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哲学研究の意義とは
- 哲学研究の意義について考えてみました。
- 研究は問題を明らかにすることで何かに貢献できると思いますが、哲学の分野ではその意義がよく分からないです。
- 自己満足だけなら研究論文として表現する必要はないと感じますが、研究費の取得には意義が書かれているのか疑問です。
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>研究の基本は、何か明らかにすべき問題があり、それを明らかにする事によって、何かに貢献できる。ということが、物事を研究する意義である >自分の好きなことを勉強するだけ、自分の知識を増やすだけなら、研究論文として表現する必要はなく、そういった研究職でなくても良い訳ですよね。 質問者様のご質問の趣旨は、大学では実学だけをやっておればよいのに、というお考えでしょうか。 実学でない大学は文学畑以外にも美術大学、音楽大学などがありますが、これは如何お考えでしょうか。美術も音楽も今じゃビッグビジネスの可能性があるから別だ、と仰りたいのでしょうか。文学だって、たとえば村上春樹とか儲けがしらがいますが。 大学とはいちに研究機関であり、世の叡智の保護と育成システムとして発達した経緯があります。現在の日本は営利追求の株式会社になっていますが、これは本来の姿ではないと思います。 つまり、世にはまれな大天才が安心して象牙の塔にこもって存分に力を発揮し、その成果を残してほしいという、社会に対する貢献が大学機関の一義的な存在意義だといえます。ただ、短期の簡単な経済的成果を計算するのは多くの場合不可能に近いでしょう。 文学、歴史学、哲学研究の意義とは、これまで人類のなしえなかった知の構築ということでしょう。後世の人類はそれらの研究の成果を読み、研究することによって、更なる叡智の高みへ登る可能性を持つわけです。世俗的な成果、貢献だってあります。サルトルの構築した実存哲学は世の多くの知性に人生の真実のなんたるかを実感させましたし、そのことでノーベル賞(文学賞)を授与されました(辞退しましたが)。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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#6,10,12,13,14です。 煩くてすみませんね。 ご質問の【哲学研究の意義】という語並びに頼って、投稿したものですが、真意が伝わらないとは申し訳ない。 いろんな哲学があるのでしょうが、http://okwave.jp/qa/q6080113.htmlにおいて(#12 、13)、哲学として認められない事柄について一応の思いを書きました。 研究室の哲学というのがどういうのか、出隆や三木清、阿部次郎や倉田さんいいと存じますが、訓古や学術的というのは余り意義性があるとは認められません。ということなんですが。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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onewayanovさん #3です。お礼欄のコメントを拝読しました。 真意ということのほどはありません。 このことについてはonewayanovさんに身柄を預けるが如くに、駄弁を弄しました。と付け加えます。 お眼とお時間を煩わせ恐縮の限りです。と申し上げて更なる追加補足から逃亡します。 只、普遍である人間の各人の哲学は各人に言語も紡ぎも全部違いますよね。 まぁそれが故にonewayanovさんのvibrationとは違う世界であったのでしょう。 そして友人達である、市井に隠れている生活哲学者の例を、まぁご参考に話頭を提供しました。 私も床屋談義の愛好者として、結局65年以上も離れられないで街角にたたずんでいます。 そういう具合に、それぞれがそれぞれの哲学で、結局生まれてきた人間のそれぞれの課題なのだろうと存じたことを分ってもらいたかったのです。 