり前、の、もう一歩を行きたいですね。 同じ、絶対的りんごという大海を泳いでいる二人の毛虫。 一匹はその深さ、広大さを知り、その命の計り知れなさを思いしる。 一匹は、波打ち際で、ざざ波と遊んでいる。海の深さ、広大さ、怖さを知ることなく、光の乱を楽しんでいる。そして、この浅い砂浜という扉の向こうが、海の永遠に続いていることを、潜在的に知っている。 両者とも、広大な海に泳ぐ二匹の毛虫に過ぎず、どちらも、海の全てを知っているわけではない。それぞれ、海に対する接し方、海の思い出、海の見え方は違う。 しかし、両者は同じ海で、泳いでいるのである。 ここに、絶対的赤の謎が在る。 赤とは、りんごという海の一端に過ぎず、いわば海は青いなどということと同じである。 夜、海は青黒く、さらに深く暗い。 そして、その波打ち際、水面はぴかぴか。 夜、りんごはどうなるか?おそらく青っぽくなる。 つまり、赤さは、りんごの全て(絶対)では無いということ。 りんごの赤さとは、あくまで、赤さに注目しただけであり、どれだけ注目するかはひとそれぞれ。 見ることの意義は疑われるどころか、失われるのか? いや、見ることの意義とは、どれだけ見たのか? それに尽きる。 たくさん見た人、深く見た人、自分で新たな発見をした人は、見たこと、そして何よりも、自分は見える、ということを、信頼するようになる。 人が疑おうが、俺が、海は黄金と言えば、黄金であったのです。 夜の海が純プラチナと言われたら、そのとおりなのです。 りんごが赤いと言われたら、だから? それは、もう飽き飽きしていたところだと言うことです。 違って当たり前という認識の意義は、この飽きさ加減にうんざりした結果、りんごに対して、りんごの色に関して、赤さに関して、違う認識が在ることの可能性を示唆し、それを引き出すと言うことでしょう。 誰か、りんごは茶色いと何故言わない? りんごを描くときに茶色を使うか使わないか、それでリアリティが変わる。 りんごを赤くしているのは、茶色だった。 この、茶色に気付くことが、りんごの赤さをより知ることでは無いでしょうか? 茶色は、りんごが赤いという認識の、潜在色、潜在的知です。 潜在しているものに惹かれ、それを明確に知ることは、知性の抽出、明らかさの向上であり、意味深い純度の高い体験であると思います。 りんごが赤いことを明らかに知ると言うことは、それを見せている茶色を知っていることなのです。 明らかさ、純度の高さ、このようなものは、どこまで上がるか分かりません。限界地点は、りんごの全てを知った時でしょう。 見ることの意義が疑われる心配よりも、見ることの意義を発揮する、よく見たほうがよいということです。 それで、見ることの意義は深くなり、また、見ることを疑うことは、より見ることを知ろうとする、意義あることであると言うことです。 同じ赤を見ているか? 同じりんごを見ていて、同じ赤を見ていて、同じものをみているか? それは、同じ海を泳いでいる二人にたずねてみれば、分かります。 (それでも、同じ海を泳いでいないと言うことはできます。 そういう場合は、その二人、その海で出会う事はありません。世界の海は全てつながっているのにです。懐疑的な態度であるということは、世界を前に、その広さに立ち尽くした人間の、孤独感を謳っているのかもしれません)
お礼
ご回答有難うございます。 私は自転車で美術館まで半日程の散歩に時々出かけます。 道順は無数にあり、初めての路地を見つけては喜んでいます。同時に同じ道にも前回との違いが新鮮な驚きや興味が湧いてきて、小さな街すら知り尽くすことは出来ません。 茶色の発見は面白いですね、差異の発見と言うことでしょうか、一寸難しいですね。 二人で肩を寄せ合い、花火を見ながら、「赤」の違いや「周波数」の違いなどを考えていてはいけませんね。 大切なのは共感でしょうか、同じ花火を見たのではなく、同じ幸福な瞬間を二人で共有できたことが大切なのですね。
違うことの証明は不可能ですね。 なぜなら同じ林檎を見てるんですから。(つまり再現しても見ている物と同じ色になるだけです。) ただ,#2にも書きましたが,カラーチャートなどを見ながらグラデーションの細かな違いが区別できるかとなると話は変わりますね。(これは人種によっても違いが有ることがすでに証明されているようです。)
お礼
