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。死の意味っ
生きることの意味。それは、今生きているので、答えはもう出ていると言える。 しかし、死に関しては、今死んでないのだから、答えを出す、疑問を解くことは難しい。 自然のそれは、生まれ続けるという、そのサイクルとして死がある。それはむしろ、死というよりも変化だともいえる。このように思います。 空観などで観てみてしまえば、疑問も一緒に消えてしまい、答えにありつけない。答えの必要がなくなってしまう。意味が無い。 生の答えは、現に生きているという答えがあるからそれでいい。 ならば、死の答えは何か? 何であると思いますか? 俺は、忘却だと思います。 もう一歩踏み込めば、リメイク?です。 更に行けば、自然に観れるようなサイクルであり、だんだんと、空観によってなる世界、つまり、只の世界に近づいていきます。 何を忘れるかというと、永遠的な生を、忘れるのではないかと思うのです。 実は、覚えることよりも、忘れることの方が、上手と言うか、そんな気さえします。裏表のような関係、側面の違いでもあるので、どちらが上とはいえませんが。 よろしくおねがいします。
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補足を読ませて頂きましたが、 どうも今ひとつピンと来ませんでした。 言葉遊びをしているような感じですね。 「死」とは「忘却」であると、もう結論を自分なりに 出しているのなら、もうそれでいいんじゃないですか? 私は、ただ単に「肉体的な死」とは「魂」が霊界へ 行くことであると信じているだけです。 あなたのおっしゃりたい「死」の意味が何となく 分かりましたけどね・・・ 今度は、「死の死」というのを考えてみられては・・・? ではでは。
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- welovekobe
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>死んでいないのだから、難しい。 確かに仰せの通りだと思います。 しかし、敢えて、下記のURLのご質問の回答No.16で、 「死の答え」になるかどうか分かりませんが、 死後の世界に関しての哲学的な一考察を 私なりに試みています。 是非、ご一読下さいませ。 何かしら共感して頂ければうれしいんですが・・・。 ではでは。
補足
読ませていただきました。ありがとうございます。ご意見をいただいて、考えたことを書きます。 霊界は、何故在るのか?という説明が、つけにくいと思います。 死と似ているのです。 しかし、霊界の存在の因果関係によって、この世があるならば、この世も霊界のうちです。 霊界の一種です。 宇宙がたくさんのあり方であり、また、存在以外の何かも、世界でしょう。 しかし、ここでは平等性というものを重んじたいと思います。 生けとし生けるものは、皆平等でしょう。 霊が生きているなら、どんなえらい神であれ、俺や、この水槽のネオンテトラと平等です。 それをそれたらしめているもの、存在が存在として存在している所以、それが神です。 つまり、それは神であり、存在は神であり、俺も神であり、ネオンテトラも神なのです。 神とは、そういう、所以のことであると、おれは考えます。 なぜ、神の前では平等なのか?なぜ、神の前では差別が無いのか? それは、皆、本質は同じ神であるからです。同一にして無限なのです。 そして、なぜ神は神なのか? という問いが、哲学にはあります。 なぜ、○は、○なのか? なぜ、「は」は、「は」なのか? ○を○たらしめている理由を求めるわけですが、 ○は、果たして○であろうか?という疑問もあるのです。 神は、果たして神なのか? そういう疑問もあるのです。 独我論や、懐疑法という者のゆく先です。 そして、この疑問は完破できるのです。 一番、はっきりしている事は、無いということです。 無いということには、疑問の余地がありません。 なぜ、無は無なのか?という時、そこには疑問や意識があるのです。無ではないのです。 無というのは、全ての本質だと、思っています。 神と呼べない、神がいるのもまた、神の神たる所以なのです。 言語で思考するとき、本質は、隠されているのです。 俺と呼べない、俺がいるのも、俺の俺たる所以です。 この世や人生に、価値などなく、しかし、それゆえに、この世はかけがえが無いのです。 神に価値があるでしょうか? 俺は、無いと思います。なくても、いいんです。俺が無料で、その存在に何の意味が無くても、よいのです。 存在の理由、意味、所以、そういうものは、その存在そのものなのです。 なにか、特別な意味は、なくてよいのです。 しかし、死の意味は死であるでしょうが、死を知らないので、この死という言葉には意味がありません。 だから、死を知りたいと思うのです。 個性の喪失。個性の喪失とは何か?そのままです。 生死を越えたあり方もあるでしょう。しかし、それは、死の答えではないのです。 霊が生きているなら、霊の死。 おそらく死とは、忘却ではないかと、思うのです。 知らないのですから。死ぬことは知ってるが、その意味を知らない。忘れたことは分かるが、何を忘れたかは知らない。 死ってなんだっけ?って感じです。
- mmky
