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大学での哲学は学ぶもの?

 私は現在心理学を専攻しているのですが、関心が認識の限界や死後の存在などの哲学方面にあり、哲学科に編入しようかと迷っています。  そこでいろいろな大学のホームページを見てみたのですが、卒業生や院生の論文内容や研究テーマが「~に関する研究」などの、ある思想家の研究ばかりで「大学での哲学は学ぶもの?」という疑問が生まれました。  私は哲学をやりたいのであり、哲学史を学びたいのではありません。勿論ある程度先人の思想を知るのは必要かとは思いますが、それだけで終わりたくはありません。  そこで質問なのですが、大学の哲学科は哲学史を学ぶところなのでしょうか?また哲学の大学院はある思想家の研究や自分の関心領域の歴史をさらに深めて学ぶところなのでしょうか?教えてください。

みんなの回答

noname#91529
noname#91529
回答No.8

心理学は、「できる」/哲学は、「あこがれる」というのが、私自身のおもいでした。 日本の大学で哲学を学ぶことは、非常に困難でしょう。 これができる人は、大学に在籍していなくてもできる。 「日本の哲学」を個人的に「かみたま」哲学とよんでいますが、 主流を担う哲学教員は、人+言葉=仏=神というような定式を提示するほど 無知です。他人から自分が知らないことを提示された場合は、「そうともいえる」と発言しながら 成績表には、Cをつける人ばかりです。 編入はよしたほうが良いでしょう。

notknow
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 大学にいなくても出来ることと、大学でしか出来ないことをもう少し考えてみようと思います。

回答No.7

『物事の根本を知りたいという欲求を満たすためにあれこれと思考をめぐらす』『自分の思考や理解を深めるために………』『「私は哲学をやりたい」とは、思想家研究、関心領域の歴史を辿るのではなく、それをあくまでも土台として他者と対話をし、そして思考をめぐらすことで自分の欲求を満たそうとする行為です。ですからそういう意味で大学が「哲学をする場」ではなく「哲学を学ぶ場」であるのならあえていく必要もないと思ったのです』 とお書きです。 あなたの想いが、私には今ひとつ具体的に見えません。 たとえ話です。 いい音楽を創りたいと希求しているとします。他の音楽を志すものとの交流や、いいと言われている音楽を聴いたり、作曲法、演奏法、音響学、心理学などを学ぶことは、希求していることとの関係では必要不可欠のことではないと思います。自分が創った音楽の聴衆さえも必要不可欠ではないでしょう。 聴衆がいること、批評してくれる人がいること、他の演奏や自分が気に入った先人の曲や演奏を細かく吟味することは、自分がいい音楽を作る上で有害であると考えるのは、普通ではないです。 一般的には、音楽の専門学校に入ったり、入門が許される先生についたりして、実務的(?)に周辺をしっかりと抑えることをするのだと思います。専門学校で一生懸命にやっても、先生に教わっても、苦吟しても、いい演奏家にも、いい音楽家にもなれないことは多々ありますし、自分自身が納得のいくいい音楽を創れないでいるというのも、結構多いのではないかと思います。 本題に戻ります。 『思考をめぐらす』ことが純粋に目的であり、他は無視したいのであれば、その希望のようにされるのも道だと思います。 ただしそのことで『物事の根本を知りたいという欲求を満たすためにあれこれと思考をめぐらせることができて、よかった』という結果をもたらすのかについては、高い確率で不成功に終わるだろうと思います。 物理学でも、生物学でも、美術でも、細かい部分については、論理的・理論的に狂っていないこと、現実に即して立証できることが重要だと思います。 他の多くの人が思っていることと異なる見解や理解をするにしても、そのベースには、言葉や事実の細部にこだわった理解が必要だと思います。 そうしたこだわりをどこまで突き詰めるかが重要な気がします。 そうしたことに関する高度な記録が充実し、それを研究すべく時間を割いている人が多くいるであろう大学や大学院の哲学科に進むのも、いい選択肢だと思います。 他の学科でも同じでしょうが、学生、院生、あるいは研究者でもその専門課題に没頭している時間はかなり短いし、部分部分を見ればおかしなことも多いと思います。それを指摘して、役に立たないと排斥しても、排斥することで自分の推進ができるものではありません。 哲学科でも全員が認識の限界や死後の存在などに関心を持っているとは限りません。 [認識の限界はどこにある][認識の限界というものはあるのか]という命題を、言葉で繰り返しても深まりはできないと思います。 そうした命題を極めようとするにしても、そのためのあなたの行動・アプローチを考えてはいかがでしょうか。

notknow
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 自分の関心がただの関心に過ぎないのか、それとも学問的に探究していきたいものなのか今一度考えてみようと思います。

回答No.6

大学も大学院も学ぶところです。 大学や大学院以外の場所で、哲学するものと思います。 それぞれの場所でするべきことをするのでしょう。 器用なら両立できるでしょう。 どちらかに集中する方が効率的だと思います。 ゆえに、学ぶがメインになるのではないでしょうか。 哲学するはその後に延々と続くと思います。

notknow
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 そうですね、うまく割り切っていくのが妥当なのかもしれませんね。

