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お城の再利用
国内の戦国時代含め、敵が城に攻め入ることがありますが、テレビドラマのイメージでは、そのまま燃やしてしまうことが多いように思います。そのほうが戦略として敵を倒しやすいのかも知れませんが、そういったことをせずに敵を追い出せた場合、その城を自分の居場所として使った事例はありますか?あったとしても、希なケースのように思っているのですが、実際はどうなのか、ふと疑問に思いました。 よろしくお願いします。
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>敵を追い出せた場合、その城を自分の居場所として使った事例はありますか? 一番新しい例が、江戸城ですね。 将軍を追い出して、天皇が入城しています。 戦国時代でも、8割程度が敗者の城に勝者が入場しています。 これは、地元住民に「支配者が変わった事を誇示する」目的があります。 村長(ムラオサ)を集めて「領主が代わった」と説明するよりも、政治・軍事の中心だった城に入城する方が、確実に領民に「領主が代わった」事が伝わります。
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- astute_2wd
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負けたら皆殺しにされるような局面では城方が最後まで抵抗し城が全焼するまで戦い続けたり、敵に城を渡すのは癪な場合火をつけてから逃げるor自殺するようなこともなかったわけではありませんが、 実際は勝ち目がなくなれば降伏して敵に城を明け渡すケースの方がほとんど、特に戦国時代になると大名同士の領土の境界線付近に点在していた規模の小さな城は盗ったり盗られたりが日常茶飯事だったようです。 >その城を自分の居場所として使った事例 家臣が謀反を起こして主人を殺したり国外へ追い出した後にその居城を自分の物にしたというような話ならいくらでもありますよ。 戦の褒美として自分が攻め落とした城を与えられたという話も少なくありません。
お礼
確かにそうですよね。それほど、肝が据わった武将ばかりじゃないですよね。私が住んでいる千葉県も、小さい領土を守るお殿様が沢山居たと言うことですから、知らないところで、小規模な奪い合いの歴史はあったんでしょうね。かなり感覚的に分かってきました。ありがとうございます。
- eroero1919
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織田信長は斉藤家を滅ぼしたあとは岐阜城に入って安土城を作るまで居城にしましたし、徳川家康も岡崎城を奪って居城にし、その後浜松城を奪うとそこを居城にしました。伊達政宗も芦名家を滅ぼすと居城を会津の黒川城に移しました。 結構そうやる腰の軽い大名はいます。ついていく家臣は大変だったでしょうが。謙信や信玄はそういうことをしていませんが、ここから先は個人的推測ですが、自分のワガママがいえる家臣団を持っていたかどうかの違いがあるんじゃないかと思います。 信長はもう超専制君主で信長のやることに文句がいえる家臣はいません。また家康の家臣団はもう新興宗教かよみたいなほどの狂信的家臣団です。政宗家臣団も片倉小十郎を始め結束は固いです。一方、信玄といえば武田二十四将が有名ですが、裏を返せば武田家は家臣団の力が強く信玄は重要なことは家臣の「合議の上」でしか進めることができませんでした。謙信に至っては、何度も家出をしてしまうほど家臣はいうことをききません。軍神だからみんな従ってるくらいです。そういう違いがあるかもしれません。
お礼
私が知っているような有名武将でも、そういったことをしていたんですね。解釈もありがとうございます。
- kusirosi
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ほとんど、そのまま 使いますよ。いつも、新築するほど金持ちではないので。 鳥取城なんかは山中鹿之助・吉川元春・豊臣秀吉に各二回攻め落とされましたが、明治まで健在でした(^-^)/ zzzzzzzzzzzzzzzz
お礼
早速、ありがとうございます。 そうですよね、今も昔も住宅事情は変わらないですよね。 スッキリです。
お礼
8割とはすごいですね。 ドラマでみる、火災を起こして、領主が自殺していくシーンが頭に残っているので・・・・なんか、目から鱗だな~♪ ありがとうございます。