shostakoさん、再度のご回答有難うございます。 皆さんが問題ないと仰ることに、いつまでも拘っては、本当に病気になってしまいます。 長いこと、同じ色だと信じていたせいか、皆さんが当然のように「違ってあたりまえ」と回答される事にも驚いた次第です。 私の中の疑問は残っていますが、それこそ、今日解決しないからと言って、何の問題もありません。 違うことの証明も同じことの証明も難しそうです。
>色の幻想は大した問題ではなさそうですが、言葉の違いは結構大変ですね。 結構、的あたりなヒット回答とおもったんですが、一塁線をきったようです。 絶対客観的な赤を見れていないかもということへの不安ということですが、では、見ているそれは何なのかという問題もあります。 それは、相対可変主観的な色で、今はとりあえず赤なのでしょう。りんごは、決して赤くは無いのですが、まれに、真っ赤なりんごというものもあります。 真っ赤なりんごは、思っていた以上に、すごくあかいぞ!というか、言葉にできない赤さ!そういう色は、あります。それが、「赤の印象」です。 それは、ドラマティックといえばそうです。 太陽のように黄色いとか、吸い込まれるような水色とか。 不安を解消するなら、絶対的客観的赤を見たという確信があればいいわけです。 これは、何が何でも、赤であろうがなんであろうが、という、強烈な印象があれば、その不安は解消されると思います。 不安の正体は、なにか、その物体(りんごに限らず)を見ているのか見ていないのか、よくわからない状態であることかもしれません。 りんごの赤さを真剣に見たのか?ということです。 見つめに見つめ、あるとき気付いたことや、ふと、 りんご存在の奥深さにたどり着いたときに得たもの、そういうものがあれば、あるのならそれを思い出せば、不安は払拭されると思います。 りんごに限られたことでは無いでしょう。
お礼
ayamatiさん、ほっとするご回答有難うございます。 #11さんのお礼で、頭の中が沸騰していて、今までこちらの回答を読む余裕がありませんでした。 ファールでもポールのはるか上を越え、観客の大歓声を呼ぶファールも有ります。質問した以上ファールもホームランも正確に理解する努力だけは義務だと思っています。 >りんごの赤さを真剣に見たのか?ということです。 忘れかけていましたね、宮沢賢治が言っていました ヨクミキキシワカリ ソウシテワスレズ ayamatiさんのご好意を忘れないようにしたいものです。
補足
失礼します、お礼の訂正です。 >りんごの赤さを真剣に見たのか?ということです。 この引用以下の文章は忘れてください、撤回します。 見ることが、バーチャルなら、見ることの意義が疑われてしまうことが、この質問の要点だったのです。 危うく、ファルチップの三振で試合終了になるところでした、世間にバカさ加減を披露してしまいました。
- 1511
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他人と色の見え方が違っていても不思議ではない。 というのは、 「わたしは、彼の知覚によって、色を見る事ができない。 よって、違いを確かめる事ができない。」 と言う事でしょう。 そして、厄介なのは、(ほとんどの人がそうであるように) 「私は、その事を知っている。」訳です。 また、「彼と同じリンゴ(特定の)について語っている。」 と言う事は、確認できます。 同じ固体であるなら、同じ色を発している筈。 ということが導きだされます。 仮に二人の頭の中をテレビモニターでチェックするみたいに比較してみたとしても、確認できるのはそのちがいだけです。 知覚を何かに置き換えて、そこから判断(想像)する。 ということが、えんえんとくり返されるのではないでしょうか? 相変わらず、「他人の知覚によって色をみることができない。 よって、違いを(視覚的に)体感することはできない」のでしょう。 ですが、(そもそもが)色と言うものが、個人においてもヴァーチャルなものなら、他人と知覚を共有する事も可能であるとおもいます。
お礼
ご回答有難うございます。 >「わたしは、彼の知覚によって、色を見る事ができない。よって、違いを確かめる事ができない。」 ニュアンスが少し違うかもしれません。 極端な表現をすれば、私の見ている「赤」が「客観的赤・絶対赤」ではないという可能性のあることへの不安です。 力量不足でそのあたりの「違い」をうまく説明できません。 >知覚を何かに置き換えて、そこから判断(想像)する。ということが、えんえんとくり返されるのではないでしょうか? きっとそうでしょうね、絶対的なものが少なくなる中で、身近な色までが絶対性をなくしてしまいそうなことに動揺しているのです。
