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明治の軍人の住所について

基本的な質問ですみません。 たとえば「騎兵第二連隊中隊長」という役職の人は、平時においては第二連隊のある仙台に住んでいたと考えてよいのでしょうか。

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  • ajihira
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回答No.5

 私の曽祖父は、陸士14期生で、陸士卒業後の原隊は「騎兵第二聯隊」です。現在手元に残る当時の曽祖父のアルバムには、騎兵第二聯隊付きで日露出征前後に撮影した写真も残っています。その中に「明治三十七年二月八日 日露戦役出征に際して 下宿家族と記念の為に撮影す」「日露戦役凱旋に際し 下宿家族と撮影す」と曽祖父のメモが附けられた写真があります。  また、「仙台では、聯隊の外に離れを借りて住んでいた」「朝に当番が馬を引いてきて、その馬に乗って聯隊に行き、帰りも馬で帰る。下宿の坊やが、朝、馬について来るので困った」などと申していたと、祖母から聞いたことがあります。  祖母の家は仙台市上杉5丁目にありましたが、曽祖父の住んでいた家は現在の「上杉山通り小学校」の近くだったそうです。騎兵第二聯隊は仙台城の北側、現在の「仙台第二高校」敷地付近でしたから、直線距離にして2キロ程度でしょうか? 祖母から聞いた時は、子供心に「離れたところに住んでいたんだな」と思ったものです。

thebus36
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。私はいま小松慶也という人物について調べています。小松は陸士9期、陸大19期で、日露戦争時は騎兵第二連隊の中隊長でした。ということは、ajihiraさんのひいおじいさんと共に闘ったということになりますよね。 当時の話、どんな些細なことでも結構ですので、何かご存知でしたまた書き込んでいただけませんか。よろしくお願いいたします。 それから≪騎兵第二聯隊は仙台城の北側、現在の「仙台第二高校」敷地付近≫だったとのことですが、あたりに当時を偲ばせるようなものは残っていますか。その高校は連隊の跡地に建てられたものなのでしょうか。近く仙台にも取材に行く予定です。

その他の回答 (5)

  • ajihira
  • ベストアンサー率60% (17/28)
回答No.6

 No.5です。改めてのお問い合わせがございましたのでお答えいたします。  現在の「仙台第二高校」敷地付近には、私が踏査した際には遺構らしきものは一切残っていませんでした。「騎兵第二聯隊」は、1921年のワシントン軍縮条約によって廃止された「山砲兵第19聯隊」の跡地(現在の「東華中学校」付近=宮城野区・フルキャストスタジアムの北)に移転しましたが、そちらにも遺構は残っていないようです。  曽祖父は、南雲純太郎と言います。先にも書きましたように陸士14期生です。卒業後、騎兵第二聯隊付きで日露戦争に出征しました。当初、第二師団副官(副官肩章をつけた写真が残っています)後、聯隊旗手として転戦したようです。残念ながら曽祖父のアルバムに小松慶也中隊長の名は残っていませんが、将校との写真など騎兵第二聯隊当時の20枚ほどの写真の中に小松中隊長も移っているやも知れないと考えると、なにやら他人ではないような感慨も…  ご承知かもしれませんが、日露戦争の戦闘序列表より… 第二師団 師団長 (1)西寛二郎中将 (2)西島助義中将      参謀長 (1)石橋健蔵大佐 (2)阿部貞次郎大佐      参 謀 宇宿行輔中佐 渡辺為太郎少佐          山田軍太郎少佐      高級副官 新名幸太少佐 第三旅団旅団長  (1)松永正敏少将 (2)石橋健蔵少将 騎兵第二聯隊長  秋山房次郎中佐 以下 常備団隊配備で第三旅団隷下の聯隊は、 歩兵第四・第29 野戦砲兵、工兵、輜重兵の各第二聯隊となります。  手元の資料によりますと、小松慶也騎兵大尉は、陸大卒業時の成績は、首席に次ぐ優等のようですね。最終階級は騎兵大尉、最終軍職は第八師団参謀のようですが、何か事情があったのでしょうか? 

thebus36
質問者

お礼

ご丁寧に教えていただき、本当にありがとうございます。参考になりました。 小松慶也の最終階級が騎兵大尉なのは、30歳そこそこで軍を去り、アルゼンチンへ移住したのです。陸大を優等で出たエリート軍人がなぜアルゼンチンなどへ渡ったのか、その謎解きに現在挑戦しています。 小松は9人の子どもを持ち、うち1人はアルゼンチンに存命です。また孫、ひ孫も数多くいます。

  • m-jiro
  • ベストアンサー率55% (92/167)
回答No.4

将校も本来は兵営内に居住することが原則だったようですが、営外の借家等に住んでもよかったようです。よかった、というより一般的だったと思います。この場合、住居手当や食費の手当ても出たようです。さらに寒冷地手当てといったものもあったようです。(営内では無料だったはずですから) 226事件関係の本にそのように書いてあったと思います。

thebus36
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

  • Yabukoji
  • ベストアンサー率33% (158/475)
回答No.3

> ひとつわからなかったのは「営外」という言葉の > 意味です。「連隊の敷地のまわり」といった理解で > よろしいでしょうか。 よろしいと思います。辞書は「営外」を「兵営の外」としていますが。

thebus36
質問者

お礼

ご丁寧にありがとうございました。

  • Yabukoji
  • ベストアンサー率33% (158/475)
回答No.2

100%仙台市のそれも連隊本部から遠くない場所に住んでいたと思われます。 ご質問について、かって軍務につき営外居住していた夫を持っていた伯母に尋ねたところ、営外の居住場所は連隊によって完全に管理されていて、非常の呼集に”遅滞なく”出頭できないような距離の住宅は許可されなかったろうということでした(当然でしょうが)。 これは昭和初期の話ですが、明治の騎兵連隊も同様であったと思います。

thebus36
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。伯母様の話まで紹介くださり、参考になりました。ひとつわからなかったのは「営外」という言葉の意味です。「連隊の敷地のまわり」といった理解でよろしいでしょうか。

  • sgm
  • ベストアンサー率60% (375/618)
回答No.1

帝国陸軍の軍人は基本的には所属する隊の所在地に居住していました。 本来補職される職位と進級時期を整合させるため(たとえば、5月に転任になるが、補職に必要な階級に進級するのが6月になる場合など)例外的に短期間、書類上、居住しない地域の役職に補職される場合もありました。また、様々な理由で閑職を余儀なくされた将校が配属される”書類上にしか存在しない部隊”というのもありましたが、通常の勤務に従事している軍人が配属されることはありませんでした。

thebus36
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。例外的な話まで教えていただき、大変参考になりました。

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