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赤い林檎について
視覚の問題です、とある本によると、赤い色が見えるのは、網膜に赤い色が写るというよりは、神経細胞から受けた信号を脳によって処理した「バーチャル」的赤さだと言うような内容でした。 光の周波数にあわせて、脳の中で赤い色を創造すると言うことでしょうか? そこで以前から気になっていたことですが、私とあなたが、たまたま、果物屋の店先に立ち、林檎の品定めを始めたとします。私が見ている「赤」とあなたが見ている「赤」が同じ「赤」だと証明する事は可能なのでしょうか? もし、私とあなたの間に可視光線の周波数値に個人差があれば、「私の赤」と「あなたの赤」が違っていても不思議でないような気もしますが。
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>光の周波数にあわせて、脳の中で赤い色を創造すると言うことでしょうか? 参考1の回答4と、参考3を見てください。人間が、「この世界で見ている物体等の色」は、外部には実在しないものだということが分かります。参考1の ster_flora の回答は、かなり簡略化した話で、もう少し丁寧な説明が本来必要なのですが、「色/光の三原色」とか、「加色混合」「減色混合」などの説明もしているので、詳細に見えて、大分、抜けているところがあります(これは、参考3のページのように、色つきの絵で示せないで、言葉で説明しているためもあります)。 「この世界で見ている物体等の色」は、様々な振動数の光の混合としてあるのですが、人間の目は(そして、どのような生物の視覚器官も、電子的なデバイスも)、あらゆる光の色の振動数に対応しているのではないのです。人間の目の場合、三種類の感度頂点振動数の異なる錐体細胞と、これも一種の色光感受細胞とも云えるが、実際は、「光の全体的強度」を感受するのに使われている桿体細胞の四種類の細胞が感受する、「光」についての感受強度情報を、途中でフィルターにかけたり、合成したり、パターン処理したりして、「何らかの色」の感覚を生成しています(桿体細胞も、色感覚の生成で役割を当然持っています。三種類の錐体細胞が、主として色相を形成するに対し、桿体細胞は、主として明暗を構成しているという意味です)。 感覚で見る、この「何らかの色」は、物理的自然世界には存在しないのです。 参考1の回答4で述べられていますが、「単色光」の「黄色」に当たる光を人間の目が見ると、「黄色」の感覚が生まれます。しかし、奇妙なことに、「単色光」の「緑」と「赤」の光を同時に見ると、やはり、「黄色」の感覚が生まれるのです。 「奇妙」と書きましたが、これは奇妙でも何でもなく、「幅のある感受特性」を持った、三種類の錐体細胞で、可視光線のレンジをカバーして、三種類の細胞が、それぞれ、どういう「強度情報」を受け取ったかで、「感覚で見える色」を生成しているためで、奇妙なことは別にないのです。 参考3での言葉では、主に赤を見るのはL錐体、主に緑を見るのはM錐体、主に青を見るのはS錐体です。 「黄色の単色光」は、L錐体とM錐体の両方を刺激するので、LとMから信号が来ます。他方、「赤の単色光+緑の単色光」も、前者はL錐体、後者はM錐体を刺激するので、結果的に、LとMから信号が来ます。LとMから信号が来るということでは、「黄色の単色光」と「緑+赤の単色光」では同じなので、「緑+赤」は、「黄色の光」に見えるのです。これが減色混合です。光は混ぜれば混ぜるほど、「白」に近くなって来るのです。 こういう事実からして、「人間が見ている色」は、外的な物理的世界には、存在していないということが出てくるのです。存在するのは、無数(無限)の振動数ヴァリエーションのある光のスペクトルと単色光の混合状態です。 >光の周波数にあわせて、脳の中で赤い色を創造すると言うことでしょうか? これは、だから、その通りです。「中間色」という微妙な色が見えるのは、「三つの錐体細胞の感受信号+一つの桿体細胞の感受信号」の「合成」で調整されて、生成されているのです。参考2で、「色弱」であると自分で述べている回答者が、「中間色」が判断しにくいと述べているのは、標準の三つの錐体細胞が十分に機能する人に比べ、錐体細胞の一つの機能が弱かったりするため、「合成」と「調整」がうまくいかないので、「標準的な色の識別」で、識別できない中間色などが出てくるためです。 >私が見ている「赤」とあなたが見ている「赤」が同じ「赤」だと証明する事は可能なのでしょうか? 色は、上に述べたように、個人個人の大脳において、また精神作用において、「生成」されています。従って、「同じ」とか「違う」という比較が、本質的に不可能です。 「生成」されている、という事態を、もっと明確に示すとすると、目の「暗順応」などを考えて実験してみると分かります。左目は、光を通さないパッチのようなもので覆います。右目は、赤か青のセロファンか、色フィルターを付けた光源装置で、相当に明るい赤か青の色の光をずっと見ています。 こういう状態を五分ほど続けた後、パッチも光源も外して、裸眼で、林檎を見ます。左右の目を交互につぶって見てみると、林檎の「赤い色」が、左右の目で、「違う赤い色」に見えます。林檎だけでなく、外の世界が、一方は、赤みがかって見え、他方は、青みがかって見えます。 十分か二十分ほど見ていると、左右での色の感じの違いが失われて行き、どちらで見ても、同じ林檎の赤になります。しかし、この実験で、本人自身の「主観的視野の色」自体で、「違い」と「同一性」の両方が出てきます。左右で同じ色になるのは、「左右の色感覚の調整」によるものだと考えた方が妥当なのです。 つまり、「同一人」自体の主観において、「同じ色」を見ているというのが、調整によって維持されているので、本当は、林檎の色は、瞬間瞬間、刹那ごとにあり、同じ色は二度とないのだということです。 ただし、精神の認識空間が、超越的に同型だという証明ができれば、(色については、知覚の色空間の枠が同型であれば)、ある稀な場合には、あるいは、普段のありふれた経験のなかでは、「同じ色」を異なる主観が経験しているという可能性はあります。 これは、精神の認識空間の超越的(そして超越論的)同型性の問題になります。 この超越的同型性に対する反論として、例えば、「サピーア・ウォアーフの仮説」と呼ばれる、名前が付くと認識が変化する……色について、多数の識別名称がある場合、それだけ細かく色が認識され、大雑把な名前しかないと、大雑把な感覚経験しかない、というような説があります。 「サピーア・ウォアーフ」は、有効だという証拠と、不十分だという証拠の両方があります。有効だというのは、言語色盲だったか(正確に何というのか、今不確かですが)、「色の概念カテゴリー」が、脳の損傷などで失われた人の場合、赤と黄色の中間の色を示されて、これを赤か黄色に分類せよと云われると、できなくなるという実験的事実があります(普通の人の場合、どちらかに分類するか、または「中間のオレンジ色だ」とか、「分類できない中間の色だ」とか、簡単に判断できるのです……勿論、なかには悩む人もいますが、それは、分類しにくい、であって、「できない」のではありません)。 不十分だというのは、参考2の色弱の人の話で、ある日、緑だと思って色を塗ると、翌日、赤みがかった色に見えた、という話がそうです。「赤」と「緑」の「色の概念カテゴリー」があっても、主観的知覚の色判断は揺れが出てきています。 -------------------- >極端な表現をすれば、私の見ている「赤」が「客観的赤・絶対赤」ではないという可能性のあることへの不安です。 「絶対的赤・客観的赤」など、存在しないことは自明です。あなたは、素朴実在論的なところから質問を立てておられるのですが、その場合は、答えは、「ない」です。超越的に、感覚空間の同型性、または通約性というものがあれば、「同じ赤」と云える可能性があるのですが、超越的課題に経験的な答えはないのです。 >身近な色までが絶対性をなくしてしまいそうなことに動揺しているのです。 素朴実在論的な世界把握の展開上での哲学的な世界把握だと、「絶対性」はないのです。しかし、あなたが見ている林檎の赤と、別の人が見ている林檎の赤が「同じ」だというのは、間主観的には、「事実」です。間主観的に「同じ」であるというのは、同じであると話をしていて、話が齟齬を来さないからです。厳密に云えば、違いはありますが、(自分自身で、左右の目で見て、視界世界が違う例を説明しました)、大まかには「同じ」と判断してよいのです。 「かなり違う」というのは、色覚に障害がある場合に、色の話や互いの経験で食い違いが出てくるので、自覚が生まれると云うことになります。絶対音感のある人は、ある種の場合に苦痛を感じるのですが、それは絶対音感のない人には経験できないものです。