onewayanov先生の謦咳にも一度は接し、感激インスパイヤーされたいと願っています。 もしよろしければ、HPなどもご紹介賜れないでしょうか。 五体満足で、夏中はほとんど山中にて過ごしたこの身も今は東京を離れる事がなくなり、都内か近郊であれば一笠一蓑を身に、一杖を引いて老躯(自分)を連れて行きたい杜と存じます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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onewayanovさん、受付中ですか。 http://okwave.jp/qa/q6070243.htmlに私も投稿しております。 多少てつがくについて思うことを私も愚答投稿しております。 或いは私の愚答はともかくとして、お眼を通されておられるかも存じません。 先ほどNo.10の投稿通知を受けました。ご投稿はよく判ります。暖かいと存じます。 どういうわけで、哲学に首を突っ込んでいるのか、それなりのいわくはありましょうし、私の狭隘な視角のせいかもしれません。 でも私には哲学に向いている人、そうではない人というのはやはりあるものだと、自分を含めて思わざるを得ません。 人間としてのやること、最終のことは誰でもやるのだと存じますが、欧米人的な方やご紹介申し上げた質問では欧米人の思考的哲学にも自分がいないのだと思います。 哲学はおしゃべりで遊びですが、無目的でもサロンでもありませんでしょう。 そのしゃべくりと遊びに命がかかっているのだと存じます。 只管打座ではしゃべくりもありません。臨済のしゃべくりも崖淵の域の事項ですね。 私ども凡夫には及びません、ただこつこつです。 専門家を避けての道選びでした。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私の勉強不足でしょうか、あなたのご回答の真意がまだ分かりません。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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onewayanov氏の文章はメリハリがあるから人に伝えることに、努力されてきているのでしょう。 でも哲学が上等という潜んだ意識があるとは、全く感じませんでしたね。 むしろこまっちゃたな、っていう気持ちが流れてきた感じですね。 そうかなぁ? イエスや仏陀や孔子ですが、我が家に二、三日毎の来訪神の野良ちゃんや、毎朝の雀さんたちより上等だとは少しも思っていないでしょうね。 私が彼らに自己を投入すると、どうも勝手が分らなくなるので直ぐ出てきます。 でも私も彼らに自分を意識します。イエス達もきっと同じように上等や下とかの意識はないんでしょうね。 どこにもいるようになってしまっていると存じます。
- Mokuzo100nenn
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#7です。 >哲学研究者だって、哲学が勉強したくて、大学に入り、大学院を修了し、狭き門をくぐって、学者になったんですから。 この後に省略されている部分が重要ですね。「~から、学歴も無い大工なんかと一緒にされたくない。」ってのが見え隠れします。俺たちは学者なのだからタクシーころがしてる人間より上等な人間であって、上等な人間に対しては政府が血税をつかって贅沢な研究生活を保障するべきだ。そんな自己中心的な主張を明示的にされることはないでしょうが、そういう考えが見え隠れしますね。 まあ、質問者さんが素直な性格だって証明ですから、これ以上苛めませんけど。 今タクシーで人を運んでいる元基礎工事のおっさんと、哲学研究者の質問者さんとどちがら世の中の為に役立っているか? 拙者は、上等ってのはどういう事か自分なりに哲学した結果、上等と言う言葉で人や物を評価することにしたのだけれど、質問者さんは「上等な職業」ってのをどう定義するのか、一度、哲学してみてほしいですね。研究が忙しくて哲学する暇なんてないですか?
