• ベストアンサー

江戸時代 麦湯の原料の大麦、産地は?

江戸時代 麦湯の大麦はどこから仕入れていたのでしょうか?  産地と、どのように江戸へ運ばれていたのでしょうか?。 大名が飲んでいた麦湯は、どのように町人衆に広まったのでしょうか? 江戸時代の麦湯の歴史を、詳しくお願い致します。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#224207
noname#224207
回答No.2

>麦湯の大麦はどこから仕入れていたのでしょうか?  年貢米を扱う札差などは限られていましたが、大麦などを扱う穀物問屋と言うのが沢山ありましたので、江戸や大阪などの市街地ではここから仕入れることになります。 >産地 大麦は稲作の裏作作物として盛んに栽培されていました。 大麦は小麦とは違い粉にしないで粒のまま食べられていました。 米に比べて味が落ちることから米の増量材として米に混ぜて食べられました。 いわゆる麦飯です。 米がなければ、現在のオートミールにようにお粥にして食べていました。 又、雑炊と言って色々な野菜を鍋にいれて囲炉裏で煮込んだものがよく食べられていました 米が換金作物だったことから、農村部では主食の大半が大麦でした。 大麦は極めて古い作物で奈良時代にはすでに全国に普及していました。 >どのように江戸へ運ばれていたのでしょうか? 大麦など俵に詰めた重量物は船で運ばれていました。 租税すなわち年貢として米が使われていましたので、これを換金するために大阪や江戸へ運ばれていました。 このために、全国の主要都市特に城下町には外洋に繋がる大型河川に出るための水路が必ずありした。 高瀬舟と呼ばれる小型の船が使われていました。 参考 高瀬舟 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/高瀬舟 復元した写真があります。 大型河川に入ると平田舟と呼ばれる帆走できる船に積み替えていました。 更に外洋へ出るには弁才船と呼ばれる大型船に積まれて江戸や大阪に運ばれました。 >大名が飲んでいた麦湯は、どのように町人衆に広まったのでしょうか? 麦湯はこの大麦を煎じたものですので、古くから庶民に普及していました。 むしろ緑茶よりも普及していました。 農民にとっては産地が限られる緑茶よりも身近な飲み物でした。 >江戸時代の麦湯の歴史を、詳しくお願い致します。 江戸時代の麦湯の歴史と言われましても、古くから庶民に普及していた飲料ですのでさしたる歴史はありません。 風俗としては下記のような形態があったという程度です。 参考 江戸食文化紀行-江戸の美味探訪- no.87「麦湯」 - 歌舞伎座 www.kabuki-za.com/syoku/2/no87.html

miyuu16
質問者

お礼

詳しいご回答、ありがとうございます。 穀物問屋で大麦を仕入れていた事は知りませんでした。 その他、高瀬舟・参考まで記載があり、とても解りやすかったです。

その他の回答 (1)

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.1

すいません、麦湯の歴史は全く知りません。 ですが大麦は典型的な裏作植物ですので、瀬戸内海沿岸及び九州で盛んに栽培されていたはずです。 江戸への回送ルートとしてもっとも典型的なのは、九州→下関→(北前船)→大阪→(菱垣廻船)→江戸と海路運ばれるのが一般的なルートだと思われます。

miyuu16
質問者

お礼

早々のご回答、ありがとうございます。 栽培されていた場所、九州からのルートがよく解りました。