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戦国時代の足軽の戦参加の様子
- 戦国時代における兵農分離前の足軽の戦参加について詳しくご説明します。質問の内容について個別に回答いたします。
- 戦国時代の足軽が戦に参加するきっかけや召集の方法、持ち物、食事、武器、命令の下し方、白兵戦の状況、勝利や敗北時の運命について解説します。
- また、足軽が戦に参加する際にどのタイミングで帰還するかや、逃走した場合の運命についてもお話しします。さらに、足軽の戦に関する詳細な情報が記載されているホームページもご紹介いたします。
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質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 ~序章~ (1)「足軽」の起源は、「平治物語絵巻」や「保元平治合戦図」に描かれた、素足で折烏帽子(おりえぼし)に腹巻(後の胴丸=鎧よろい)を着用し、太刀または腰刀を腰に差し、長刀(なぎなた)や矛(ほこ)を担いだ「徒歩の兵」が見られます。ただし、この時代「足軽」という呼び名での記載は出てきていません。 (2)「足軽」という呼称が出てくるのは、源頼朝が鎌倉幕府を開き、「御恩」とか「奉公」と呼ばれる関係で、武士たちに所領を与え地頭として任命し、地頭となった武士は与えられた所領内の農民たちの支配者となり、戦の折には、その地の農民たちを集めて幕府軍などに参戦しました。 (3)そして、地頭または豪族たちは「下人」とか「下部」、あるいは「若党」と呼ばれる、主として、雑用を務める身分の低い者たちが古くから存在し、戦いの頻度が増すにつれて、これらの下級層の者たちの中から戦闘を専門的に受け持つ「裸足」または「軽装」と呼ばれる集団が誕生し、その者たちを、次第に「足軽」と呼ぶようになりました。 (4)また、農民だけではなく、山賊や海賊などの、いわゆる、「悪党」と呼ばれる者たちも戦いには重要な役割を果たしました。 (5)山賊や海賊などは、地頭や豪族の支配から逃れて、独自に自治権を持った者たちのことで、山賊で有名なのは「蜂須賀小六」。海賊で有名なのは「村上水軍」などがありますよね。 さて、ご質問の件ですが、私の分かる範囲で・・・。 (1)どういうきっかけで「召集されたら戦に参加する」ということになるのでしょう?誰がきめるのでしょうか? 開戦を決めるのは、もちろん、その地の地頭や豪族です。例えば、鎌倉幕府時代でも、幕府から地頭職を任命されていても、反抗する者も出ましたし、幕府の手の届かない地域の地頭や豪族も幕府との戦いをしました。また、土地の境界線を巡って、地頭同士が戦う場合もあり、そうした時には、地頭や豪族から「戦の準備をせよ」と「お触れ」が回りました。 (2)どの様に召集されるのでしょう?寄り親から伝達がくる?それともお城からの合図を聞いて寄り親のところに駆けつける?駆けつける場所は寄り親の家ですか? 「寄親」とは、戦国時代の軍事組織の領主に仕える有力家臣を指し、軍事編成上の組頭。その直接的に支配を受けたのは「寄子」は「寄騎」または「与力」「同心」などと呼ばれ、組頭である「寄親」に「絶対的服従」を強いられた者たちです。 また、「寄親」は「殿原(とのばら)」とも呼ばれ、領主の支配地域の中で「村長(むらおさ)」的な役割を果たし、この「殿原」たちが集まったものを「殿原連合」と呼び、この「殿原連合」の中から選ばれた数人が領主の「家老職」などとなり、領主を援(たす)けたり、領主もこうした「家老」を通じて指示を与えるようになりました。 従って、こうした「寄親」または「家老」から召集がかかった場合は、領主の館(やかた)へ一斉に集合しました。また、出城などがある場合は、一旦、領主の館に集まった後、指示を受けて、出城の守備にまわりました。 (3)その時は何を持っていくのでしょうか?携帯必須なもの、任意なものを教えてください。 戦国時代の戦の多い時代では、農民と言えども、ほとんどの家が「刀」「長刀(なぎなた)」「弓」「槍」などを持っていましたので、それらを持って、領主の館へ駆けつけました。 従って、天下がやや平穏になった天正13(1585)年に、秀吉が「関白」となると、全国的な「刀狩」が行われ、農民から武器を取り上げています。すでに、この頃には、兵農分離がおこなわれていた証拠でしょうね。 (4)実際に戦に行く時、どの程度の戦略を聞くことが出来るのでしょう? 農兵である「足軽」連中には、大まかに「誰と戦う」「○○方面に向けて進軍する」と言う位しか伝えてはいません。「足軽」連中は、ただただ黙って領主の進軍に付いていきました。このことで有名なのは、明智光秀が織田信長を討つ時、本能寺の近くまで来てから初めて「敵は本能寺にあり」と叫び、この計画は、重臣の中でも数人にしか伝えらていなかった、と言う「逸話?」がありますよね。 (5)行軍している時、待機しているときなどは何を食べていたのでしょう?炊き出しがされているのであれば、誰が炊いてくれるのでしょう?また地方によって違うとは思いますが、携帯食料などもあったのでしょうか? これには、幾つかの方法があります。 (1)「足軽=雑兵」連中には、時代や篭城、野戦の違いにもよりますが、相場として、一日米六合、水一升、そのほか、塩、味噌などが支給された。これは、茶碗に入れると12杯分位になり、余った米は持ち歩いて、合戦が終われば実家へ持ち帰った。また、勝利した方では、戦の後、戦に行った者に対して、扶持米(ふちまい)が二十俵~三十俵が支給された・・・という記録もあります。 (2)篭城などの時は、雑兵たちだけではなく、女たちも領主の館に召集され、炊事などにあたりました。 (3)長期に野戦が続く場合は、「干飯(ほしいい)」という、ご飯を干して再び米のようにバラバラにしたようなものや「煎餅」などを持ち歩きました。 (4)野戦でも、「にらみ合い」のように持久戦になると、兵たちは米を「陣笠」に入れて、ご飯を炊きました。 (5)また、野戦で移動する時は、領内であれば、「先触れ」が進軍の行く手を先回りして、進路の村々に「炊き出し」をするよう命じて回りました。有名なところでは、秀吉が天正10(1582)年6月2日に信長が討たれたことを知り、攻めていた高松城を6月6日に出発。昼夜をかまわず走り続けて6月13日には約230Km離れた山崎の地で明智光秀と戦った。この時も「先触れ」が進軍先を先回りして、通りの村々に「炊き出し」を指示しています。まあ、現代で言えばマラソンで何箇所かの水分補給所があるようなものですね。 (6)戦の時の武器は何でしょう?鎌?槍?刀?脇差などは佩びることはできたのでしょうか?槍などであればどこで手に入れるのでしょうか? これは、(3)の質問で述べた通りです。しかし、鉄砲が普及し始めると、領主(お館さま)の直属の下級武士たちが、「鉄砲隊」を結成して訓練を重ねました。雑兵は「刀」や「槍」などが主な武器でした。入手方法は、領主が購入して、「寄親(殿原)」を通じて配布したり、戦で勝利した場合などでは、戦利品として敵方の刀や槍を持ち帰り配布しました。 (7)足軽に命令を下すのは誰ですか? これは、領主直属の武士が「足軽大将」を任命され、足軽の統制にあたりました。これも、一介の草履取りから足軽大将になった秀吉などが良い例でしょう。 (8)白兵戦になった場合、常に1vs1の戦いでしょうか?横から違う人がブスッとかはなしですか? 当然、ありました。必ずしも1:1とは限らず、特に、兵の損失が多いばあいは、寄ってたかって、1人を討ち果たす場合がありました。 (9)敵を組み伏せる術などは自得したのでしょうか?誰かが教えてくれたのでしょうか? 戦国時代で雑兵が訓練としたのは「相撲」でした。また、力自慢の大会などを開き、身体を鍛えました。 (10)敵を組み伏せて勝った場合、頸は必ず切りとりますか?切りとった頸はどうやって携帯していましたか? 重臣格になると、当然、鎧(よろい)や兜(かぶと)が立派です。そういう者を討ち取った時だけ首をとりました。大将が討ち取られたら戦は、そこで終了します。しかし、重臣の首などであれば、戦いが長引くと予測される場合は、「戦奉行」という者が必ずいて、「何の誰兵衛が、敵の誰それの首をあげました」と、総大将である「お館さま」に首を見せ「記帳」をして、陣幕の裏に埋めました。また、決戦が早く終わりそうであれば、「桶」に「塩漬け」にして保管すると同時に持ち歩きました。 (11)戦に勝った場合、どの時点で家に帰れますか?それは誰に言われるのでしょうか? まずは、そろって城(館)へ帰ります。そして、軍功功労賞の発表があります。戦いが勇ましかった者へは「褒美」が下されました。「褒美」は、「金子」であったり、扶持米の支給であったり、「中間」など下級武士ではありますが城中に召抱えられたり、年貢米の「免除」、「何でも望みをかなえてやる」などなどでした。その後に、それぞれの家路につきました。 (12)戦に負けた場合、どうなりますか?殺されます?それともただ単に寄り親が変わってしまうだけなのでしょうか? 敗戦と分かると、「褒美」などはありませんので、勝手に家に帰りました。足軽などの身分の低い者たちには「追っ手」もありませんでした。また、「寄親」が死んでしまえば、その地域(部落)から新たな「寄親(殿原)」が選出され、その者の支配下にはいりました。 (13)戦に参加したものの、負けそうだったので逃げてしまった場合、その逃げた足軽はどういう運命をたどるのでしょう?家に帰れますか?家に帰ったら罰を受けますか?どのような罰ですか?家族、親類にも連来責任が及びますか? 現代のように「軍律」はそれほど厳しくありませんでしたから、逃げ帰った者は、「逃げ得」の場合がほとんどでした。当然、行き先は自宅です。しかし、逆転勝利などの時は、「卑怯者」扱いをされ、「村八分」などとなる者もいました。かの有名な武田信玄や上杉謙信でさえ、戦が長引いた時、秋の稲の刈り入れ時期になると、兵が散ってしまい、戦を中断せざるを得ない事態が起きています。 多少は、記憶違いもあるかもしれません。その時は「ご勘弁」を・・・。 >>または、足軽の戦について詳細に書かれたホームページ等あったらご紹介ください。 これは難しい。こんなサイトではいかがでしょうか。 http://kagiya.rakurakuhp.net/i_263753.htm 本としては、次の本などはいかがでしょうか。 http://books.livedoor.com/item4062755602.html
その他の回答 (1)
- fumkum
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足軽は兵農分離には関係があまりなく、戦国時代には雇用されていたようです(常時・臨時の別はあっても)。質問の多くは、下のURLを見られると解決します。また、「雑兵物語」などを参考にされると良いと思います。 なお、「骨皮道賢」については、応仁の乱に足軽部隊を引き連れ、傭兵部隊のように活躍していた記事を見たことがありますので、少なくともこの時期から、足軽は雇用されていたようです。 以上、参考まで。手抜きの回答でゴメンナサイ。
お礼
ものすんごく詳しく教えていただいてありがとうございました!本も勉強いたします! コメント遅れてスイマセンでした。