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この文章の意味がわかりますか?
茂木健一郎さんが書いていた文章で、 「究極の哲学が出来たとして、それがA4一枚に書けたとしたら、それは高校生の一日の日記と何が違うのか?」 と言う文章の意味がわかりません。哲学のカテではないかもしれませんが、ヒントを教えてください
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この「高校生」というのは世間一般の高校生のことではなくて, 高校生時代の茂木氏自身のことを指しているのではないでしょうか。 「茂木健一郎履歴書」なる年譜には,茂木氏自身の 幸福な高校生時代のことは書かれていますが, 世間一般の高校生については(履歴書だから当然かもしれないが) 触れられていません。 茂木氏は先ず,自身の少年時代について 「蝶を追いかけて野山をさまよっていた少年時代は私の中で今理想化されている」 と言い,高校生時代については初めての海外旅行の感動に触れ, 「非常に良い高校だった。何人かの忘れられない友人との出会いがあった」 と書いています。 それに対して,大学に対する評価は低く, 「高校に比べてvulgarなところのように思えた」 「授業は3日間しか出なかった」 などと書いています。 以上から, 茂木氏にとっては高校時代が最も充実した時代だったことが読み取れます。 さて,(以下はあまり根拠のない解釈になってしまいますが) 「高校生の一日の日記」とはそのような時代の体験を綴ったものではないかと 思われます。日記というのは,いかに充実した体験を書いたとしても 他者には読ませない自己満足的な文章という意味でしょう。 いっぽう,「哲学」は自己満足で終わってはならず, 議論に開かれていなくてはなりません。 哲学は実体験を共有していない他者と認識を共有するものです。 「究極の哲学が出来たとして……」は, 充実した体験と,開かれた哲学との違いは何か, 両者は総合できるのかできないのか,という疑問を表していると思われます。
その他の回答 (12)
智の探究心に全く濁りがないように、青春の未完成さにも、全く欠点がありません。愚直に智を探究する人が綴ったことばと、純粋に悩んだ思春期の日々が綴られた日誌とが、私には重なって見えます。
- ganesha_me
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普通にどちらも人が手を動かして書いただけのことです。 哲学は学問です。 学問は人のためにあるものです。 言葉や文字は誰かに何かを残すために編み出されたものです。 それは優れているとは云えども、 結局、人間以外には通用するものではないようなもの。 人もまた動物で日々の営みの中、 それを綴ったり記録に残したりしています。 哲学を優れていると信じる人は、 哲学だけが全てではないと気づくべきであり、 その偏った心を改めやすいように、 わざと考えさせる言葉を用いられているのではないでしょうか。
- littlekiss
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こんばんは、gorgeauさん。 さきにことわっておきます。スットコドッコイのお話になったらごめんなさい。 お昼間ここの質問をみました。それからかれこれ数時間、なぜだか松本伊代ちゃんの歌が頭から離れない。 ~♪伊代はまだ16だから~♪この歌の歌詞がまわるまわる。思い当たることといえば… そうそう、暮れにみたTVの何処かの番組に伊代ちゃんが出てたんですよ。 でね、番組の中でこの曲を歌ったあとで伊代ちゃんがポツリこんな言葉をもらしたんです。 「16歳を過ぎて、“伊代はまだ16だから~♪”って歌うのは恥ずかしかった」と。 このとき【センチメンタル・ジャーニー 】を歌う伊代ちゃんは、三十路をすぎ、子を持つ母として暮らしている。 でもね、16の伊代ちゃんも三十路をすぎた伊代ちゃんも伊代ちゃんには変わりないんですよね。 中森明菜ちゃんが歌の中で言ってます “ じれったい じれったい 何歳(いくつ)に見えても 私 誰でも じれったい じれったい 私は 私よ 関係ないわ 特別じゃない どこにもいるは ワ・タ・シ 少女A ~♪ ” ●「究極の哲学が出来たとして、それがA4一枚に書けたとしたら、それは高校生の一日の日記と何が違うのか?」 ANS, 何も違わない、かけがえのない私がそこにいる 【センチメンタル・ジャーニー 】 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND2838/index.html 【 少女A 】 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND2551/index.html
- primates
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究極の哲学とありますが、哲学というのは名前だけで、単なる個人の考え方。考え方に名前をつけて、哲学と呼んでいるだけではないのかと思います。高校生が哲学者でなかろうと、人間が自分で考えA4の紙切れに出来事や自分の気持ちなどを記しているのは事実。いわば、高校生の一日の日記も哲学なのではないかと言いたいのではないでしょうか。 哲学者でも高校生でも人間は人間。その人間の考えは、どれも正しく、究極なのではないかと思います。
ようは同じ文章をA4という紙に書いたという現象が哲学であろうと日記であろうと恋文であろうとA4の紙に文章を書いたという時限で見ればみな同じではないか一体このA4という紙に文章を書くと言う事に我々は何を見出そうとしているのだろうか?という僕が高校生ぐらいの時に考えていたことを書こうとしていたんじゃないでしょうか?
