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「良い人なのに不幸に遭う理由」をスピリチュアル視点で教えて!
「気が弱いから騙されやすい人」などではなく、いつも 善行を心がけ、前向きで慕われている人が、騙されたり 無残な死に方をすることがありますよね。 そういった方は、なぜ不幸に遭ってしまうのでしょうか? 他人に与えすぎたから? 良い人だから死などが際立ってしまうだけだ、という 現実的な視点も理解できますが、スピリチュアルな観点から 答えられる方がいましたから、是非教えて下さい。 因みに、良い人なのに不幸な人は、それを乗り越えて 成長させようと神が試練を与えている、という話を聞いて 面白い考え方だなあと思いました。
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善良な人は例えば外でタバコをポイ捨てしているところを見たら「あんなことしている人がいる。だめだな」とか思ってしまい、また盗みをしている人がいれば「悪い事をするものだ」とか「悪い人だ」と思ってしまいます。 そのような思いは一見普通の事のようですが、相手を否定もしくは自分の基準で善悪を決めてしまっていることになります。そこに愛はありません。 神とはすべての人を愛するのであり、否定は愛ではないのです。 否定をすると神から遠ざかってしまいます。神の意思から遠ざかると言った方が良いかも知れません。 それではどうしてあんなに悪い人が長生きしてのうのうと暮らしているのか?と思われたこともあるでしょう。なぜ? それは悪人は自分も悪いことを知っているので多少外で悪い行いをしている人を見かけても自分もそうなので相手を否定したり、気にすることもないのです。 愛は与えすぎても減ることはありません。 それが神の意思に基づいた愛なら。 しかし、条件つきの愛は愛ではありません。 良い人は自分の尺度で相手をジャッジしてしまうのです。 ジャッジは裁くと言うことです。 幾ら良い人でも、人を裁くことは神の愛からは程遠いと言う事です。
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- lahra
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No.4様のご意見は、非常に興味深く、「なるほど、こういう考え方もあるのか」と思いました。本当に、人間とは不可思議な生き物です。 「スピリチュアルな視点から」とのご質問ですが、実をいうと、こういった世界(次元)において「善悪の概念」は”存在しない”のですよ。 したがって、スピリチュアルな世界では、どのような存在も「裁く」という行為は行ないません。実際に「裁き」をしているのは「人間」、つまり自分自身や他人であって、あなたの言われる「善良な人」「悪人」という基準は、全て”個人の主観”から見えるものです。 ですから、「スピリチュアルと善悪は無関係である」という答え一言になってしまいますね。 でも、それでは「なんでないの?」という疑問が残ってしまうので、結局は現実世界の観点からみることになります。 例えば、殺人は法律上では犯罪ですが、”戦争時代に”大勢の人を殺していながら現在も生きている「今は優しくて良い人」は、はたして「悪人(罪人)」ですか?これも疑問ですよね。もし、裁きがくだり「人殺しは悪だ」と言われるならば、戦争をした人全てが罰をくだされなくてはならないはずです。でも、戦争に無理やり参加させられた人は被害者だという人もいるわけで。ここで既に善悪など判断つかなくなってしまいます。このように、個人個人で人や物を判断する目が違えば、誰が善良で、誰が悪人か、という意見もまた違ってきて当然です。 「何を基準にして善とするか」ですが、「自分にとって親切だからいい人」というのはあまりに単純。でも、広くとって多数の人に意見を聞けば、実は意外な面が見えたり、他人の個人的主観で「虫が好かない」というだけで「嫌いだ」と言う場合すらあるのです。”基準”が自分の中にない(過去何かされた等)時には、その人がどうだと「決めようがない」わけですから、何とも感じないでしょう。となると、その人が「良いか悪いか」などわかりようもないわけで。 人間は、体が1つでも、人格では「多重人格的要素を誰でも持っている」といいます。精神医学でも「心のどこかにもう一人の自分がいる」感覚は存在し(医学用語は忘れましたが)これが分裂しない限り正常であるとしているそうです。つまり、あなただけでなく人間全員が、その個人のたった一部分の側面を見て、あくまで「自分の尺度で判断しているにすぎない」のです。 「神の裁き」「カルマ(業)」「試練」などなど、様々な「理由づけをしないと人は納得できない」というのも事実ですが、まだ、そのあたりでは、それこそスピリチュアルな世界で見た場合にどれがどうなのかは不明です。書物で一人の著者の意見を鵜呑みにするわけにもいきませんし。 ただひとついえるのは、「神が人を裁く」ことはないというのが持論です。神の名の元に「人が人を裁いている」のです。私は無神論者ではないし、むしろ信仰心はあります。特定の宗教がないだけで。しかしながら、こういう世界を垣間見る時、神の恩恵はあっても、神が人を罰するというのは見た経験はないし、罰という言葉も聞いた事すらありません。人間がそうしたい願望を、恐れ敬うものの名を使って実行しているのだと思いますよ。「邪神(悪神)」という存在もありますが、これもやはり”人間の心の反映”により動くものです。 私の中では、意識はしませんが、現代のスピリチュアル世界と神の概念との関係はまだ不明なので、今のところはこういう感じになります。 そして、こういった概念と善悪が無関係だとすると「どんな人であろうと、幸・不幸の度合で比較や区別はできない」という結論にいきつきます。非常に心苦しい思いは私も何度もしてきましたし、不思議で仕方がありませんけれど。 でも、車で事故にあったら「いい人なのになんで事故にあうの?」なんて思う人はまずいないでしょう?立て続けに起こる不運は、自分で連鎖させている可能性すら否定はできませんし、外部の影響があるかもしれません。しかしながら、これらも、個人の問題で、その人が善人か悪人かが基準になっているわけではありません。自分が「悪人に利用されやすい」とわかっていながらも区別なく親切に人に接する人は、当然、被害にあう確率は高いものです。それをやめるかやめないかは、自分が決めることで、結局は、自分が自分や人を裁いているということです。
