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非英米系哲学研究者の胸中について。TT
こんにちは。 この質問でお尋ねしたいことは、 (1)非英米系哲学研究の学者の方々が研究としてなさっていることとはどんなものであるのか?真の学問?それともただのお勉強? (2)自然科学化された哲学に対して何を思いつつ自らの研究をなさっているのか? (3)哲学科の学者は、数学や論理学をどのように受け止めているのか。 (4)学問としての哲学にはどのような道が残されているのか? といったことです。 20世紀を経て今の哲学には自然化の波が押し寄せ、認識論が自然科学の学問に下るのではないかという悲壮的なムードが漂っています。 英米系の人たちは、最先端の論理学や数学を駆使して、伝統的な哲学に対して次々と否定的な評価を下しています。 さて、このような情勢の中で伝統的哲学を専門とする学者の方々は、どのような思いでご自分の研究をなさっているのでしょうか? また伝統的哲学に含められない哲学であっても、論理学の色が薄い哲学者(浅薄な知識ですので的確ではありません。フッサールやガダマー、デリダやレヴィナスなどでしょうか)を研究されている学者の方々は何を思って研究をなさっているのでしょうか? 近代やそれ以前の哲学者を専門とされておられるような大学の先生方のなかには、「大学教授のやっていることはお勉強に過ぎない」と卑下される方もいらっしゃいますが、なかには哲学者としての矜持をもって取り組んでおられる方もいらっしゃいます。 しかしながら、数学者や論理学者らがもっている道具を持たずして、今後の哲学を切り開いていくことは難しいのではないでしょうか…?そういった道具を身に着けずにができることと言えば、もはや昔の哲学者のお勉強に過ぎないのではないでしょうか…? いかがでしょうか?TT 例えばフッサールの生活世界に論点を当てて論文を書いておられる研究者、アクィナスにおけるなんとかとかいうラテン語の単語について論文を書いておられる研究者、こういった方々は、英米系の論理ワールドを見て何をお思いになるのでしょうか? それでもなお哲学者だという矜持を持てるとしたら、それはなにに依っているのでしょうか? お願いします。
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「私は、理系の人間で、哲学の専門家ではない」ということを前置きして、この質問に答えます。 ☆(1)非英米系哲学研究の学者の方々が研究としてなさっていることとはどんなものであるのか?真の学問?それともただのお勉強? ◇私は理系人なので、自然主義と実証主義に立脚する英米系の分析哲学に対して強いシンパシーを感じます。 そして、伝統的な哲学は、形而上学の枠を超えていないように見えることがあります。 記号論理学や自然科学に支えられている英米系の分析哲学は、強力な上に、強い説得力を持っていますので。 しかし、 分析哲学が我々の抱えている哲学的な諸問題のすべてに答えられるとは思わない。 善とは何か? 正義とは何か? という極めて人間的な問題について明確な答えを与えてくれない上に、 自然主義という立場ゆえに、 魂や神という領域に踏み込むことができない。 それに、 分析哲学は、Whyの哲学じゃなく、Howの哲学なんだよね~。 であるから、 「人は、何故、生きるのか?」 「人は、何のために生きているのか?」 といった問題に答えられないのですわ。 そして、これは分析哲学の宿命的なものなのでございます。 自然科学に接近すればするほど、こうした問題から遠ざかってゆく・・・。 ☆(2)自然科学化された哲学に対して何を思いつつ自らの研究をなさっているのか? ◇現在の哲学は、英米系の哲学に関わらず、自然科学的な知見を無視しては成り立たない。 入れているんですよ、自身の哲学の中に自然科学的な知識を。 ☆(3)哲学科の学者は、数学や論理学をどのように受け止めているのか。 ◇論理学は、もともと、哲学の一分野だから(ポリポリ)。 古くから、多くの大哲学者が論理学の研究をしており、著書として著わしているのであった。 ですが、かつて哲学の一分野であった論理学は、数学畑出身の哲学者(?)によって侵食されている。 東大数学科出身の哲学者がなんと多いことか!! ☆(4)学問としての哲学にはどのような道が残されているのか? ◇英米系の分析哲学も、所詮、哲学の一分野に過ぎないよ。 言いたいことはわかるのだけれど、これは質問として、すこし、おかしいのでは? (1)で述べたように、分析哲学で扱える領域は、おのずから制約されている。 分析哲学ではうまく扱えない領域を研究するというのも、一つの道でしょうね。 ☆20世紀を経て今の哲学には自然化の波が押し寄せ、認識論が自然科学の学問に下るのではないかという悲壮的なムードが漂っています。 ◇仏教(哲学)なんかは、逆に勢いづいている。 「仏教(の認識論)、やっぱ、スゴイわ。我々の先をいっている」なんてことをいう日本の認知工学者がいたりするのであった。 ☆英米系の人たちは、最先端の論理学や数学を駆使して、伝統的な哲学に対して次々と否定的な評価を下しています。 ◇これは哲学に限らず、どの学問分野についても当てはまること。 学問の進展は旧弊の衣を脱ぎ去るところから始まるのであって、一所にとどまっていては何も新しいものは生まれない。 であるから、 この事態は、むしろ、歓迎すべきことなんじゃないかな。 ☆さて、このような情勢の中で伝統的哲学を専門とする学者の方々は、どのような思いでご自分の研究をなさっているのでしょうか? ◇「英米系の分析哲学なんて・・・」と思っているんじゃないの(笑い)。 ☆また伝統的哲学に含められない哲学であっても、論理学の色が薄い哲学者(浅薄な知識ですので的確ではありません。フッサールやガダマー、デリダやレヴィナスなどでしょうか)を研究されている学者の方々は何を思って研究をなさっているのでしょうか? ◇ここに登場するフッサールは、数学畑出身ですがな。 そして、フッサールの立てた現象学は、英米系の分析哲学と鋭く対立しているのであった。 ☆しかしながら、数学者や論理学者らがもっている道具を持たずして、今後の哲学を切り開いていくことは難しいのではないでしょうか…? ◇ロゴス(論理)としての哲学でない、パトスの哲学なんてのもありうるんじゃないですかね~。 ニーチェの哲学なんて、まさしく、パトスの哲学だと思いますよ。 人間はロゴスだけで生きていない。ドロドロとした、ロゴスよりもより根源的な生の衝動なんかに基づく哲学があったっていいじゃないですかね~。 ロゴス、論理学・ロジックに対抗する、修辞学・レトリックの哲学があったっていいんじゃない。 土台、人間の行動のすべてを自然科学に還元できるなんてことは、できやしないし(ニコニコ)。
その他の回答 (3)
- doc_somday
- ベストアンサー率25% (219/861)
あなたは英米系の「哲学」を上位に置いているが、その理由は何だ? 英米系の「哲学」は「科学」に乱打され「プラグマティズム」に 閉じ込められてしまった。 元々「科学・技術」の「花園」に圧倒されてきた、既に「科学哲学」 以外の分野では「喰えない」 欧州の哲学は今でも続いているが「イエズス会」から「リベラルを護る」 のが第一義だった。 今はその使命を忘れつつある。イエズス会は「集団・会社」だから死なない、 教皇は大迷惑だ、現在のカトリック教会はどうやったら科学と共生出来るか を真面目に考えている。 だから「聖書」至上主義のイエズス会はテロリスト扱いだ。 なおフッサールは、あなたに「人文」の才能が無いと、悲惨な結果になる。 私は4ページ読んで本棚の「意味無し」の分類に突っ込んだ、原著か 訳者か、私か誰が悪いのか、全員が悪いのか「何言っているのか、既に 撞着していないか?」
- Mokuzo100nenn
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「私は、元々理系の人間で、哲学の専門家ではない」ということを前置きして、ご質問の一部に回答します。 (3)哲学科の学者は、数学や論理学をどのように受け止めているのか。 素朴集合論とブール代数を駆使すれば300ページの哲学書を10ページぐらいに要約できる可能性があり、著者自身の自然言語に依存した部分を極小化出来るので、英語やドイツ語、フランス語などがそれほど得意でないモノにとっても、哲学的な言論の中枢に立ちあがる可能性があると思います。 (4)学問としての哲学にはどのような道が残されているのか? 第一の道は、歴史学の一部として細々と税金を使う道。 第二の道は、みんなが分からない様な難解な分野を難解に論じて、一人で有頂天になる道。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
>「例えばフッサールの生活世界に論点を当てて論文を書いておられる研究者、アクィナスにおけるなんとかとかいうラテン語の単語について論文を書いておられる研究者、こういった方々は、英米系の論理ワールドを見て何をお思いになるのでしょうか? それでもなお哲学者だという矜持を持てるとしたら、それはなにに依っているのでしょうか? お願いします。」 いいんじゃない? 研究者で。
補足
お返事有難うございます。 とても興味深いご回答に続けて、もう少しお話を伺えないでしょうか? 私が「英米系の『哲学』を上位に置いている」理由は、伝統的哲学やそれを受け継ぐ哲学に途方のなさ、キリのなさを感じたからです。 (近代以前の文献から学び取るものが少ないのは文献にではなく読み手である私に原因があると反省することがあるにせよ、) 私は、カントは正しいのだと思って読めばカントが正しいと思えてくるし、スピノザが正しいと思えばそう思ってきますが、反対に、どこか間違いがあるのではないかと訝って読めば全てが間違っているように、あるいはキリのない議論をひとつひとつこじつけて考えているだけではないかと、見えてしまいます。 ハイデガーを含めて、私が伝統的哲学文献の読解に取り組むときには、私は哲学史上有名な哲学者の信者になったようにして読まないと、まともに読み進めることができないのです。 それに比べるとウィトゲンシュタインから、それ以降の英米系の哲学者などの著作は、読んでいていちいち納得させられるような説得力があるように感じます。 これは単純に面白いですし、また取り組んでいるものが不健康な空想などではなく、正確な洞察と着実な論理によるまともな理屈なのだと言う実感や安心感が湧いてきます。また、しばしば扱われる言語とその研究が、伝統的哲学のわけのわからなさを解決してくれるのではないかという期待も持ってしまいます。 英米哲学がプラグマティズムに閉じ込められたということに関してなのですが、これはプラグマティズムがあまりにも強力過ぎて、もはやそれを打破することが不可能になってきている、すなわちもはや哲学には残された議論が無くなっているということなのでしょうか? また私はフッサールを読んだことがないのですが、「人文」の才能が無いと、悲惨な結果になると言うのはどういうことなのでしょうか?悲惨な結果というのは、何もわからないまま論理学研究を読んだ時間だけ無駄になるということなのですか…? doc_somdayさんがフッサールを「意味無し」の分類に突っ込んだのはどういう理由からそう判断されたのでしょうか? よろしければ、お教えください。