こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
まず、戦国時代のいわゆる西洋人、「南蛮船」の渡来以前には、北方系の人々が日本に住んだ、という記録があります。
蝦夷(えぞ=アイヌ)人や粛慎(しゅくしん=おそらくロシア系)人が現在の中部地方より北に日本人と同化して、と、言っても、荒地を開墾したりして地域にはあまり受け入れられずに「ひっそりと」暮らした、と言う記録が残っています。
さて、戦国時代となると、やはり、天文12年(1543)の鉄砲伝来からが記録としては一番良く残っています。
少し、重要な部分を経時的に見ていきましょう。
(1)天文18年(1549)、スペイン生まれのイエスズ会宣教師フランシスコ・ザビエルが薩摩(鹿児島)に上陸しカトリック教を広め始める。
ザビエルは、数年前にマラッカで日本人の八次郎(やじろう)という者と出会い、日本に興味を持った、と言われています。
(2)天文19年(1550)、種々の珍品を満載したポルトガル船が交易を求めて平戸(長崎県)に入港。藩主松浦隆信が上陸を許可。
(3)天文19年(1550)、ザビエルは平戸へ移り、一ヶ月で100人余りの日本人にカトリック教への改宗をさせる。
同年12月、ザビエルは京都に入り、信長の保護の下での布教活動を開始。しかし、ザビエルは京都の人々の堕落した生活に嫌気がさして、わずか11日で離京したが、京都での布教活動を開始したのはガスパル・ビレラ。
(4)永禄4年(1561)、平戸(宮の前)にて、生糸の取引を巡ってポルトガル人と紛争が勃発。藩主松浦隆信はポルトガル船の入港を拒否。
一方、京都では、信長の保護の下で「礼拝堂(南蛮寺)」の建設が開始される。
(5)永禄5年(1562)、平戸から退去を求められたポルトガル船に対して、大村藩(現:佐賀県と長崎県の一部)大村純忠が横瀬浦への寄航を呼びかけ、横瀬浦を東西に二分し、半分を教会領とし、教会の許可のない者(異教徒)の居住を禁止し、10年間は交易による免税をする。
(6)元亀元年(1570)、大村藩とイエスズ会の共同で「深江の浦(長崎)」が南蛮船の寄港地として最適との判断で、町割りを行う。
町割りは翌年完成。新たに、「嶋原町」「分知町」「大村町」「外浦町」「平戸町」「横瀬浦町」が誕生し、南蛮人に開放される。
(7)元亀3年(1572)、この南蛮人居住区では、14~15歳以上の女性との「同棲」を認めたため、私生児が多数生まれる。
「わずかな金で自分たちにとっては最大の悦楽だった」
と、フィレンツェ出身の商人フランチェスコ・カルレッティは、その著「世界周遊談」で述べている。
(8)天正10年(1582)、大友、大村、有馬の3人の大名が4人の少年使節団をローマへ派遣する。
同年6月2日、信長、光秀により討たれる。
(9)天正15年(1587)、少年使節団帰国。
(10)天正18年(1590)、秀吉、突如として「バテレン追放令」を出す。
(11)天正19年(1591)、少年使節団が聚楽第で秀吉に謁見。秀吉は西欧事情を聞き、持ち帰った西洋の楽器等に興味を引く。
(12)文禄3年(1594)、秀吉、醍醐の花見で仮装パーティーを開き、南蛮服の着用を命じる。
同年、イエスズ会とフランシスコ会が対立。
(13)慶長元年(1596)、イエスズ会が在日フランシスコ会の全員を追放。
(14)慶長3年(1598)8月18日、秀吉死亡。
(15)慶長5年(1600)4月19日、イギリス船リーフデ号が豊後(大分県の一部)の臼杵に漂着。
5月12日、航海士として乗船していたウイリアム・アダムスと徳川家康接見。アダムスは帰国を願い出るも、家康が気に入り帰国を認めず。
家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めることが多かった。また、この時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の幕閣に授けたとも言われている。
(16)慶長7年(1602)頃、帰国を諦めつつあったアダムスは「三浦按針(みうらあんじん)」と名乗り、日本橋大伝馬町の名主で、家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘、お雪(マリア)と結婚した。彼女との間には、息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれている。
(17)慶長9年(1604)、「糸割符(いとわりふ)法」を制定し、京都、堺、長崎の商人にポルトガル船との生糸の一括購入の特権を与える。
(18)慶長13年(1608)、家康の書簡と進物を乗せて「占城(せんじょう=ベトナム)」に向かった御朱印船が、途中のマカオでポルトガル人と衝突。アンドレ・ベッソーア率いる守備隊に全員射殺される。
(19)慶長17年(1612)、家康、キリスト教禁止令を出す。
(20)寛永10年(1633)、奉書船(渡航が許可された船)以外の海外渡航を禁止する。
(21)寛永12年(1635)、日本人の海外渡航と帰国を禁止する。
(22)寛永13年(1636)、長崎生まれのポルトガル人との混血男女287人をマカオに追放する。
(23)寛永14年(1637)、島原の乱。
(24)寛永16年(1639)、ポルトガル船の来航を禁止する。
(25)寛永18年(1641)、オランダ商館を平戸から長崎の出島に移す。
ある程度の「居住地の制限」などはありましたが、やはり、南蛮人も日本人も人間ですので、「同棲」や「結婚」などは結構行われていたのです。
ただし、あなたの言われる「農民」としての暮らしは、ほとんどありませんが、農地を借りての「家庭菜園」程度の生活はあったと考えます。
>>そういった方はどういう目的で日本で暮らしていたんでしょうか。
当初は、布教活動が第一でした。しかし、やがては、商人として交易に力をそそぎました。
>>物珍しい目で見られたりとかしたんでしょうか?
当然、赤色の髪をした南蛮人は、物珍しく、恐れおののく人々が多かったと思います。
しかし、取引をする商人たちは、次第に慣れていったことでしょう。
>>言葉とかは?
これは、日本人が海外生活をすると、自然と、現地の言葉を話せるようになるのと同じで、南蛮人もカタコトの日本語を、日本の商人たちもカタコトの外国語で話したと思います。
長くなって「ごめんなさい」・・・。
お礼
お友達の外国人も日本語や歴史をすごく熱心に勉強してます・・・。 やっぱり今も昔も海外から来てる方のが言葉や歴史に対して勤勉・・・勤勉・・・・・。 私変な日本語教えてないかな・・・(;一_一)とかちょっとイタイとこつかれちゃいました・・・ 鎖国してから~の話はよく聞きますが、鎖国する前はどうだったんだろうね~ とその子と話ていて調べてみてやっぱりよく聞くのは鎖国してから・・・それこそ追い払って…の話のが断然多いので ■西洋文化に興味を持った大名などに迎えられて、そのお膝元である城下町に主に住んでいたようです ■戦国~江戸初期までは、外国人は物珍しがられたり、 恐がられたりしながらも、やがて親しみを持たれてお付き合いするように~ のお話を聞いて鎖国する前は結構仲良くやってたんじゃないのかな? と、思えました! またお尋ねください、とか 凄く心強いです!ありがとうございます!