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江戸時代の大阪の北平野について

江戸時代の大阪北平野とはどういう場所だったのでしょうか?(ちょっと調べましたが、江戸時代に入ってから、町人達は何処かに行ったみたいな記事が出てきたりしてよくわからなくなりました) またこの場所に住む人は、どのような身分(武士とか商人とか農民とか)の方が多かったのでしょうか?

みんなの回答

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5118)
回答No.2

>江戸時代の大阪北平野とはどういう場所だったのでしょうか? 今の、大阪市平野区平野北辺りですね。 >江戸時代に入ってから、町人達は何処かに行ったみたいな記事が出てきたりしてよくわからなくなりました 大阪(大坂)は、「太閤さん」ですよね。 大阪の陣では、「豊臣か徳川か」で多くの人達が二者択一を迫られました。 質問者さまもご存知の様に、大阪城炎上で豊臣は(表舞台から)消えました。 大阪・香川・高知・鹿児島など、秀頼・幸村の逃避行伝説が残っています。^^; 豊臣方に味方した者は、「徳川の敵」となりますよね。 徳川としては、士農工商から一段低い身分に落としています。 ※大阪市内の反徳川住民が住んでいた地域は、先ず上記の結果になっています。 その反動か、明治維新後には「徹底的に、徳川色を無くしています」よね。 大阪城近辺にあった華麗な東照宮(今は、小学校)も、跡形もありません。^^; 徳川が建てた大阪城天守閣跡には、豊臣の天守閣を真似た模擬天守が建っています。

noname#230414
noname#230414
回答No.1

平野北町。 織田信長が現大阪城にあった石山本願寺を攻めた時に平野郷の人々が本願寺の一向宗徒 に力をかした為、信長の圧迫を受け一部の人が逃れれ北のがこの地。 秀吉が信長が11年間の戦いでも落とせなかった石山本願寺の跡地に大阪城築城に際して 財力のある平野郷や堺の人々を必要として半強制的にこの地にい移住させたのがこの地。 平野郷の人々は故郷の北西に当たるこの地に「北平野町」と名前をつけ、枝町・野堂町 平野七名家。 平野北町。 番場町 生安氏。 泥堂町 則光氏→黒瀬氏。 野堂町 末吉氏。   流町  利則氏→三上氏。 背戸口町 安国氏。  西脇町 安宗氏。 市町  利国氏→土橋氏。 有名人。 坂上当道 (坂上田村麻呂の孫・坂上広野の子 広野が平野になったと言われている) 坂上行松 (平野行増・坂上広野の4代孫。平野7名家の祖) 平野隼人正利吉 (平野利吉 豪商) 末吉勘兵衛利方 (平野利方 豪商) 末吉孫左衛門利安(平野利安 豪商) 安井道頓  (道頓堀掘削した安井道頓説があり名から道頓堀) 坂上田村麻呂から続く平野一族。 末吉家は坂上田村麻呂の次男の家系で、秀吉の時代までは平野姓で秀吉により 末吉姓を賜り改名。 江戸時代に末吉家は、家康から朱印状を与えられてルソン島までに貿易を伸ばして 巨万の富を築く。 幕府より5万石の代官に任じられて商人で幕府直参旗本。 平野区は大阪24区で一番人口が多いので、江戸時代から豪商の手伝いしながら住んで いた平野郷の人々。 平野の町を歩きますと、そんな感じがします。

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