- netcatme
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証明は不可能ですが、反応の確認の繰り返しにより確信に至ることは可能かと思います。 他人の心(感覚も含む)はのぞけませんが、行為は確認できます。 他人も自分と同様な人種であるという確信は、ある意味では世界に妥協した老けた結論とも言えるかもしれませんが、若さ故の唯我論よりはましな気がします。
お礼
ご回答有難うございます。 「違う」より「同じ」を支持された貴重なご回答と理解させていただいて宜しいでしょうか。 私こそ多重人格者かもしれません、常識的な世界に安閑としながら、証明が無ければ事実と認められない「科学的」と言うウイルスに犯された人格と共存しているようです。
>非現実的な仮定ですが、同時に同じ位置で複数の人格が見た一つの林檎の色が同じ赤なのか?言い換えれば、同じ周波数・同じ電子の刺激が、視覚神経・シナプス・受容体等を通して脳に創造される赤が各個体に共通しているのか? またそのことの証明は可能かと言うことです。 同じ時と場所に、様々な人格がいる。 多重人格者を例にとって見ます。 十夢(トム)と石宝(ジェリー)はおなじ体に住んでいます。 表に出るのは一人ですが、もう一人の意識は眠ることなく起きています。 今、十夢が表で、桃(東洋のりんご)を見ました。 さて、石宝と十夢の見た色は同じか? 入力は同じですが、出力は違います。 同じ神経回路を利用し、全く同じ条件に体を置いている二人ですが、桃の見方が違うのです。 十夢が見たのは、肌色っぽいピンク。 石宝が見たのは、黄緑っぽいピンク。 どういうことか? 我々が見ている色というのは、与えられたそのままの情報ではなく、我々自身が変換し、出力し直した色なのです。 個々の人格は、世界を造り直しているということです。 入力が同じでも、その出力が二つある。 これが、多次元思考、多重人格者です。 一つの世界観が、二つになって、二人それぞれの前に現れるのです。 興味があるのは、十夢が、石宝の世界をのぞいたりできるか?とういことです。 十夢が表にいるということは、十夢の出力があることは間違いありません。 このとき、石宝は、この出力されたものを、入力している可能性があります。 つまり石宝の見る世界は、外部入力を得た十夢の世界を入力して、さらに石宝という個の領域が出力した、世界だということです。 もう一つは、先に考察したような、石宝も十夢も、全く同じ外部入力を得ているという場合です。 この場合でも、十夢と石宝は同じ世界を見れません。 十夢と石宝が、十夢と石宝である限り、同じ世界は見れないということです。別個である限りはそうです。 これが、 二人、三人、四人となっていけばどうでしょう。 十夢、石宝、ジャビットとトラッキー。 この四人、体は同じでも、皆別の世界を見ています。 が、重要なのは、それぞれ全く自分の世界を見ているのかというと、そうでない可能性があります。 十夢が表で、残る三人が裏の場合。 十夢の見た世界(十夢出力の世界)を、裏三人が見た場合、それは、トムの世界に住む、裏三人となります。 彼らは自分の世界の住人であると同時に、背景を、十夢の世界としているのです。 もう一パターン。 表が誰かまだ決まっていない状態。体が眠っている状態などのとき、四人の世界はどうなっているでしょうか。おそらく、共通の記憶を入力として、四人それぞれ出力し、それぞれの世界観で生きているでしょう。 記憶は何処に宿っているのかという問題もあります。 十夢が知ってて、石宝は知らない。ジャビットは知らないがトラッキーは知ってる。 この場合、記憶の存在、確かさというものが、出力にかかっているということになります。 この各々、出力をはじき出すシステムの中に、各々特有の記憶が組み込まれているということです。 また、十夢と石宝がお互いを共有する、その出力システムを共有することがある場合は、何がしか、同じ色を見ることができるかもしれません。 そのときは、同じ部分があるということです。 一重人格者(ふつーの人)の場合にも、 実は他の誰か(表の世界の所有者)の世界で生きているかもしれないし、また、誰かと全く同じ部分を共有している。つまり、その部分は、自であり他である部分がある、かもしれないということは、否定し難いでしょう。 