司馬遼太郎「坂の上の雲」や児島襄「誤算の論理」を読むと、明治と昭和の差に愕然とし、「物量に負けた」などと言ってられないことがよくわかると思います。
前の戦争で戦果を挙げた作戦は陳腐な作戦である、というような趣旨の発言をを秋山真之海大教官は言ってたのではないかと思います。ところが、日露の大勝に驕ったそれ以降の軍人には、「勝った戦法は正しい戦法」と思い込む空気があったことは、谷寿夫「日露戦史」なる、戦史研究家が鼻もひっかけないような文献を見ればよくわかります。ここに日本人の権威主義が大好きな弊が見て取れます。ここだけは明治も昭和も大差ないようですが。
陸大・海大の卒業序列や海兵のハンモックナンバーを重視しすぎたこともあるでしょう。実戦で戦果を挙げた指揮官(宮崎繁三郎など)を登用しない、硬直した人事もあります。一度、「幹部候補生」になったら、無能であることが暴露してもエリートコースから外れない(牟田口廉也など)ようなことは、現在の学歴偏重人事を行っている企業でもよく見られる現象です。誰かが前に決めたことを覆すことは、日本のような先任主義が徹底した社会では、極めて困難なことと思われます。一方、明治の陸海軍はダイナミックな人事が行われており、山本権兵衛が上役のクビを次々と斬り、海兵を卒業したての秋山を海大教官にするなど、自由な空気に満ち溢れておりました。こんなことができたのは、この時期、軍の上層部には「今は画期的な時期であり、杓子定規的なことは行うべきではない」という意識があったからでしょう。単に、明治が優れていて昭和がダメの一言では片付けられない一面もあったことは指摘されないといけないと思われます。
第二次大戦全体のターニングポイントと言われるミッドウェー海戦の敗因を、「誤算の論理」は手短にまとめております。作戦策定から挙行までの時間が足りなかったこと、それによって暗号改定が間に合わなかったこと、レーダがお粗末で索敵能力が劣ったこと、作戦に参加する要員の守秘意識が低調であったこと、ミッドウェー島攻略と敵機動部隊撃滅とのどちらを重点に置くかを怠り、雷装を爆装に転換している間に好機を逸して敵の来襲を受けたことなどの拙攻があったことです。これらの過ちの起因は「驕慢」であったからでしょう。
一方のアメリカは、日本で「敵性語を使うな」なんてバカなことを言わずに、「汝の敵日本を知れ」という映画を制作し、ベネディクトが「菊と刀」を著すなど、「敵を知る」ことを懸命に行っております。田中義一も、ロシア駐在武官としてロシアを研究し、ロシアの士官学校の乱脈に呆れ、「敵が極東に集結する前に叩くべき」と主張しています。しかるに、昭和の軍人に、敵を研究するなんて姿勢は微塵も感じられません。
要するに昭和の軍人は官僚化してしまって、戦う集団ではなくなっていたということに尽きるでしょう。適正な人事がなされていれば結果は違ったかも知れませんが、質問者さんのおっしゃる通り、昭和の軍人は、日清・日露戦争に勝って浮かれていたんですよ。
お礼
一番納得のできる回答だったのでBAにさせてもらいました。 皆さんありがとうございました