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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:哲学の役割は?)

哲学の役割とは?

このQ&Aのポイント
  • 哲学に関する疑問や興味がありますが、その役割や社会への貢献について理解できていません。
  • 他の学問と比べて、哲学は自己満足の領域に留まっているのではないかと感じます。
  • 私の見解では、哲学が社会への貢献を果たすためには具体的なアプリケーションや実践が必要だと思います。

質問者が選んだベストアンサー

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  • mmky
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回答No.15

>>いかんせん、ちんたら趣味で読書している時間がないのです…。 >>ちなみに…以下の文章は本質を捉えてますか? ○追伸:ミネルバの梟は「自助努力の精神」「信仰と感謝」「発展と未来への希望」の主に3点を基準に世界を社会を鳥瞰しています。 この3点に違反した場合、人類の永続的生存が許されていないからです。それを知るゆえにミネルバの梟と呼ばれるのです。つまり哲学は単なる学問ではないのです。 社会主語思想は「自助努力の精神」に違反し、唯物論や科学万能主義は「信仰と感謝」に違反し、貧乏思想や暗黒思想は「発展と未来への希望」に違反します。違反が目に余るようになるとミネルバの森から飛び立って警告を発するのです。 巨大な梟は多くのものの前で同じことを説き、小さき梟は哲学カテで同じことを繰り返し回答しているのです。どのような名で呼ばれようがどのような職業であろうが梟の目には梟かどうかがはっきりと見えます。だから「我々は哲学を学んで、沈みゆく時代と昇りゆく時代の特徴を学ぶことができる。」ということなのです。「真理は簡単な言葉のなかにある。」それが梟の言葉ですから。それを鍵に世界を鳥瞰すれば偉大な梟も見出せるでしょう。参考まで

その他の回答 (15)

  • abc2008
  • ベストアンサー率17% (7/41)
回答No.16

哲学というと何か難しく、ある限られた人たちが思索する学問のように思われがちですが、実はさにあらずで、本当は哲学こそが万人に必要不可欠なものなのです。それは哲学という言葉では何か漠然としていますが、別の言い方をすれば「真実を知る」ということなのです。確かに我々はある程度のことは知っていて生活上不便はないでしょう。しかし、それらは極めて表層的なもので、人間にとっての根本的な苦悩である『生老病死』という四苦を克服するためには、ほとんど役には立っていないかと思われます。 そのような人間の持つ根本的な苦悩を解決するためには、やはりそれに見合った的確な知識というものが絶対に必要なのです。それはちょうど車を運転するための知識だけでは、航空機を操縦することができないように、生老病死という根本的な苦悩に対処するためには、それに見合った「真実を知る」ということが重要なのです。 例えば、生命についての真実(生命という我々の本質は永遠の存在である)とか、運命についての真実(幸不幸を決めるのは運命ではなく、すべて自分自身である)とか、宇宙についての真実(大宇宙自体が知性を持つ、一つの大生命体である)等などです。これらはいわば生命哲学といってもよいでしょう。そしてこの生命哲学を知るか、知らないかでは、その人生においては天地雲泥の差となると言ってもよいかと思われます。先哲の言葉に「天晴れぬれば、地明らかなるが如し」という言葉がありますが、まさに真実を知るということは、その言葉のように目の前の暗雲が払われて一切を見渡せるような悠々たる境地へと変革して行くことになるのです。 西洋のことわざに『自然から離れれば離れるほど、病気に近づく』というものがありますが、これを借りれば『哲学から離れれば離れるほど、苦悩は増す』となるかも知れません。ですから、本来、哲学こそが人生万般の基盤となるべきかと思われます。

noname#148554
noname#148554
回答No.14

人の心を豊かにするものだと思います。 人間の知の探求は、哲学が原動力だと思います。 人はなぜ学ぶのか、人はなぜ研究するのか、なぜ物理学をするのか・・・その全ての原動力というか、動機が人間の「哲学」です。 犬などの動物は哲学できません。 哲学は、人間が人間らしくあるためのものだと思います。

