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日露戦争の『後備歩兵連隊』

日露戦争の後備歩兵連隊について教えて下さい。 長々スミマセンが、是非読んで下さい。 太平洋戦争終戦時、皇居には57流の歩兵連隊の軍旗がありました。 その内には後備歩兵連隊旗も含まれます。 後備歩兵連隊旗は、日露戦争が終結後、そのナンバーの歩兵連隊に一緒に保管さ れ、演習に一部が再出動されて、演習終了後また返納保管された。 その後、陸軍増強計画(戦時50コ師団計画)で編成方法が変わり、特設師団を 編成する計画になりました。 後備連隊旗は用済みとなり、皇居返納。 皇居の櫓倉庫に保管されました。 太平洋戦争終戦時、皇居の倉庫に保管されていた歩兵連隊旗は、全部で57流( これは分かっています)。 このうち後備歩兵以外の物としては、乃木大将の少佐時代の再親授されてしまっ た歩兵第13連隊旗、特設師団動員復員後に再編成されなかった歩兵第103連隊、 南海第1守備隊に改編された歩兵第122連隊。歩兵第88連隊に改編された独立歩 兵第1連隊旗 引き算すると、後備歩兵連隊旗は、53流。 (その他としては、搜索連隊、機動歩兵連隊に改編等で返納された騎兵連隊旗。 ) これらは、終戦時、侍従武官により、こっそり奉焼された。 調べて分かっていること事は・・・ ・後備歩兵連隊は、第1次~第3次に別れて編成された。 ・第1次は、各連隊番号を継承し、2コ大隊編成。奉天会戦後3コに改編そして 後備混成旅団に。 ・第2次の連隊番号は49~60で、兵役法変更により捻出された後備兵で編成され 、最初から3コ大隊編成だが、各編成地は、各師管各1コの他は、東京師管が2 コと、旭川師管は0であった ・第1次の内、野戦軍に配属され、当初後方警備、その後、兵力不足で第一線に 配属された後備歩兵連隊は、編成、補充担任は戦史から分かっている。 ・しかし、韓国守備軍や、遼東守備軍に配属された独立配備の後備歩兵連隊は、 資料が見当たらず、戦歴、番号すら分らない物が多い。 ・各師管で合わせて3コ後備歩兵連隊しか編成されなかったとする資料もあるが 、別の資料を発見した結果、最初から4コ後備歩兵連隊を編成し、2、3コ連隊 を後備歩兵第旅団として、大陸に送り、1、2コは独立して要地、要塞守備に 配属された師管もある (東京師管の後備第2、3連隊は、後備第1旅団に組み込まれず、東京湾要塞に 配属された) (熊本師管の後備第45連隊は、対馬警備にあたった。その後大陸に進出してい る) (小倉師管の後備第46連隊は、長崎、佐世保要塞に配属された。) (小倉師管の後備第24連隊は、下関要塞配属) ・各師管区は当初3コ連隊しか編成しなかった師管もあるが、第3次兵備で4コ目 の連隊を編成している師管もある。 ・連隊とは、名ばかりで、1ヶ大隊の連隊も存在するらしい。 (戦争前動員計画で、後備歩兵独立大隊ばかりの編成とする資料にある物が、 それかもしれない) ・旭川師管は、後備歩兵第25連隊を編成している。 (それは、師管内の4コ連隊区で精一杯編成した各1コ大隊の内、3コを集成して、 第3次兵備として連隊を編成して大陸に送っている ・近衛は、近衛後備第4連隊を編成し、独立して大陸の兵站警備にあたっている 。 (第3は、資料が見当たらない。もしかしたら禁闕守衛かもしれない) (または、天皇家の神宮等に分散され守護?、後備近衛1コ中隊が、伊勢神宮守 護を、後備33歩兵連隊と交代しているとの資料も発見した) 以上が分かっています。 53流の連隊旗から逆算すると、常設番号の内、編成不可能な第7師管分を除い て、多分5~9の後備歩兵連隊が編成されていない事になります。 そのナンバーは不明。 一部は、明治天皇記から、宮中の軍旗授与式の日付より、後備歩兵連隊名を調べ ました。 質問は、 (1)第3次の後備歩兵連隊の編成状況、編成地、 (2)どの後備歩兵連隊が編成され、独立して要塞守備、韓国守備軍、遼東守備軍 に配属されたか? (3)知られていない、独立して要塞守備、韓国守備軍、遼東守備軍に配属された 、後備歩兵連隊の戦歴について。 (4)編成されていない、後備歩兵連隊のナンバー。 以上、何でも良いです。 教えて下さい。 戦史叢書読みました。 明治天皇記読みました。 アジ歴も探しました。 防衛研究所行きは、ご勘弁。 何でも良いです。 思い当たること、よろしくお願いします。 よろしくお願い致します

みんなの回答

noname#206655
noname#206655
回答No.1

(1)第3次の後備歩兵連隊の編成状況、編成地 山奥で敵に悟られない場所で、オスプレイも偽装し衛星写真に撮られない場所 (2)どの後備歩兵連隊が編成され、独立して要塞守備、韓国守備軍、遼東守備軍 に配属されたか? これがバレると戦力が漏洩するので、ひ・み・つ

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