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参考程度に 生老病死は紛れも無い真実ですね。地上で生きるということは「生」生まれるから「死」死ぬまでの人生経験ですね。では「死」から「生」まではどうかということでしょうかね。この世の「死」はあの世の「生」ですからあの世でまた生きるのですね。そこでいろいろ経験してあるときあの世の「死」が訪れます。これは同時にこの世の「生」ですね。これを転生輪廻といいます。普通はあの世が長いですね。平均400年ぐらい 地上では平均80年そこそこですね。それは地上のほうが厳しいからですね。厳しいところはあまり長くはいたくないというのでそこそこなんです。つまり死はあの世の生ですから、地上の経験は持っていけますね。なくなるものではありませんね。ただ古いことは忘れますけどね。人生を全うしたならば大手をふってもといた世界に戻るということでしょうか。悪さばかりをしているといい世界には戻れないかもしれませんね。 ということでしょうかね。
お礼
ありがとうございます。 死は、通過点、転換点で、門のようなものである。ということでしょうか? その、歩いている人は、永遠に生まれ続けるのであり、消滅しないのですか? >普通はあの世が長いですね。平均400年ぐらい 地上では平均80年そこそこですね。 現代日本人の平均は80くらいですが、昔は乳児死亡率も高く、人生五十年のいわくつきであり、原始には35~40ぐらいだったと思います。平均と言うものはあまり当てにならないのでは?とは思いますが、80年生きて、その他たくさんの生命を取り込みながら生きて、それで、どれだけ生命の輝きを発した人、発している人が、どれだけいるのだろうか? 俺はどうなのだろうか? という事が、大切な気もします。 400年の間、飯を食うのかどうなのかわかりませんが、 あれ世 其れ世 どれ世 これ世と行ってはみても これほど世がぬるいとは、 これほど世が憐れとは、 これほど世が、素晴らしいとは、 こんなにこんなに こんななのに まだ更に世があるんですか? 楽しみだ(笑。 ありがとうございました。 :あの世に行ったら、銀河に乗って、いろんな世界を回りたい。 全てをかけて。 そう感じれば、今も、その一部だと思います。この世も、あの世のうちです。 寄り道しすぎて、つぎの転生に遅刻するかもしれません(笑。 輪廻転生には、非常に壮大な宇宙的ロマンを感じます。 終わりは初めであり、 俺は、先代であり、後継であり、当代です。 そういう風に感じれば、輪廻を巡るのかもしれません。 ありがとうございました。 同じ今なら、うじうじしてたってしょうがないですから。 世界は尽きないのですから。 そしてそれをも、尽くしてみたい。
- gokurakuyama
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ayamatiさん、こんばんは。 一禅僧です。 >死の意味っ >生の答えは、現に生きているという答えがあるからそれでいい。 >ならば、死の答えは何か? >何であると思いますか? この疑問というものはあなたが書いておられる通り「『生』というものがあるからこそ『死』がある」と思いがちですが、『生』の反対が『死』であると考えてしまうからこういう勘違いがおこるのだと思います。 仏教的というかインド的な考え方に『輪廻転生』があります。 ご存知の通り「生きとし生けるものは必ず死あり、そして何度も生まれては亡くなりを繰り返す」という教えです。 その考え方の根本には『生も死もつきつめれば同じ事、今生きているからといっても【生】というものが存在する訳では無く、又、死んだからといって【死】というものが存在するわけでは無い』という教えが柱となっています。 わかり易く申し上げましょう。 「私たちは毎日気づかなくとも【生】と【死】というものを繰り返しているんです」 こう申し上げればびっくりされるでしょうね。 そんなバカな!!とおっしゃるでしょう。 私たちは毎日夜になったら眠ります。 そして当たり前のように次の朝、目覚めてを繰り返しています。 が、いつか必ず目が覚めない朝がやって来るんですよね? 自分では、毎日これも当たり前のように明日起きたら「これをしてあれをして」って考えていますが・・・・。 あるいは「そんな日、目が覚めない明日は絶対に、あるいは当分の間来ない来るわけがない!」って思いながら・・・・。 でも、よくよく考えてみれば「明日の朝、又、目が覚める」という事は誰の保証があるわけでもありません。 そう考えると私たちは「毎日死ぬという事をリハーサルしている」のです。 「いや!もっと言い切れば毎日死んで、毎日生まれている」のかも知れません。 でも、どう考えても「生にも死にも(起きてる時も、寝てる時も)意味があるわけでもなく、ましてやそれ自体に意義があるはずもない」という事になります。 これも【禅】でいうところの「空」や「無」「環」「元」の教えの一つだと思います。 私たちは不思議な縁で生まれてきましたが、本当にたまたま「地水風空火」のめずらしい仏事のなせる業(わざ)によって生まれ出ただけなのですよね。
お礼
