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スポーツの道具研究に関する情報を求めています
スポーツの道具について研究されている研究者や大学の研究室、書籍の情報を探しています。 主に人文科学(思想・哲学・行動科学等)からみた道具と人間の関係について、スポーツの道具の意義や有用性、根源の研究について参考となるものを教えてください。例)マルティン・ハイデガー「芸術作品の根源」等 よろしく御願いします。
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質問者が選んだベストアンサー
どなたも回答なさらないようなので、素人ながら、私のささやかな経験にもとづいて回答させていただきますね。 「道具」論やその起源論となると、もしハイデガーの『芸術が作品の根源』及びその存在論的な拠り所としての『存在と時間』を超えて面白い文献があるなら、私の方こそ是非教えていただきたいと願わずにはいられません。 ただ、ハイデガーの場合、最初から「道具」よりも「芸術作品」の方に優越性、特権性を認めようとする姿勢がミエミエで、まあハイデガーらしいとはいえ、ちょっと鼻につきますよね。 と言うか、《道具の実用性》と《芸術作品の無用性》などという単純な二元的図式に囚われるなんて、ちょっとハイデガーらしくもないような気がします。 「スポーツの道具」性について考える上では、身体の現象学考察の嚆矢としてのメルロ=ポンティ著『知覚の現象学』が大いに参考になるのではないでしょうか。 槍にしても、弓にしても、刀剣類にしても、われわれの身体の一部の運動機能を拡張しようとして、その延長線上に誕生したはずでしょうから。 あと、体育学の専門書ということなら、金子明友著『スポーツ運動学―身体知の分析論―』なんかはいかがでしょうか。 なお、これはハンティングを愛好する者の勝手な押し付けになるやもしれませんが、オルテガの『狩猟の哲学』も、もしかして何かのヒントになるかもしれません。 ところで、申すまでもなく、「スポーツ」にしろ、芸術にしろ、もともと《生活の必要》に発し、本来それを充たすための手段(=道具)だったはずなのに、いろんな事情があってその手段が自己目的化したときに誕生したと考えるしかないような気がします。 たとえば、アーチェリーや射撃といった射的競技の場合、本来戦争に勝つため、敵を殺害するため、あるいはの食料を獲得するためという《生活の必要》に迫られ、日頃からトレーニングを積んでいるうちに、いつの間にか、もとの《生活の必要》を起きざりにし、ひとえに標的に命中させることだけが自己目的化したとき、それが「スポーツ」になったということです。 そして、いわゆる芸術的価値についても同様でしょうが、後世、この《生活の必要》から派生し、自己目的化した「スポーツ」を何とか権威づけ、正当化するために、勝手に《心技体の陶冶》とか何とかと苦し紛れの意義づけをしながら今日に至るのではないでしょうか。 もっとも、私などは、首尾良く狙っていたゲームに命中させたとき、思わずガッツポーズが出ますが、はたしてこの喜びは、計算通りに銃弾を獲物の急所に中てられたことに発するのか、はたまた、これで今晩妻子を飢え死にさせずに済むという安堵感に発するのかと問われると、とても後者から発するとはとても申せません。
お礼
kadowakiさんお礼が遅れてしまい大変失礼しました。gooから回答があったという通知が来ないな…と思い続け、今の今まで諦めてずっと見過ごしていました。回答ありがとうございます。 まず、教えて頂いた書籍で「知覚の現象学」以外は初めて伺う本なので読んでみたいと思います。 狩猟用道具についての指摘はおもしろいです。道具の有用性の観点でいうなら、現代では狩猟道具がkadowakiさんのいう《生活の必要》からは大分ズレてしまっているというのはその通りですね。獣を狩る行為で狩猟というなら、その道具は現代では《生活の必要》からは一般的とは言えないのかもしれません。ですから、漁業とその道具類が現代でも発展し続けているのに対して狩猟道具の発展性?が気になるところだし、狩猟道具が現代にとって有用といえるのかどうか論点になりそうです。でも、獣を間引くとか、娯楽、という有用性しか思い浮びませんが…。 自己目的化の末の、スポーツや芸術やその他の道具と物たち…というところは、私が解釈したところでは行為や道具の学術的な差別化や分類化ということなのかなと思いました。つまり世界に名前を付けるということかなと思いました。 《生活の必要》は私にはなかなか難しいですが、自己目的化と正当化というのはけっこうすごいことだと思いました。既にスポーツ的なことをしていた人達は、それがまだ漠としているけど彼らにとっては《生活の必要》だったものに、スポーツや芸術という概念を構築して共有できる世界を創造するというのはけっこう素敵です。現代でITの世界を見出したみたいに、人間にとって世界の創造はずっと果てがないのだろうなと思いました。はじめは自分だけの《生活の必要》だったものが、他人の《生活の必要》になっていくんだろうなと改めて考えました。