  • oscar91
  • ベストアンサー率53% (8/15)
回答No.13

個人的には哲学の目的は、暇つぶしです。 各哲学者の生きた時代、性格、人生によって色々と各自に 都合が良い結論があって、面白い学問だと思います。 哲学の役割については人それぞれなんじゃないでしょーか。

noname#150036
noname#150036
回答No.12

ふたたびお返事を頂きまして,恐悦至極に存じます. 宗教とは,絶対的なものであり,完成されたものであり, また,我田引水のごとく財産を引き寄せるものであるが, 哲学とは,全体的なものであり,移ろい往くものであり, また,流れる水のごとく高潔をもたらすものである. あるいはまた,宗教は,それ自体を美として掲げるのだが, 哲学は,それ自体に美は無く,全体としての生への意志を 以て美とするのであり,個々としての美や,相対的な美を 悲しむのである. これはニチェではなく,麻呂の考えにおじゃる. お気に召さないときは,スルーしてたもれ.(´ω`;) あ,そうそう.とっておきの命題があるのですが,それは 『 人間とは何か.』 ですが,これが解けたら哲学者の 素質ありだと思います.

  • try50
  • ベストアンサー率20% (65/324)
回答No.11

哲学というものが果たして学問と呼べるのか、という 質問者の疑問なのでしょう。 哲学が学問の領域に入るかどうかについては興味を持 つことができません。また哲学が仮に単なる自己満足 であったとしても私はそれを嫌悪しません。自己満足 もそれで一つの効用だと思います。 とかく世知辛い社会において、不平不満から毒を撒き 散らす輩が増加している中で、仮に自己満足であって も気持ちよく生きることができるという考え方(思想 )があるというだけで効用はあると言えます。 他人の迷惑にならない範囲で、皆が自己満足できるな ら、それが究極の社会に通じる道だと私は思いますが。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.10

追伸まで >>その不気味な無関心さが怖いです。 >>そのような風潮が哲学から感じられないのは何故でしょうか? ○20世紀後半から今に到るまで、ミネルバの梟は森から出て警告を発し続けているのです。 宗教家、哲学者はすでにあらゆる分野で活躍しています。それに気づくかどうかは本人次第ということですね。まあ大数が無視し続けているということでしょう。そうでなければ民主党が第1党になることもないし、原発事故ももう少し抑えられたでしょうね。全てが腐った時、方向を見失った時に本当の哲学の意味を説くものが現れるのですね。それがミネルバの梟と呼ばれる哲学者です。哲学科にいる者を哲学者と考えるのは自由ですが飛べない鳥を梟とは言いません。 曇った目を洗い、心を開けば誰しも梟の真実の声は聞こえるはずですね。 私も小さく無名ですが梟ですよ。でも天を見上げるような梟もすでにいますよ。それをありと間違い、ありを象と見間違っているのでしょうね。

nisihigasi_6
質問者

お礼

毎回御回答どうもありがとうございます。 >でも天を見上げるような梟もすでにいますよ。それをありと間違い、ありを象と見間違っているのでしょうね。 どの分野でも天を見上げるほど凄い人はいますね。どの分野にでもです。そういう人物に出会えると感動というか何か衝撃を受けますね。 私は当該分野を学び始める時は、その分野を“教える”のに著しく長けている人(知識量はすごいが本質を得てない人ではない)に、徹底的に教えを請うタイプなのですが、哲学で著名な人でお薦めな人は誰かいませんか?居たら是非とも教えて下さい。いかんせん、ちんたら趣味で読書している時間がないのです…。 ちなみに… 以下の文章は本質を捉えてますか? 『哲学を嫌う人は、哲学をある哲学者の個人的な人生観だと思って重要視しないが、 哲学は常にその時代の特徴を色濃く反映する。 と同時に、時代の特徴を色濃く反映した哲学者であればあるほど、 次なる時代の思想的趨勢をも示唆する場合がある。 そういう意味で、哲学もある種の予言である。 我々は哲学を学んで、沈みゆく時代と昇りゆく時代の特徴を学ぶことができる。』

