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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「すととん節」で名を売った23連隊の所在地と理由は?)

「すととん節」で名を売った23連隊の所在地と理由は?

このQ&Aのポイント
  • 大正13年に流行した「すととん節」について、23連隊の所在地とエピソードについて調べています。
  • 二十三連隊や十二中隊には特別なエピソードがあり、CDの芸人も歌い難そうにしています。なぜ二十三連隊にしたのか背景が気になります。
  • 二十三連隊の所在地に関する情報は複数ありますが、大正13年の時点で名を知られていたのは都城の歩兵第二十三連隊か盛岡の騎兵第三旅団第二十三連隊なのか疑問です。

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回答No.1

>23連隊の所在地と理由は?  というご質問について、推測を交えて回答します。「23連隊」とは、宮崎県の都城歩兵第二十三聯隊を指すのだと思います。   「すととん節」は、大正時代末期の閉塞した世相風俗を皮肉った俗曲として流行したようですが、ある資料には「昭和三年に流行」ともあります。  ご質問の「二十三連隊‥」については、「すととん節」のほかの歌詞のなかでもどこか異質な感じがするのですが、もしかすると、この番だけは、昭和三年(1928年)ごろに加えられたのではないかとおもわれます。  その理由として、まず、大正十三年(1924年)というのは、いわゆる大正軍縮によって軍備が縮小されていた時代で、しかも戦争や事変が起きていない平和時代だったため、当時常置されていた陸軍部隊は平時編制をとっており、歩兵連隊の歩兵中隊数は九個だったからです。したがって十二中隊というからには平時の唄ではない、ということになります。  さて、昭和二年(1927年)に中国で蒋介石による北伐が開始され、これに対してわが国は山東省の権益を守るために、翌三年四月に山東出兵(のちに済南事変となる)を行ったのはご周知のことと思いますが、このとき出動した部隊のひとつが都城二十三聯隊でした。外地へ出陣するときには平時編制を改め、連隊は十二個中隊つまり戦時編制をとりました。ゆえに、この二番は連隊が出動した頃のことをうたったのではないか、と推測されるのです。歌詞を見ても「営門でハンカチくわえて目に涙‥」というのも平時の雰囲気とは異なり深刻な感じがします。平時なら面会日に会えるはずですし。  なお、騎兵連隊の編制は、歩兵連隊よりもかなり小規模なもので、平時で三~四中隊、戦時でも四~五中隊でした。だから騎兵第二十三聯隊は該当しない、と思われます。また、大正十四年ごろまで岡山に野砲兵第二十三聯隊があったはずですが、この連隊は軍縮で解隊されております。 >二十三連隊や十二中隊には特別に勇猛果敢であるとか、軟弱であるとか喧伝されていたエピソードがありましたか。  都城歩兵第二十三聯隊は、熊本に師団司令部がある第六師団の隷下部隊で、当時「田原坂以来の日本一の六師団」と謳われたほど自他共に精強を誇った師団(連隊は熊本・宮崎・鹿児島・大分)でした。二十三聯隊も日露戦役では十一度も感状を受けたほどの部隊で、済南事変後も満州事変、支那事変と歴戦し、南京攻略作戦にも従事しました。太平洋戦争が始まると南方のブーゲンビル島へ派遣されて疫病と飢餓に苦しみつつそれでもゲリラ戦によりオーストラリア軍を苦しめ、終戦まで持久を続けました。 資料=『熊本兵団戦史』 同編さん委員会 熊本日日新聞社  

sono-higurashi
質問者

お礼

都城歩兵第二十三聯隊が有力な候補なのが分かりました。 こんな話題は知っているか否かで、知らなければ立ち往生で、それまでなのだと思っていました。こういう手法で考証していくものだと教えられたのは大変な収穫です。 この手の歌は歌詞の変化、追加、省略などが自由自在そうですから昭和に入っての歌詞かも知れません。連隊の平時編制と戦時編成の相違、昭和初期の軍事情勢、日露戦役以来の都城歩兵第二十三聯隊の動向、そうした諸々の総合判断から有力な候補を炙り出した手法に敬服します。 こんな、ただの思いつきみたいな質問に対して、先週に続いて真っ正面から応じて下さった事にお礼を申します。有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。 他に回答を得るのは困難な予感がありますが、調べている方がおられてはいけないので3月2日(日)までは締め切らないでおきます。ご了承下さいませ。

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