回答No.5

認識の限界や死後の存在などを考察したいのがあなたの目的であったとして、そのための行動はどうなるのでしょうか。 認識の限界の有無あるいはどういう時にどこまで認識できるかの実態調査をしたいでしょうか。死後の存在を考察したい場合、生死の定義や認識について、あるいはいつからが生物の生なのか、個体とは何か、問題にしているのは全生物か、動物だけか、人間だけか、あるいは言葉でコミュニケーションできる人間だけか、植物人間は考察の範囲か、最近は手術で心臓を停止させることもありますし、死後とは何か、……… 何を、どう調べたいのかで方法は非常に異なると思います。 科学的調査の最前線の知識も重要ですし、自分がそうした部分に直接関与するというのも一つの道でしょう。死後の存在を形而上的に黙考するのも大変ですが、生死の区別や存在不存在の区別について技術的な調査することでも非常に興味深い膨大な領域があると思います。 哲学に関心があるとは、どのようなことを言われているのでしょうか。 哲学に関心があるというのは、他人や先人が、同様の問題についてどう考えてきたのかということにも関心があるということでしょうか。 あるいは、他人や先人が何をどう考えてきたのかには関心がないのでしょうか。 沈思黙考したいだけで、会話や他人の考えには興味が無いのでしょうか。 自分の考えを述べたいだけで、他人との意見交換は無用なのでしょうか。 もしそうならば、ブログやマイページで発表するだけでもいいように思います。 『………史』とか思想史、哲学史というのは、先人がどう考え、反論し、他の社会情勢や技術科学の状況によって、考える内容や焦点の合わせ方が変わってきたことも含めて、これを学ぶことで、自分の思考や理解を深めることがねらいの一つではないかと思います。 自分の身近で考えていると、井の中の蛙状態で浅薄なことになる危険もあるし、検討・考察するにも刺戟や情報が不足するので、書籍を読んだり、師についたり、同志のいそうな場を求めるのだと思いますが、いかがでしょうか。 大学の哲学科、大学院の哲学科は、………のところであるという他人の説明を聞いても、その説明で何かが解決するのでしょうか? 『私は哲学をやりたい』というのは、どんなことを具体的に希望されているのでしょうか。

参考URL:
http://www.u-air.ac.jp/hp/kamoku/H19/kyouyou/ningen/s_1853910.html
notknow
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 哲学に関心があるとは、物事の根本を知りたいという欲求それだけです。そしてその欲求を満たすためにあれこれと思考をめぐらす。 確かにhatenasateさんのおっしゃる通り自分の思考や理解を深めるために哲学史を知るというのは必要だと思います。ですがそれが受容だけにおわっているのではないのかと思うのです。この「受容」というのは「哲学を学ぶこと」であり、それは思考の根本に1+1=2というような前提をうえつけることではないのかと思うのです。 これは私の経験に過ぎませんが、哲学史をかじっている人と話をすると「~はこう言っているからこうだと思う」と、その人の考えというよりは先人が言ったことをそのまま受けとめて言っているに過ぎないじゃないかということが多々あります。それでは思想家の考えに洗脳されているだけではないでしょうか。そこからは線分の延長はありえても新たなものが生まれるとは思いません。 『私は哲学をやりたい』とは、思想家研究、関心領域の歴史を辿るのではなく、それをあくまでも土台として他者と対話をし、そして思考をめぐらすことで自分の欲求を満たそうとする行為です。 ですからそういう意味で大学が「哲学をする場」ではなく「哲学を学ぶ場」であるのならあえていく必要もないと思ったのです。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.4

大学の性質上、型を受け入れることをされるかもしれません。 でなければ授業になりませんし。 僕の一番信を置いている哲学的見解のなかでオススメの書籍を書いておきますね。 サンガ出版の「仏法」です。超理性的論理的実証的です。私には矛盾・穴は見当たりません。スマナサーラ長老の書籍もオススメです。 本当の自己と他者に役に立つ哲学的理性的思考が出来ると思います。 本格的に哲学的に理性的に「人間・生命とは何なのか」「心とは何なのか」「善く生きるとは何なのか」を探求したいのであればこれほどに整って、遍く語りつくされているものを他に知りません。 貴方の疑問に答えるもので、その答えを実感するほうほうも順序良く語られていると感じます。

notknow
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 書籍早速探して読んでみます。

  • momonga14
  • ベストアンサー率20% (13/65)
回答No.3

たびたびお邪魔します。 #1です。 >それとは逆に、独自の哲学を生む場としての大学となるよう働きかけていくことも必要となるかもしれません。 いや・・・そういう意味で言ったのでは無いのです。 哲学史を学ぶとまで行かなくてもその辺の新書でも良いですから、哲学史を概説的にでも知れば、現代哲学の抱える状況が理解できます。 大学哲学科が「哲学史を学ぶ場」になってる現状は、現代哲学の抱える状況から来ている、そういう意味です。

notknow
質問者

お礼

何度もありがとうございます。 誤解していました。 私は現在の哲学は停滞の時代で、日本の大学には先人の思想研究者ばかりで哲学者は存在しないと思います。 貴重なご意見ありがとうございました。

  • momonga14
  • ベストアンサー率20% (13/65)
回答No.2

すみません。訂正です。 ×家でブラブラしながらでも哲学はできません。 ○家でブラブラしながらでも哲学はできます。

  • momonga14
  • ベストアンサー率20% (13/65)
回答No.1

>私は哲学をやりたいのであり、哲学史を学びたいのではありません。 その心意気は素晴らしいですね。 しかし「哲学をやりたい」のなら、そもそも大学に行く必要はありません。家でブラブラしながらでも哲学はできません。 大学の哲学科が「哲学をやる」場ではなく、「哲学史を学ぶ」場になってるのは仰るとおりですが、それはそのまま現代哲学の状況を物語っています。 なぜ、そうなっているのか考えてみるのも良いのではないでしょうかね。

notknow
質問者

お礼

アドバイスありがとうございます。 おっしゃる通り哲学は家でもどこでもできますね。 それとは逆に、独自の哲学を生む場としての大学となるよう働きかけていくことも必要となるかもしれません。

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