お礼
lahra様のご意見を読んで、自分は「スピリチュアル」を誤用してるな と思いました。申し訳ないです。 自分は、運勢や運命の流れ、それを読み取るツールの事を指して ました。まさに某カウンセラーのようなモノです。 あらゆる事は、起きている、という事のみが事実で、後は全て 人が感じ取り、名前を付けて単純にし分かりやすくしたものであると 私は思っています。 lahraさんが言う「善悪という概念は存在しない」という事は、私も 凄く大きく考えた場合には、そうであると考えています。 しかしながら、この社会には、人間がより複雑に感情を抱き 言葉が生まれ、色々な物を作り、ルールを作り上げた歴史があり そうしたものに囲まれて人間が生きています。 それは人が作ったものだから、「善悪の概念が存在しない」場所では 無いはずです。善悪という言葉が単純なだけで、実際にはもっと 複雑に人は人を見ているとは思いますが・・・ 人間が、間接的に影響し合う状態を運命や運勢なんだと自分は 思っていて、運勢は「コミュニティ」、「場所」といった単位にも 起こるかなと。 そういう考えがあり、良い影響を人に与えられる人が 失われてしまう状態(死)は「運勢が悪い」のじゃないかなぁ?と 思って、質問に至りました。 私はlahraさんの「幸・不幸の度合で比較や区別はできない」を 私の質問の答えとして受取りたいと思います。 交通事故なのに「良い人なのになんで事故(という不幸)に遭うの?」 と考えちゃう人がまず居ない、てのは、そんなことないと思います。 よく聞く言葉です。
- tyobi10
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考えられる原因 1、表面的には善良な方だが、内面的には暗い、人の為といいながら自分の為に親切にするなど利己主義。など、心を占める割合にマイナス要因が実は多いがために、マイナスの物事を引き寄せてしまう。 2、魂修行が進めば進むほど、苦難困難(問題)が難しくなる傾向がある。この世は修行の場といわれているので、ある程度修行の進んだ善良な方は、更に自分の魂を鍛えるために、生まれる前から過酷な試練を課している場合がある。 3、いい人なので同情心が強く、天国に行けない霊などが、救ってほしいと頼ってくる。天国に行っていない霊は、いかにも助けてくれそうな人にすがりつく傾向があるので。 4、善良であるがゆえに悪霊に狙われやすい。世の中が善良になってしまうと、波長の悪い悪霊が居心地が悪くなるので、世の中が善良になるのを邪魔する。 また、寿命とその人の善悪は関係ないと思います。どのように生きたかを問われますし、天国からすればこの世は修行で辛い世界。この世での使命なり修行なりが終わったら死にます。生まれてすぐに亡くなることにも意味があります。これは親の修行のためだったり様々です。 一概に、 長生き=幸せ 長生き=善良な人 ということではありません。長生きも短命にも意味があります。しかし、その意味とはたくさんあるので、全て一緒ではありません。それぞれの課題なり使命があるのです。
お礼
どう生きたか、であり、突然死んでしまうことと幸、不幸は関係なく 私が挙げたような人物は現世で使命を全うした可能性がある、と いうことでしょうか。 1~4は生きているときのことですね。 2はあまり聞いたことがなかったので面白いなぁと思いました。 自分が課した試練を、クリアしたかできなかったか、それは 本人と神にしか分からないってことになりますね。 ちょっと残念です・・・
- pack1129
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過去になにかヒドいことをして、その代わりに・・・っていう考え方がありますよ^^ それか、実はうわべだけで家では人の悪口を散々言っていたりとか・・・。 騙されたり、無残な死に方をする人は、絶対にどこかに非があるんじゃないでしょうか。 他人に与えすぎた等は何の影響もありません。むしろ良いことです。 多分に最後に書かれている「修行のため」というのが一番正しいような気がします。
お礼
自分も、なにかしらネガティブな要素が絡んでいるのでは?と 思うのです。そう考える自分も悪い運勢が寄ってきてたりして・・・ 皆さん書かれてますが、与えることは悪いことにはならないのですね。 私は、愛は限定数しか無く、誰かが幸せになると誰かが不幸になる、 そんな見方を持っています。なので質問にある言葉になりました。
- ozunu
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神様に妬まれたんじゃないですか。
お礼
神様が居ると仮定した場合、神は人間ではないので 妬むとか、そういう人間ぽいことは無いと思います。 あ、でも、八百万の神も居るし、人を妬む神も居たような・・・ 「神」てのが何の神なのかによって、全然解釈って違いますねえ。
- umemomi
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江原先生に対する信心が足りないからだと思います。
お礼
マジレスして良いですか(笑) あの人は人間であり、受け取る(神託とか、電波とか)側でしょう。 崇拝する対象ではありません。
お礼
自分は無神論者でありますので、もしかしたらこの表現はayuminnmiさんの 気に障ってしまうかもしれませんが、とても面白い考えです! 人を「悪い人だ」と決めることが既に愛のある行為ではない、これは 今後の生き方に参考にしたいと思います。