このような質問には、サイバーワールドとリアルワールドの漸近が見られます。 多重人格者の世界観の考察は、まだまだ序盤ですが、一端整理してみます。 人格→出力システム(内部行為(見える、聞こえるなど裏世界でも可能な行為)外部行為(話す、食べるなど表世界にいなければできない行為)) 外部→存在 人体→外部から情報を取る入力システムであり同時に只の存在、また一切の出力システムであるかも。(言い切れない部分は多大にある。我々の見ている世界は、各々出力後の世界であり、外部(存在界)に、人体などという枠組みがある保証は無い。というより、むしろ「ある」とはいえない。) 記憶→人格に認識される前の入力データ+出力システムの内部構造 世界観(りんごの色)→出力を見ている観察者(自己)、出力システムの全体。 人格によって出力されたものをまた入力する場合もある。 こんな感じでしょうか。まとまってないですが。 考察にはまだまだ余地があり、まだまだ整えられますね。
お礼
有難うございます。 「人格」の使い方が悪かったようですね。 総体としての人間として「人格」と表現したので、多重人格については全く考えていませんでした。 色の幻想は大した問題ではなさそうですが、言葉の違いは結構大変ですね。
- cuda
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同じような事をたまに考えます。 乱暴ではありますが、もしこの世に赤と青と緑の3色しか存在しないとして、 仮に各人の赤の感じ方がユニークなものだったとしても、 赤と青と緑の「差異」(相関関係)さえ識別できれば、 認識を他者と共有できることになりますね。 音についても同様のことが考えられるでしょう。 もし音楽をやる人ならばピアノの鍵盤等をイメージして 相対音階について考えてみるとわかりやすいかもしれません。 厳密には絶対音階など存在しないということでしょうか。
お礼
ご回答有難うございます。 >同じような事をたまに考えます。 同じ仲間がいることは、心強い限りです。 音の問題も面白い話に発展しそうですね。 正方形の林檎まで考えてしまいましたが、「かたち」は視覚と触覚で確認できますから、色や音よりは蓋然性が高かったですね。 差異を識別する本能を持ちながら、同じ仲間に感謝する、人間て(私だけかな?)不思議ですね。
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お礼
ご回答有難うございます。丁重に説明していただき感謝しております。質問の前に検索してみたのですが、参考の2には気がつきませんでした。若干の違いがあって許される範囲と考えることは自分勝手な偏った判断かもしれませんが、とりあえずは質問した甲が在ったと思っています。 頭の中を沸騰させながら、柄にもなく、補足を付けてしまいましたが、不正確な表現しか出来ず恥ずかしく思っています。 素朴な経験の積み重ねの中で、事物の普遍性を見つけ出す方法があります。視覚等五感の経験が人間だけの特殊な経験ならば、人間は自然に付いて語る資格がなくなってしまうのではないでしょうか。 自然を大切にしようというスローガンがそらしくなるような気がします。 病気ですね「ひまぐすり」などを処方してもらいます。
補足
補足の性格上、要点だけを記入させていただきます。 以下は、問題を単純にするため、「赤い林檎の図形」=「赤」、「青の林檎の図形」=「青」、複数の観察者A~N、外部的諸条件は全て一定とします。 絶対赤に関連して 「赤」を複数の観察者が見た場合同じ赤には見えない、「赤」を正確に再現できないのではなく、そもそも「赤」に赤さが存在しないと言うことでしょうか? そうであるなら、「赤」が一定の振動数の光源を観察者に与えつづける存在に、絶対性の要素はないのでしょうか。 証明の可能性について 仮定として観察者Aが、赤と青の認識が生まれながらに逆転していた場合、他の観察者が「赤」を見ながら赤いと表現するのに対して、観察者Aは、自分の脳の中に「青」をイメージしながら赤いことに同調できるのではないでしょうか? >同じものを見ているのでないとすると、何を見ているのかです。 「赤」を見ている複数の観察者によって色の感じ方が、同じか違うかを説明する為、同じものを見ていることを理由にしているように思えてしまいますが、私の理解不足でしょうか。 参考2で取り上げられていた、色覚異常の件は全く考慮していませんでした。