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ナサニエル ホーソーン
「the ambutuous guest」の最後、人の生も死も他人が全く知らない状況をどう考えますか? 英語がどうしても訳せず、話が理解しきれないのですが、ちょっと疑問に思ったので、質問してみました。
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先ほど、というかしばらく前、質問の文章を翻訳しまして、これだけでは、分からないと記しました。this awful night や fate など、最初、怪奇小説・恐怖小説の「恐怖の夜」かなどとも思いました。 また、a stranger と the high-souled youth が、同一人物かどうかも分からない、とも述べました。それは、家族や、登場する人々にとっては、a stranger であって、しかし、作者や読者にとっては、the high-souled youth だということなのだと分かりました。 それはとまれ、ある人の生死、その存在・実在が不明で確認できないというのは、この世界では、ごく普通のことです。例えば、日本や世界のどこかで、いま現在も、誰かが亡くなっているでしょうし、何か野望を持って、計画を練っているかも知れませんが、そういうことは、全能の神ならぬ、私たちには、知ることのできないことです。 萩原朔太郎の散文詩というか、ごく短い短編に、ある雪の山中でのできごとを書いた話があります。それは雪山で、遭難しかかった人を、別の人が助けるという話です。助けられた人は大いに感謝し、麓におりれば、こういうことでお礼をしましょう、とか、色々と語り、助けた人を褒め称えます。 この話の最後は、しかし、雪崩が起こり、二人ともそれに飲み込まれ、死んでしまった。というものです。ある人が別の人を助けたことも、助かった人が感謝したことも、こういうお礼をしますと言って誉めたことも、すべて、誰も知ることがなくなった、という形で終わります。 これは、ホーソーンのこの話に似ています。 萩原が、ホーソーンのこの話を知っていて、下敷きにしたのかも知れません。萩原はキリスト教の影響があった詩人です。それも、プロテスタントの影響がありました。ホーソーンも、アメリカ作家で、宗教的なテーマを持っていました。 ある個人の希望や、存在や、なしたことや、その魂の運命など、世の人は、すべてを知ることなどできない。むしろ、何も知ることなく、人間は互いに孤独のまま死んで行き、生死も存在さえ、知ることなく、この世ですれ違って行く。 こういう状況が、人の存在・生きる状況の真実でしょう。社会のなかで、家族や親類や友人たちや仕事関係の人たちとの関係で生きているとき、人の存在状況が、このような孤独な厳しいものだということに、多くの人は気づかないのでしょう。 しかし、実は、生死も実在も、知られることなく、去って行くというのが、人の存在のありようなのです。萩原の作品では、明確ではありませんが、しかし、それでも、「神はすべてを知りたまう」というような、考えがあるのではないでしょうか。 ホーソーンのこの話も、作者や読者は、若者の運命を知っている訳です。作者や読者が、他の人は知り得ぬ「真実」について知っているように、神は、世の人には、生死・存在も定かでない人についても知っておられる。 ……あるいは、こういう考えが背景にあるのかも知れません。孤独に誰にも知られず、死んで行ったとしても、あるいは何かを希望し、意図し、成しても、誰もそれを知ることがなくとも、神は知っておられる。 「神」でなくとも、それを知る何ものかが、この宇宙には、存在しているはずだ。このような思想ではないでしょうか。Pity ! という命令形は、「神よ、憐れみたまえ」という意味が含まれていたのかも知れません。 作者が読者に向かって言っているにしてはおかしいからです。「神よ、かの野心に満ちた、気高い魂を持っていた若者を、憐れみたまえ!」こういう意味なのかも知れません。 人には知りがたいことでも、神は知りたまう、ということではないかともおもえます。従って、生きることは意味があるのだ、というメッセージを、ホーソーンは述べているのではないかともおもえます。少なくとも、「空しいことである」というペシミズムやニヒリズムではないとおもいます。
お礼
ありがとうございます。大変参考になりました。