noname#150036
noname#150036
回答No.9

どうも.お返事いただきまして恐縮です. ニーチェは,狂った宗教にのめり込んだ若者を,救うことが できるのです.いわば「洗脳返しの書」として役に立ってい ます.その反作用として,みずからは狂ってしまったのかも しれません. げんに,ニーチェを嫌っている人のなかには,かなりのめり 込んで漬かりきって循環論法による連続二枚切りスレッドを たちあげているかたもいるそうです.べつにわるいとはいい ませんがいようではあります. AのしつもんのけっかをもちだしてそれをこんきょにBをろ んじてさらにCをしつもんしABCをろんきょとしてDをし つもんしながらABCをつかってはんろんしながらEをたち あげるというまさにとりつかれたじょうたいはひさんではあ ります.これはてつがくをひていする否定学ともいうべきし ろものでありけっかはどうであってもじぶんのかんがえにた どりつくようにもっていってしまうのである. そうならないために,ニーチェ哲学は人間的なのであり, 「人間が如何にして美徳を知り得るか」の命題などは,人間的 あまりに人間的であり,真理を求めてやまない,人間の根源的 な,有るべき姿を今に伝えているのである. 科学の進歩によって哲学は不要になるのだろうか.との問いに 否,否,三度否である.人の考えに狂いが生じる限り,そして 人の心にやりきれない不整合が有る限り,哲学は時代に応じて いよいよ輝くのである.

nisihigasi_6
質問者

お礼

御回答どうもありがとうございます。 ということは、哲学の大御所のニーチェがそのような立場をとっているのなら、 哲学は宗教に対してある程度というかかなり距離間をとっているものだという認識でいいのですか?私は元来哲学と宗教はある種不可分というか近しい関係にあると思っていたのですが。というか、決定的に、哲学>宗教???

  • HANANOKEIJ
  • ベストアンサー率32% (578/1805)
回答No.8

問題、課題が山積しています。そろそろ、哲学者、哲学界が、知恵をみせてくれる時代です。 国民が、期待しています。これから、日本と世界は、どうなっていくのか? 広島、長崎、ビキニ、福島、核兵器と原子力発電、そもそも、使ってもよい技術なのか? 医療費が、年間34兆円必要だそうです。哲学者のみなさん、よいお知恵をかしてください。 みんながしあわせになれるとき、仕事(労働)から解放されます。自由な労働が、社会的な労働になる。 医者は、患者がいなくなって、診察、治療から解放されます。 警察は、犯罪者がいなくなって、失業です。 実は、古代社会と未来社会は、そのような社会になります。 そして、その未来は、近い予感がします。 里山資本主義というテレビの番組をみました。 循環型社会のモデルは、江戸時代です。 年金で生活できる人から、里山、限界集落、生まれ故郷にかえって、 自給自足の生活を始めると、面白くなりそうです。 問題は、この日本の現場で起きているのです。 答えを、知恵を、方針を示してほしいですね。 問いと答え、これが哲学の原点ではないでしょうか? 日本の独立の道筋を示して下さい。 核兵器廃絶と、戦争のない世界への道筋を示すのが、賢者の仕事ではありませんか? 抽象的な問いなど、だれも求めていません。問いは、現実的、具体的、緊急でかつ深刻です。 熱い心臓、情熱をもって、困難からの出口をしめしてください。

回答No.7

まず職業訓練への期待と学問への期待を区別してみては如何かにゃ? 哲学する事を通じて、生きつづける意味や希望を見つけた人もいると思うにゃ。

nisihigasi_6
質問者

お礼

なるほどにゃ。一考の価値ありとみるにゃ。

回答No.6

 こんにちは。  エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。  その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。    言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。  ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。  こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。  このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を 仏性とも神の霊とも言った。これは 非思考として《信仰》と呼ばれる。  この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。    神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っている   ならば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これをあ   やまちとして気づくときその自由に留まるならば―― ひとは ひと   を殺すこともなければ むさぼることも裏切ることもなかろう。  といった規範を得る。  この規範を どう思ったか 《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という戒律としてまた道徳として 神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。つまりそのときこれを神のおきて(法)として 説き始めたのが 《宗教》である。  一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。  やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それにあざむかれて従う阿呆な人びとがいるということだ(欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。  《科学》は哲学をさらに詳しく問い求めたものである。それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。  あるいは どの人の思考や行為であるかにはかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。  《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。ゆえに手段は 言葉に限らない。哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――が描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。  かくして 哲学は これらすべての知的営みや学的営みあるいはつまり生活ないし世界のすべてについて 全体として考える視点を持ち そのことを誇りとしているはずです。

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