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どうして自己を意識できるの
我々は、例えば『私は確かに今、赤いりんごを見ている』という事を意識することができます。 単にレンズを通した被写体を網膜に写しているだけでは、てこのように一方をおしたから、もう一方が上がるといったロボット運動に過ぎません。 右目から得た視覚情報と、左目から得た視覚情報が右脳と左脳に夫々届く。(視覚に限らず感覚全て同様) 右脳が得た情報状態を左脳が見て、右脳さんあなたは今、赤いりんごを見えてますよ。といった具合で右脳と左脳の相互投影認識で自己・意識が存在すると思うのですが、違うのでしょうか。 もしかしたら、右脳を損傷したら左半身が左脳を損傷したら右半身が不自由になるのも、実は右半身は右脳に伝えられるが、その状態認識を反対側の脳が認識するから、脳の障害位置左右がクロスした体の障害になるのではとも思うのですが、これは無理があるでしょうか?
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kaitara1です。案外メビウスの帯が参考になるかもしれません!?
kaitara1です。私も自信があるわけではありませんが、『私は確かに今、赤いリンゴを見ている』 の中で形容詞や副詞は物として存在しないにもかかわらずリンゴと同等の資格を持って脳の中に実在していると思います。そういう意味でした。私にしても私の体のことかとも思いますが、私の心のことかもしれません。心となると形容詞や副詞と同じものだろうと思います。
>右目から得た視覚情報と、左目から得た視覚情報が右脳と左脳に夫々届く。(視覚に限らず感覚全て同様) こういった構造は、おそらく生体の部分がダメージを受けても、サブ的に補完しカバーして全体では不自由になることを防ぐシステムのひとつなのだろうと思います。自意識の発生はそういった人体の基本構造的なものが関係しているのではなく、やはり人間の知能と記憶力、経験知の積み重ねがもたらしたものではないでしょうか。
お礼
つたない私の疑問に回答ありがとうございます。
視神経交叉というのは特別な感じがします。左右眼のそれぞれ半分の神経線維が反対側の脳に行くというような実に不思議なもののようです。そのことと自我意識の成立とは関係あるでしょうか。私は自我意識のようなものは言語と密接に関係しているように思います。
補足
ご意見頂きありがとうございます。 なるほど言語を覚える頃からしか意識の記臆が無いような気もするしなーと一旦は思ったのですが、そこにも疑問を感じるのです。 以前ある精神科医の本で、物のイメージと名前がうまくマッチできない症状の患者に、Dr:茶碗を示して、これは何?と訊くと、患者:時計と答えた。Dr:これで時間がわかりますか?と問うと、患者:わからんこともない、それでも日に3回と答えたと言うことが紹介されていました。 この患者は言語が正常ではありませんが、意識は正常です。 言語は自我意識に関係するのでしょうか? 人格や自身がどんな位置づけにあるのか、これまでの人生・経験などを意識するのは記臆によると思えるのですが、例えば、過去の記臆を一切喪失してしまった場合あるいは、催眠術で実際とは異なる経験や性格を植え付けた場合などを考えると、昨日までの自分とは人格が異なったり、過去の経験をなくしたとしても『今私は確かに赤いりんごを見ている』との自覚・意識は存在しますよね。この例は言語能力そのものを喪失したわけではないので、言われた事とはそれてるかもしれませんが、私には、しっくりこないんです。記臆による意識は確かにありますが、現在意識(自我意識)とは別と思うんです。 もっと荒っぽい考え方で言えば、コンピューターでもカメラで捉えた赤いりんご画像を自動解析し『あ・か・い・り・ん・ご』とディスプレイに文字表示したり、スピーカーから発声させるという言語表現はできますし、逆に『あかいりんご』と書いた文字をOCRのように工学的に読み込んで、りんごの写真を示すという言語が示すイメージを表現する事も比較的簡単にでき、連想するもの・できるものといったことの回答をさせる技術もあります。 つまり、言語を使える・覚える・イメージへの変換という事が意識とは関係ないのではないかと思えるのですが、どうなんでしょうか? 長くなりましたが、そんなことから、右脳左脳が自己自覚意識をもつのに必要な構造なのではと考えた次第なんです。自信はないので、すぐ他の意見で変わるかもしれませんが。
お礼
回答ありがとうございます。 ふと先日思ったことなので、もう少し考えてみます。