しかし、味が良いと評判の店の料理は、多くの人が食べて、やはり美味しいのです。 「赤い林檎」というのは、誰かがそういい、実際に赤い林檎なら、相互了解ができているので、同じ「赤い林檎」を見ていると云うことは明らかです。「この林檎は少し虫に食われている、ここに傷がある、こちらは少しいたんでいる」というような話が、普通は通じるはずです。同じものを見ているのでないとすると、何を見ているのかです。 「大まかに同じでよい」というのは、林檎の赤に対し、感覚空間が無限に近いヴァリエーションを持っていても、互いに、そのヴァリエーションに無限の幅があるなら、感覚に共通成分があり、通約性があることになるのです。一人の人間が見る色でさえ、左右で微妙に違いがあるが(そしてそのヴァリエーションは刹那刹那で無限だが)、それは気にならないというのなら、他者との感覚の微細な違いは、当然あるとして、間主観的には、問題なく、「同じ色を見ている」でよいということです。 >>[錐体 色 光]の検索結果 >参考1>No.257882 質問:色はどうして識別できるのですか。 >http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=257882 >参考2>No.43531 質問:色の見え方は誰でも同じ? >http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=43531 >参考3 >http://www.microsoft.com/japan/msdn/columns/hess/hess10092000.asp
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- takanoma
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面白いご質問ですね! #3の方がおっしゃるように、周囲の明るさ、林檎を見る角度等、全ての条件を同一にしたとしても、視細胞→神経細胞→大脳皮質視覚野へと視覚情報が伝達される途中の、全ての段階で個人差が生じうると思います。 (最も個人差が大きいと考えられるのは、網膜にある視細胞の感光色素の種類と量) さらに言えば、仮に人体の構造(可視的な部分)からくる個人差を全て無視できる条件を作ったとしても、その林檎を観察する人の視覚情報処理のパターンや、対象に対する判断(例えば、好き嫌いなど・・・林檎が死ぬほど嫌いな人が見る赤は、果たして同じ赤色でしょうか)、心理状態によってさえ、その人が「見るもの」は異なってくると思えます。 その異なる「赤」を言葉で表現することは困難ですし、受け取る色覚情報による視覚野の興奮状態の違いを検出する方法が発達したとしても(脳の血流分布のパターンを見るとか)、微妙な「赤」同士の違いを検出できるとは思えません。 結局、大脳皮質が最終的に作り出した「映像」を写真にする装置でもなければ、同じものを見ているかどうかの証明は困難なのでは? しかし聴覚、嗅覚、すべてにあてはまってくることですね。 「人の同じ言葉に対する個々人の反応の違い」などは、違っていてある程度当然と日常的に考えますが、人間の共通した知覚(視覚など)については、「同じように感じていて当然」と、無意識に思っているんですね。楽しいご質問、どうもありがとうございました。
お礼
ご回答有難うございます。 takanomaさんに楽しんでいただけて、質問した甲(カイ)がありました。 見ず知らずの人が楽しむことで、自分もしあわせな気分になれる自分の感情の素直さ(?)を見つけ楽しんでいます。 聴覚・臭覚全てにあてはまるとすると、形の認識まで脳で創造されているのかも。 林檎は正方形なのだ(笑 ご回答いただいた皆さん違ってあたりまえと驚いた様子がありませんが、そろそろ同じだと詭弁?を駆使される方が現れるとモット楽しくなりそうです。
- ticky
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証明ですか…。 結構難しいのではないかと思います。 私が違うという根拠は、脳の神経細胞のつながり方は、人によって違うはずで、そうなると、人それぞれイメージするところはそっくりでも、少しは違うはずだ…とこんなふうに考えたんです。 また、光受容体レベルで個体差があると聞いたこともあります。