お礼
ご回答ありがとうございます。 職業についての、上等・下等や学歴について言及はしていませんが、そのように受け取られたと反省をしています。 大工は大工になりたくて、大工になったのではないのですか?哲学者は哲学者になりたくてなったのではないのですか?そして、哲学者はたまたま、血税を頂いて、勉強させてもらっているだけではないのですか? その是非に関しては、何とも言えません。良いか悪いかは言えないです。現にそれで生計を立てている方がいるのですから。それを妬んで文句を言うつもりはありません。悔しかったら、その状況に身を置けるように努力するだけです。 自分がその状況に満足しているのは、その状況を本人が望んでいるからでしょう。それ以上でもそれ以下でもないと思いますが。 あと、誰がどのようにどの程度、世の中の役に立っているか?ということも別に主題としてはないですが。人に役に立っているなんて思うのは、思い上がりでしょう。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.6 普通は研究開発という語の並びに為りますよね。 そりゃぁアカデミックに研究の為の研究も、そして基礎研究も大事ですが。 なまじっか、 1. 今日における哲学の意義と目的 2. 人類にとっての哲学の意義と目的 とかいえば、必ずなんなおかしな方向に走っていったのが、戦前戦中を含めての私達の経験でした。 そんなものなどは無論いやですね。でもあの戦前でさへ、必ずしも価値観の統一とはなっていなかったことも私達の知るところですが。 もうかれこれ60年前、高校という新しい世界に入ったら、あの大和屋竺などがいておっと、思いました。 彼は人間の目的、人間のためという愛が基底でありました。 悠々として、迫るところのない、受け入れ、且つ、育む奴だった。 更に同じ荒川と隅田川の間の地域の文人の遊ぶ(遊興ではない)向島の高校に入ると、放浪の哲学者がいた。 今まで会った奴の中でもっとも実践的。 彼は気迫と精神の磁力の男。今までも、今も余りに人に無関係な哲学である。高踏といえば高踏。阿呆といえばそう。 民衆には無関係だ。この世に民衆でない人はいない。(彼は自己自身の呼称、一人称をなんといったか?そう一人称を使ったことが私には記憶されていない。) 自分は民衆の哲学を志す。彼は相手に対して、外部の人間として語り掛けない。 いつも眼前の相手として語る。そういう奴がいた。 今も仙人でいるが、かれが達成する事が人類が達成する事になっている。そういう奴がいた。 下手すると哲学よりも宗教に傾くが、彼はそれを常に意識して用心していた。 極く普通の当たり前として、市井に隠れる。 私は彼の生きる事は、学としての哲学ではないが、哲学の姿だと今も思っています。
- ok9608
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研究機関、とりわけ税金で成り立っている研究は 国民のため 世界の人に役立つものでないと 納税者の立場から OKするわけにいきません。哲学も勿論含まれます。役立つの意味は 多義にわたりますが 個の命を奪うとか種の延命を絶つとか いうのは 役立つとは言わないでしょう。1年のちに役立つのか、30年のちに役立つのか 色々でしょうが 役に立たない のは 問題と思います。では 哲学研究は どう役立っているか、私は、税金を使っている研究者から 納税者に分る言葉で 聞きたいところです。私の経験では 研究者は なかなか 役立っているところは 喋ってはくれないのです。哲学は 全ての学問に深くかかわり あるいは 人生あるいは将来の糧にもなる 役立つ ものと思っています。多くの人は 結局は研究者の最新の成果を知るのではなく 古典的(評価の決まった)哲学書を参考にして 自分流の哲学を創っているのではないでしょうか。
- kobarero
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>→新しい概念を作るのは何のためですか?新しい概念を作ることによって、どうなるんですか?何に貢献するんで>すか? 人類が他の生物と違う点は「歴史を創る」ということです。新しい概念が歴史を創ります。どの分野でも同じですが、先人の落穂を拾うか、新しい道を開くか、そのどちらかしかありません。どちらを選ぶかは自分と相談して決めます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「歴史を作る」確かにその通りと思います。 「本研究は新しい概念を作る事を目的として行われた。それは、新しい概念を作ることによって、人類が歴史を築いていくことに寄与できるからである。」現在の学問の主流はこのような事を主張して、認められるのですか?研究費がおりて、学者として生業を立てていけますか? そして、「新しい概念・歴史を作る」という事の必要性はどのように主張できますか?何か、新しい概念・歴史を作る事を迫られているのであったり、困っている人がいるのですか? 自分がまだ、答えられないので聞いてすみません。