- harepanda
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ANo5ことharepandaです。 茂木氏情報の提供、ありがとうございました。 茂木氏の発言は、「「究極の哲学が出来たとして、それがA4一枚に書けたとしたら、それは高校生の一日の日記と何が違うのか?」という疑問を持つ。これが、後から考えると、ヴィットゲンシュタイン的な問題に初めて自覚的に出会ったきっかけだった」とあります。ヴィトゲンシュタインが問題だったのですね。逆を言うと、「高校生にはヴィトゲンシュタインは理解できない」と言っているようにも読めます。なんか頭にカチンとくる書き方ですね。 ごく一般論から言えば、哲学にも色々な流派があり、ヴィトゲンシュタインは理系に受ける哲学者です。茂木氏がヴィトゲンシュタインに引かれたのも、不思議なことではありません。ここでは大きな問題がいくつかあって、まず重要なのが、人間の認識能力の分析です。人間は世界を理解していると言えるのか、本当に人間の認識能力で世界を理解していると言えるのかということを問い始めると、哲学史はきりのない議論に落ち込んでいきます。本当は、数学や物理学は宇宙を理解できるのかという、より大きな問題もあるのですが、茂木氏について短時間でインターネット上で調べた限りでは、そこまで大きな問題には立ち入っていないような気がします。むしろ、宇宙のようなマクロ現象ではなく、脳と心の関係といった人間学的なレベルでの問題を主眼においているようです。いずれにせよ、この分野には、カントという超大物の先駆者がおり、ヴィトゲンシュタインが特別な存在であるわけではありません。 茂木氏がヴィトゲンシュタイン云々と言っているのは、哲学というのは本当に人間の通常の体験で理解できるものなのか、それを言語化して表記することはできるのかという問題意識をもっていからだと思います。茂木氏の場合、それを文系からではなく理系から出発して議論しているという点が珍しいのですが、世の中には立花隆のような例もあるので、それほど特殊な例とはいえません。人間が同じ理性を持っている限り、他人のどのような主張も、本気で取り組めば全て理解できるはずです。 いずれにしても、「究極の哲学」という発想自体が、理科系的です。私のようなゴリゴリの文科系の哲学専攻者から言わせていただくと、「理想とは何か、結論が出ていない段階で究極の哲学とは何であるか誰にも分かるわけがない」ということになるのですけど。海外ニュースを見ていれば、様々な政治勢力が、それぞれ勝手な理屈を持ち出して、正しいのは自分たちだけだと言っているのを見かけることも多いでしょう。また、人類の全てにあまねく広く適用される「理想」などというものが存在すると言う人がいたら、そこには全体主義国家と個人の抑うつの臭いがプンプンします。近づかないほうがよさそうです。 ヴィトゲンシュタインの主張のひとつとして「メタ哲学」という概念を挙げることができます。西洋哲学者の間では、哲学者の仕事は解決困難に見える問題群(「自由意志」、「精神」と「物質」、「善」、「美」など)を論理的分析によって説明しようという動機が働いていたわけですが、古典哲学者も馬鹿ではありませんから、中世の「哲学者=神学者」というスキームから抜け出し、近代科学の発達と宗教的中庸を出発点とする哲学は、フランス革命の頃にはすでに登場していたわけです。社会哲学においても、古典的で架空性の高い自然法思想のような思想は、フランス革命を頂点に、あとは衰退の一途をたどるばかりで、マルクスにいたっては、法学部卒業でありながら自然法を理解していないという、あきれかえった状況になっていました。自然法世代の社会哲学者だって馬鹿ではないのです。自然法思想の架空性については、ルソーが早い段階で批判を行っていますし、専門家はそれに気がついていた可能性が高いわけです。自然法に変わる社会思想としては、実証主義や歴史法学が登場してきます。メタフィジカルなレベルではなく、十分にフィジカルなレベルで通用するように、社会哲学も変化をとげたわけです。 端的に言います。ヴィトゲンシュタインも、茂木氏も、後期の自然法理論家も、誰一人として、ジャン・ジャック・ルソーの水準を超えてはいません。私はドイツ哲学が専攻ですが、ドイツ人哲学者ヘーゲルの若い頃の文章が、フランス人ルソーと全く同じロジックで出来ていることに気がついたときは、さすがに仰天しました。「こいつ、ルソーに前例があることに気がつかなかったのか」と。ルソーの天才的なひらめきと比べたら、分析哲学やヴィトゲンシュタインの主張など、理論の名前に値しません。
No.3です、皆さんの回答を見て逆説的な読み方も見えましたので補足します。 「A4一枚の哲学があるのならば、高校生の1日の日記1枚も哲学ではないのか?」 という感じですが、なんだか茂木先生にこういうことを考えさせられているような気もしますね。
- harepanda
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前後の文脈を教えてください。茂木健一郎氏の、その文を読んだことはありませんので。
- miledoor
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茂木健一郎氏というのは、脳分野の科学者ですよね?哲学者ではないわけです。昔は科学=哲学でしたがね。 科学者というのは、長い論文をありがたがるものでは? と言うか、A4一枚に収まる論文では博士号が取れない世界の人なのでしょう。 つまり脳科学者の価値基準では、A4一枚に収まるものに価値が無いのでしょう。 究極の哲学があったとして、それがA4一枚に収まるという理由だけで、高校生の一日の日記程度の価値しかないと彼は考えたわけです。 哲学と、高校生の一日の日記の両方に対して失礼ですよねw 哲学においては、A4一枚どころか1節の中に心理があったりします。
そんなものは到底哲学と呼べるような代物ではないはずだ・・・とでも続けば文脈としては間違ってないような気がしますが。 現代国語の試験問題の回答としては 「A4一枚に書き込める哲学はすでに哲学とは呼べるものではない」 といったところですかね。 いずれにしろ前後の文章が分かりませんので推測です。
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補足
すいませんが、HPで見ただけなので前後の文章はわかりません。 http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi/cv.html