お礼
失礼しました、お礼に変なことを書き込んでご迷惑をかけてしまい申し訳ありません。 人間の染色体は人種間でもほとんど同じらしいですから、脳の構造はほとんど同じともいえます。 逆に47の2分の一の組み合わせは無数にあり、誰一人同じでないともいえます。 推測の範囲では、同じとも違うともいえてしまいそうで。 どちらでもいいですから、誰か証明してくれないだろうかと、期待している困ったオッサンでした(苦笑
- ticky
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私も、「私の赤」と「あなたの赤」は違うと思います。 けれど、私とあなたが同じものを見て、その赤について話す場合、あまり問題はないはずです。 なぜならば、今私とあなたが見ている赤を再現すると、私とあなたは同じ赤で、林檎の色を再現するでしょうし、物心つく前から日本語の環境で過ごしていたため、認知したものを、どのように言語化して、思考するかというのには、極端な違いはないでしょうから。 また、認知の仕方や、思考の方法や、感覚は、ある程度、遺伝的にプログラムされていると思います。
お礼
ご回答有難うございます。 やはり違いますか。 >今私とあなたが見ている赤を再現すると、私とあなたは同じ赤で、林檎の色を再現するでしょうし もし、全知全能の創造主が人の脳の中身を見ることが出来たら、赤い林檎と紫の林檎をイメージして見分けがつかなくなっている、出来損ないの被創造物を眺めることになるのでしょうか? ナニカ、コンガラガッテシマイマシタ(笑 ところで、違うことは証明できますか???
違います。(なぜか、哲学者はりんごや赤といったようなものを引き合いに出す。なんでだろ?なぜ黒ではなく、何故アスファルトではないのか?そこには、モノの代表としてのりんごがあると思います。モノを見ているという思考です。りんごの日常性よりも、物体性を誇示するものとしてのりんごです。 アスファルトを例に出す思考と、りんごを例に出す思考とでは、そのニュアンスには違いがあるでしょう。もちろん、その思考が導く結果にも違いが出ます。) 私の色とあなたの色は違います。 しかし、全くもって、単に違うだけではないでしょう。 とりあえず、同じりんごをみても、角度によって、色は違います。 私が見ている場所で、あなたが、同時に、同じ光をキャッチすることは日常的にはありません。 さらに、仮に全く同じ刺激を、私とあなたに与えれたとしても(サイバーワールドなどの場所で)、その受容体は違います。受容体をも同じものを使っているような世界では、同じ色である部分は、あるでしょう。 むしろ、私とあなたが、何かの部分であるような、そんな世界では、同じ色をみることができる可能性は大きい。 色、その周波数というのは電磁波であり、体内で動いているものは電子や化学物質です。 あなたの体内で働いた電子と、私の体内で働いた電子は、違うのか? これも問題です。 見かけの時空が違うからといって、この世の電子や原子が、すべて個別であり、無二性を誇っているのか? これは安易には言い切れない。 もはや時空観も、この考察では世界の一断面に過ぎない。 宇宙の何処か、たった一つの電子に変化が起こることで、その他全ての電子が変異するという観測が得れるかもしれない。 それが得れなくても、まだ、それぞれの電子に絶対的な個性が託されているとは言い切れない。 同じか違うか? この問いは、色や物体の認識論だけにとどまらず、その関わりは広く、かなり複雑な思考模様を提示する、現代哲学の難関であると思います。 この話は、難しいと、私は思います。
お礼
ご回答有難うございます。 おかげで少し哲学的になってきたようです。 ayamatiさんの仰る、無二性・内部外部の問題も重要な問題です。しかし、今回は問題点を絞っておきたいと思います。 非現実的な仮定ですが、同時に同じ位置で複数の人格が見た一つの林檎の色が同じ赤なのか?言い換えれば、同じ周波数・同じ電子の刺激が、視覚神経・シナプス・受容体等を通して脳に創造される赤が各個体に共通しているのか? またそのことの証明は可能かと言うことです。 科学に限界があり、その意味で哲学が必要なのでしょうが、科学の限界ははるか彼方にあると漠然と考えていました、こんな身近に限界があることに少々驚いています。 それにしても、西洋の本、林檎が好きですね。東洋ではそれらしきものを思いつきません。