- Mokuzo100nenn
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>日本政府のサービス精神ですか。それで、食べていけるのは贅沢ですね。 そうなんだよ。若いくせに苦労したくなくて、贅沢したい人達が殺到して入口だけは競争が激しい。 だから一旦その贅沢な地位を手に入れた哲学研究者には、ほとんど、廃業・転業ってのがないでしょ。 地位に安住しておれば一生贅沢な人生が保障されるわけだ。でも、この状態で真の哲学をする動機がでるかね。 痩せたソクラテスではなく肥った豚になっちゃったんですね。 むかし偉い先生が卒業式で「肥った豚になるより、やせたソクラテスになれ!」って説教したのに、効果無かった。 それに比べると大工なんて厳しい職業だから廃業・転業、多いもんだよ。 こないだもタクシーの運転手さんと話が弾むものだから聞いてみたら、つい最近まで基礎工事屋だったと。 タクシー運転手さんで哲学の教授から転業してきたっての、未だ嘗て遭ったことないしね。 哲学の研究者ってのはよっぽど楽チンなんでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 哲学研究者と大工とタクシー運転手を同列に扱って、議論しても仕方ないと思いますが。 哲学研究者だって、哲学が勉強したくて、大学に入り、大学院を修了し、狭き門をくぐって、学者になったんですから。 廃業・転業が多くても、大工を選んだんですから。その人が有能なら、競争を勝ちぬいていけると思いますが。 そして、なぜ、哲学研究者からタクシー運転手に転業する話が出るのですか?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ご研究の方達の受けるご質問であり、自分達へのご疑問でもあるのでしょうね。 お気づきのことと存じますが、一応思い浮かぶ事を書いてみます。 1. 国や政府としては、国や世界、そして人類の文化における意義性ですよね。 文化的意義性の判断は多様な次元と、先見性ということも考慮するのでしょうね。 行政の事務官もそれなりの勉強もするでしょうが、専門のことは専門でないと判らないですよね。 それが社会や社会生活など法律の思想などですと、床屋の市井ひとも論議に参加できる場面もあるでしょうが難しいでしょうね。 哲学は私のような町の好事家もいたりして、素人談義に加わる事もありましょうね。 専門家はやはり専門分野での文化史的意義性なんでしょうが、中には部外者が首をかしげる事もあるでしょうが、事務官は一定の要件が調えば通すでしょう。 だから社会や国としては確かに問題のことも多いでしょう。 決して世にも出なく、人にも文化にも役立つか意義性があるか、おかしなものもありうると存じます。 これは仕方ないですね。システムがしからしむるところですから。 意義は多元的ですから、その判断の是非性を論ずると、学究と学会を萎縮させますね。 2. 神の見えざる手で、自己の満足でしかないのではないかというものも、意外と意義があるかも知れない。 (1)哲学もそのある哲学の研究も非常に個別的、個人性、その人限りですものね。それはツールとしての言語さへ共通でもないし、一義的ではありませんよね。 (2)紹介と角度や視角の摘示となる機能をもたらすかもしれませんね。 (3)解釈の仕方を示してくれるかもしれませんね。時には素人にはばかばかしいものもありましょうが。 (4)理論の深化や補充、改善、進化をもたらすかも知れませんね。 (5)それにしても哲学の研究への助成って、何でしょうね。何か新たに開発もしている様子がないし。 ぐちゃぐちゃ理屈をこねくりまわしても意味はないと思いますが。 思想的意義とか哲学的意義って何でしょうね。これから先、どうなっていくのでしょう。今のままなら。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >意義は多元的ですから、その判断の是非性を論ずると、学究と学会を萎縮させますね その通りだと思いました。ありがとうございます。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに、芸術部門の大学も検討すべきでした。そういった学問こそ、高尚だと思います。 私の主張は決して、営利や生産性を追求する・しないではないです。 私の専門は医療系の分野でして、ある命題を研究することが、患者を含め人々の生活に貢献するといった大義名分があります(そんなものの多くは自己満足ですが)。そういった世界にいると、それを研究することが果たして、何の役に立つのか?と考えてしまいます。それは、決して経済的な貢献ではないと思います。 「更なる叡智への高み」を目的として、研究を行っても賛同を得られにくいのも事実です。患者や人を対象とした研究をすれば尚更です。常に、「それをしてどうなるの?」「何の役に立つの?」と問われます。その問に対する理論武装がまだ出来ていないのか、私の属する分野が学問的に成熟していないのか。答えは分かりません。