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大阪は、いつから大阪?

大阪と書きますが、昔は大坂と書いたようです。商人の町で土がつくのを嫌ったため現在の大阪になったと聞きますが、一体いつ頃からでしょうか。江戸時代にはすでに商人の町として確立していたと思いますし、それ以前。歴史本には大坂城になってるものが大半のようにも思いますがいつ頃大坂は大阪になったのでしょうか?もうひとつ関係ありませんが教えてgooは有料でしょうか?

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  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.5

>商人の町で土がつくのを嫌ったため現在の大阪になったと聞きますが その説も、巷ではありますね。 が、多くは(他にも回答がありましたが)「大坂では、転げ落ちる」事を嫌がった大坂市民の要望らしいですね。 明治維新で、江戸は東の京都(東京)になりました。 天皇も、関東地域以東に対して「権力者・支配者が変わった事を市民に見せる目的」で行幸を行います。 京都市民・大坂市民は「行幸だから、また戻ってくる」と思っていた様です。 ところが、天皇は旧江戸城を皇城と定めました。 (今でも、京都市民の一部は「天皇さんは、必ずお戻りになる」と信じていますよ) 焦ったのは大坂商人です。 これでは、大坂は「字の如く、徐々に政治・経済的地位を転げていく」 そこで、商人は「新政府に対して、大坂を大阪に改める様に要望」しています。 財政難の明治政府としても、大坂商人の要望を無視できず「人民掌握・財源確保」の立場から、改称を認めたようです。 幕末までの地図(図会)にも、大坂との記述があります。 >歴史本には大坂城になってるものが大半のようにも思いますがいつ頃大坂は大阪になったのでしょうか? これは、作家自身の考え方次第なのです。 いつ頃からという年代は、意味がありません。 先に書いた様に、幕末までの絵図には「大坂」が公式的な名称でした。 信長公記・太閤記・三河物語・播州赤穂浪士なども、大坂です。 明治以降の戯曲・小説は、歴史者の場合は「固有名詞の大坂城」を用いる作家が多い様ですね。 維新までは、「大阪」は明治以降の名称です。 歴史公証を考慮した戯曲・小説・解説書では、常識的に「大坂」です。

ytz500sec
質問者

お礼

ありがとうございます。勉強させて頂きました

その他の回答 (4)

  • dayone
  • ベストアンサー率79% (360/452)
回答No.4

「おおさか」という地名は、戦国時代以降になって史料に登場します。 上町台地の北端、今の大阪城のあたりに石山本願寺を創建した蓮如上人が1496(明応5)年に書いた手紙が、その代表といえます。  それには「摂州(摂津ノ国)東成群生玉之庄内、大坂トイフ在所」とある。 当時は非常に狭い地域を指す地名で、台地ということで”坂のある道”というほどの意味だったようです。 その後、本願寺の寺内町や大坂城の城下町が広がるにつれて「大坂」と呼ばれる地域が拡大し地名として定着したのです。 その大坂が「大阪」とも書かれるようになるのは江戸時代末です。 ※ 道標や灯籠の文字を逐一検討した林秀雄氏は、 「阪」の字を使った一番古いものは住吉大社の表通りにある石灯籠で、 1786(天明6)年の作だという。 そして文化・文政頃(1804年~1829年)には「阪」の字がかなり使われるようになったと考証している。 江戸後期の狂言作者浜松歌国が1808(文化5)年に執筆した『摂陽落穂集』には、 「ある人のいはく、大阪と書くに坂の字を用ゆること心得べし、 坂の字は土偏に反るといふ、土に反るとあるゆへ忌みきらひ、阜偏に書くべしとなり」とある。 そして次第に混用時代になる。 ※ <※~※『大阪の町名(清文堂/昭和52年発行)』より> もっとも、明治新政府が1868年に大阪鎮台<1868年(慶応4)正月22日大阪鎮台を設置したが、 これは5日後に大阪裁判所と改称。>や大阪府を設けた際には、どちらも「阪」の字を使っています。 新政府は当時の「慣用」をもとに役所の名前を決めたようですから「阪」の字ほうが多く使われていたのかもしれません。 公文書などで使われるようになって「大阪」の表記が一般化したのは明治10年代後半といわれています。 <おおさかなんでも質問箱 6年度作成分より抜粋> http://www2s.biglobe.ne.jp/~tbc00346/component/tyuu.html 余談 明治初期の混用の一例 『大坂橋名/大阪府學務課/明6.10』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765433 どっちか一つに決めろ!!とツッコミたくなる書籍です^^

ytz500sec
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • pasocom
  • ベストアンサー率41% (3584/8637)
回答No.3

WIKIPEDIA「大阪」によれば、 「明治維新後の1868年、新政府はもとの大坂三郷に大阪府を置いた。元来の「大坂」に代わって「大阪」が正式な表記となったのは、このころである。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA

ytz500sec
質問者

お礼

ありがとうございます。新たな疑問です。前から思っていたのですが、WIKIPEDIAのあのオッサンは誰なんでしょうか

noname#155097
noname#155097
回答No.2

引用ですが、 「この漢字の地名に関する最古の記録は、1496年、浄土真宗中興の祖である 蓮如によって書かれた御文の中に見られる「摂州東成郡生玉乃庄内大坂」 との記載である。もともと、蓮如が大坂と呼んだ一帯は、古くは難波 (浪華・浪花・浪速)などが地域の名称として用いられていたが、 蓮如が現在の大坂城域に大坂御坊(いわゆる石山本願寺)を建立し、 その勢力を周辺に伸ばすに及んで、大坂という呼称が定着した。 その語源は、大きな坂があったために大坂という字が当てられたという説があるが、 蓮如以前の大坂は「オホサカ」ではなく「ヲサカ」と発音されており、 諸資料にも「小坂(おさか)」と表記された例が見られる(日本書紀には烏瑳箇とある)。 このためにこの説は信憑性に乏しい。 蓮如以後、大坂は「おおざか」と読んだとされる。江戸時代、商人の伝兵衛が 海難事故でロシア帝国に漂流したとき、ロシア人には「ウザカ」と聞こえたと伝わっている。 従来「おさか」と読んでいたのを大阪駅の駅員が「おーさか」と延ばして言うように なったことから、「おおさか」と呼ぶのが広まったという説もある。 漢字の表記は当初「大坂」が一般的であったが、大坂の「坂」の字を分解すると 「土に反る」と読めてしまい縁起が悪いということから、江戸時代のころから 「大阪」とも書くようになり、明治時代には大阪の字が定着する。 一説に「坂」から「阪」への変更は、明治新政府が「坂」が「士が反する」、 すなわち武士が叛く(士族の反乱)と読めることから「坂」の字を嫌ったとも、 単に、役人の書き間違いから定着したともいう。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA >教えてgooは有料でしょうか? 質問も回答も無料です。

ytz500sec
質問者

お礼

ありがとうございます。教えてgooの件、感謝します

  • bakansky
  • ベストアンサー率48% (3502/7245)
回答No.1

Wikipedia の受け売りですが、江戸時代に 「大坂」 と 「大阪」 がどちらも使われるようになり、明治になって 「大阪」 が定着したとのことです。 また、類似の質問が下記にもありますので、参照されてはいかがでしょう。 → http://okwave.jp/qa/q1585516.html

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA
ytz500sec
質問者

お礼

ありがとうございます

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