#1さんの回答にも有りますが,違っているのは当然ですし,違っていても何の問題も有りません。 つまり,その林檎の色を見た場合に感じる「赤」が例えば私に取っては,他人から見れば「青」だったとしても私は「赤」として認識しているのだから,結局「赤」ということになります。 「赤」と「青」は極端な例ですが,fishbowl66さんの質問は結局こういうことですね。 ただ,色の違いの認識が個人によって違うということは有ります。(例えばグラデーションの細かい違い。)
お礼
ご回答有難うございます。 質問の意味は仰るとおりです。 本当に何も問題が無いのでしょうか? たとえば、デザイナーは食欲を起こす茶系を飲食店に使用し、色彩と感覚の関連に注意を払っています。 赤と青は極端な例ですが、暖色寒色といった色から得る感覚もまったくのバーチャルでは、毎日地震の上に立っているような不安な気分にならないのでしょうか。 病気かな? これを理由に長期休暇が取れるでしょうか?(笑
- graphaffine
- ベストアンサー率23% (55/232)
fishbowl66さん、こんにちは。 私は哲学とは全く無縁ですし、この質問がどう哲学に関わるのか分かりませんが、取りあえず思いつきで答えます。 まず、確認ですがここで言ってる赤というのは単なる色の一例であって赤だけが特殊だと言う話ではないですよね。 >私が見ている「赤」とあなたが見ている「赤」が同じ「赤」だと証明する事は可能なのでしょうか? この問いの趣旨は、二人の人が同じ物を見たときに 脳に受ける刺激が同じであることを示したいと言うことですか。 私はそんな事は言えないと思いますし、違っていても特に問題はないと思います。 >私とあなたの間に可視光線の周波数値に個人差があれば 感覚は人により違うものですから、当然個人差は有るでしょう。
お礼
>違っていても特に問題はないと思います。 確かに問題ないのですが、何か気持ちが悪いですね。 私の「赤」が他の人の「オレンジ」で、他の人の「赤」が私に見えない可能性が有るわけで、なにやら不安です。 哲学の質問にしたのは、「絶対赤」とか「客観的赤」などという概念があるのだろうか、といったところです。 大変有難うございました。
- 1
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お礼
ご回答有難うございます。丁重に説明していただき感謝しております。質問の前に検索してみたのですが、参考の2には気がつきませんでした。若干の違いがあって許される範囲と考えることは自分勝手な偏った判断かもしれませんが、とりあえずは質問した甲が在ったと思っています。 頭の中を沸騰させながら、柄にもなく、補足を付けてしまいましたが、不正確な表現しか出来ず恥ずかしく思っています。 素朴な経験の積み重ねの中で、事物の普遍性を見つけ出す方法があります。視覚等五感の経験が人間だけの特殊な経験ならば、人間は自然に付いて語る資格がなくなってしまうのではないでしょうか。 自然を大切にしようというスローガンがそらしくなるような気がします。 病気ですね「ひまぐすり」などを処方してもらいます。
補足
補足の性格上、要点だけを記入させていただきます。 以下は、問題を単純にするため、「赤い林檎の図形」=「赤」、「青の林檎の図形」=「青」、複数の観察者A~N、外部的諸条件は全て一定とします。 絶対赤に関連して 「赤」を複数の観察者が見た場合同じ赤には見えない、「赤」を正確に再現できないのではなく、そもそも「赤」に赤さが存在しないと言うことでしょうか? そうであるなら、「赤」が一定の振動数の光源を観察者に与えつづける存在に、絶対性の要素はないのでしょうか。 証明の可能性について 仮定として観察者Aが、赤と青の認識が生まれながらに逆転していた場合、他の観察者が「赤」を見ながら赤いと表現するのに対して、観察者Aは、自分の脳の中に「青」をイメージしながら赤いことに同調できるのではないでしょうか? >同じものを見ているのでないとすると、何を見ているのかです。 「赤」を見ている複数の観察者によって色の感じ方が、同じか違うかを説明する為、同じものを見ていることを理由にしているように思えてしまいますが、私の理解不足でしょうか。 参考2で取り上げられていた、色覚異常の件は全く考慮していませんでした。