ありがとうございます。 禅は、非常に個人的であるとおもいます。 しかし、その思考形態は、「禅的なもの」、「タオ的なもの」であり、また、 哲学の場合、分析的思考、形ある思考、そういう流れもあります。 それぞれの使用した思考形態によって、導かれるものと言うのは、ある程度類似性を持ちます。 同じ包丁(切り方)で切れば、切る人、切る物はそれぞれでも、切り口は似ているのです。 違いもあれば、似てるところもあります。 空観は、切りません。そういう方法です。 そのため、誰でも同じになります。 行為も結果も無いからです。 ある種の形而上的な、語りえない言葉、もの、こと、を、知ることになるのです。 前者(禅、タオ)は空観(観)(在)であり、それをもってすれば、自分はありません。生も死も、意味はなく、一切が無で、全です。 生き生きとあれるあり方を模索しています。 空観は優れてる。 もう一つ二つ、欲しいというか、グレードアップさせたいのです。 きっと、できるはずです。そんな気がするのです。 完全から完全へというものが、空観によってわかるために、終わりの無いことを知ります。 終わりがなければ、到達にして、行けるし、来れるわけです。 常に新陳代謝を繰り返し、生まれ変わって。生まれ続けているでしょう。それは、リフレッシュであり、リメイクほどではないとみています。 しかし、死と言うものは、一つのある生命システムの崩壊であると見た場合、そこに個性は無いのです。 生も、死も、なくなる、朝も夜も来ない、一つの終わりであるのです。その場合、生の反対は、生まれない、でしょう。 死の反対は、そもそも想像できない。死を知らないからです。 しかし、終わりが無いという見方もまたあります。 あるやないなどの話ではないという方法もあります。 生に関しては、生きている。終わっている。始まっている。そういう風に分かりやすいのですが、 死に関しては、死んでいない、終わっていない、始まってない、想像もつかず、血の通う、脳でできる思考の範囲ではない気がします。やりにくい。 自己の代謝を感じれば、死とは生命の躍動であり、それは生です。が、死ぬときは、自分それ自体がうんこになって、出て行く番な訳です。 なんてこった!(笑。
補足
お晩です。 思ったのですが、死は旅立ちとよく言われますが、旅立ちには、思い出をずるずると引きずっていくものです。しかし、忘却の果てに、旅立てるとしたら、それもまた素晴らしい。その時、思い出は消化されているといえます。未練が無いというか。そういう旅を、いつも思い描いて旅をする自分に、旅先で出逢います。 未練なく生きることが、生き生きとあれているのかもしれません。本気で。 この世は疑問だけでできているわけではないですから。 生きることの意味が、無限であるように、 死の意味もまた、無限にあるのでしょう。 元来、言葉とはそういう機能を前提に発祥しており、そうでなければ成り立たないから。 >私たちは不思議な縁で生まれてきましたが、本当にたまたま「地水風空火」のめずらしい仏事のなせる業(わざ)によって生まれ出ただけなのですよね。 なんか、すっきりしてきました。
補足
>私は、ただ単に「肉体的な死」とは「魂」が霊界へ 行くことであると信じているだけです。 そうでしたか、。welovekobeさんの気持ちを読み取れず、思慮の無い発言をしてしまっていたのかもしれません。 いただいた回答を参考にして、自分なりに死を考察しています。ただ、御礼の欄では足りなかったので、補足欄を使わせていただきましたので、そういうことはあまりお気になさらないでください。 お礼欄を使わずに、誤解を招いてしまったようで申し訳ありません。 >出しているのなら、もうそれでいいんじゃないですか? 質問させていただいているのは、もっと出すためです。忘却は、死を考えるに当たっての一つの方法として、俺が用いただけであって、他にも方法はいっぱいあります。 様々な回答者のご意見を頂、ありがたく思ってます。 >今度は、「死の死」というのを考えてみられては・・・? それも考えてみました。 しかし、死が分からないのに、死の死を考えるのは、更に難しい。だけれど、死の死という考え方は、死を知るのに、有効だろうと思います。 仮に、魂なるものがあって、それが死ぬことがあるとしましょう。 それが、死んで、更に死ぬことだとしても、それは、生ける魂の死ともいえ、真に死の死とはなにかとなると、また行きずまります。死の死、死の本質が、そこにあるのかもしれません。輪廻転生では、真には死なないともいえます。しかし、現に、死はある。死を忘却とすれば、死の死は、忘れたことを忘れるともいえ、完全忘却です。俺が死の内実を忘れようが、死はある。そこが、うれしいのです。 生の生、そういうものはありえれど、死の死、非常に難しい。 >言葉遊びをしているような感じですね。 俺は、遊びで学びます。その感じで、俺はいいと思います。よくよく考えれば、こうやって地味に成長してきた事実があるからです。 今日、近くの神社の参道で、タマムシが倒れているのを発見しました。 近寄ってみると、かすかに生きています。 それを手に取り、「ああ、タマムシの思いが分かれば、俺にできることがあるかもしれないのに、。」 と思いながら、一時間ほどを過ごし、そのタマムシに、因縁を感じずには入れませんでした。 死を思い、考えているときに、死にかけの虫がいた。 このように、学ぶ機会は、常にあると思います。 死とは何か?予想以上の深淵を、そのとき以来、感じずにはおれません。タマムシに関わることなど無かったのかもしれません。しかしそのとき、自分にできることなど、結果を待つぐらい、だったのです。死とは、そういうものなのかもしれません。過ぎ去るのを、待つしかないのです。 どうも、ありがとうございました。