- ベストアンサー
豊臣家はなぜ大坂の陣ができた?
歴史年表を見ていてふと思ったのですが、豊臣家は関ヶ原の戦いで負けています。普通、戦み負けると家は断絶になるか家臣はいなくなるかだと思いますが、関ヶ原の戦いが1600年で、大坂冬の陣が1614年です。戦いに負けた豊臣氏がなぜ14年もの間そのままでいられたのでしょうか。 徳川家と戦うにしても膨大な兵力や兵糧が必要なはずです。豊臣家が関ヶ原で負けても存続できた理由が知りたいです。 さらに冬の陣の翌年には夏の陣まであり、また大戦争をしています。なんでそんなに兵力を維持できたのでしょうか。 よろしくお願いします。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
分かりやすく一言でいうと「秀吉の蓄財がそれだけすごかったから」に尽きるのかなと思います。 大阪城が落城した時点で、大阪城には金2万8060枚、銀2万4000枚が残っていたといいます。普通はこういうものは落城のドサクサで相当盗まれるはずなので、それを経てもなおそれだけの財が豊臣家にはあったということです。 そもそも家康は豊臣家の財を少しでも減らすために、関ヶ原以降は何かと口実をつけては寺社仏閣の修築に莫大な供出をさせていました。にもかかわらず、でありますね。 >豊臣家が関ヶ原で負けても存続できた理由 これ、戦国初心者の人がみな起こす間違いなのですが、関ヶ原の合戦はあくまで「家康vs三成」という名目なんですよ。あくまで「ポスト秀吉の豊臣政権内における権力争い」です。だから、豊臣家は負けても存続するのです。トヨタにおける豊田家みたいなもんですから。 豊臣家ってはあくまで関白という公家の役職を担う形で政権をとる形になったので、何代も政権を天皇家からとる(担う)には政治的な口実に無理があったのですよ。 一方、徳川家はご存知のとおり征夷大将軍になり、征夷大将軍の場合は警察権や軍事権、行政権を「幕府」という形で天皇家とは別に独自の権力を持つことが可能でした。これが徳川幕府が約200年保てた政治的理由のひとつなんです。武家が天皇家を事実上支配下において武家政権を保つためには、征夷大将軍しかなかったのです。鎌倉幕府も室町幕府も征夷大将軍だったのは、そういう理由があるのです。 秀吉という人は日本史における空前絶後の「公家でも武家でもない人」だったので、然るべき権力ポジションが存在しなかったのです。 話しを元に戻して戦国末期にかけては、合戦のときだけ金で雇われるフリーター武士というのが沢山いたんですね。映画「七人の侍」に出てくる七人の侍はそういう人たちです。現代でいうと、あのロシアのワグネルとか、あるいは「民間軍事会社(PMC)」なんて呼ばれる人たちがいますね。つまり傭兵です。 で、秀吉によって天下統一がなされると、そういうフリーター軍人というのはむしろ社会不安の原因になるんですね。戦争がなくなり仕事はないけど「もう平和な世の中だから農民でもやれ」といってもできない人たちです。 秀吉が行ったフリーター失業武士雇用対策が、朝鮮出兵です。いかにもイケイケの創業社長が考えそうなことです。日本国内で働き場所がないなら、朝鮮、中国に行って彼らに「仕事」を与えればいい、というわけです。 そして家康が行ったフリーター失業武士対策が、大坂の陣だったのです。豊臣家はお金はありましたから、そういう人たちを片っ端から雇ったのです。あの真田信繫(幸村)もその一人です。 大坂の陣が行われたことによって、かなりの数の失業武士を大阪に集めて、まとめて「片付ける」ことができました。しかしそれでもまだ失業武士は多かった。 次に彼らが目指した場所が「島原」です。あの「島原の乱」のときに籠城側にはかなりの数の失業武士が集まりました。実は幕府は彼らが島原に集まるのを黙認していました。途中で止めてどこかで騒乱を起こすより、一か所に集めてまとめて片付けたほうが手間が省けるというものです。島原の乱では幕府軍は序盤で幕府側の総大将が討ち取られるという大敗北を喫しているのですが、それは百戦錬磨のベテラン武士が島原側に多々参戦していたからなのです。 島原の乱の鎮圧によって、ようやく失業武士問題は落ち着くことになります。しかし失業武士による反乱または幕府転覆計画はなくなったわけではなく、最後にようやく決着がつくのは何と三代将軍家光の代になって起きた「由井正雪の乱」が鎮圧されてからとなります。 なので豊臣軍があれだけの大軍を用意できたのは、それだけのお金があったということと、人的資源(失業武士)があったということでありますね。
その他の回答 (2)
- oska2
- ベストアンサー率44% (2326/5176)
>豊臣家は関ヶ原の戦いで負けています。 この戦いは、豊臣政権での権力闘争に過ぎません。 現に、石田三成を嫌っていた大坂側は「東軍に対して、莫大な軍資金」を与えています。 まぁ、形式的な話ですが「家康軍の方が、政略・戦略家」でした。 >戦いに負けた豊臣氏がなぜ14年もの間そのままでいられたのでしょうか。 先に書いた通り、豊臣対徳川の戦いではありません。 形式的には、豊臣は敗戦ではありません。 大坂城内に、家康が入場し「豊臣から政治を受任」していますよね。 確か、西の丸に5重の天守閣も新規に建立しました。 直接、豊臣・徳川が戦ったのは「大坂の陣」です。 >なんでそんなに兵力を維持できたのでしょうか。 関ケ原では、直接豊臣軍本体は動いていません。 光成が「豊臣の軍旗」を希望しても、秀頼・淀は拒否しています。 「関ケ原の戦いは、豊臣は関与しない」とね。 また、西軍が敗れても「西軍に属して浪人になった武将が、秀頼の求めに応じて大坂城に入城」しています。 真田幸村は、有名ですよね。 また、一攫千金ならぬ「もう一度栄光を!」という浪人が全国各地から入城しています。 後藤 又兵衛は、有名ですね。 これらの事が「豊臣は、徳川との戦闘を準備している」と家康に口実を与えました。 資金的には、秀吉時代の莫大な財産があったのです。 余談ですが・・・。 ロシアがウクライナ派兵北朝鮮軍人に払っている給料は、一人月給35万円です。 大坂城の場合も、だいたい同じ額です。
お礼
- maskoto
- ベストアンサー率54% (618/1129)
まず、関ヶ原は豊臣対徳川と言う戦ではなく 豊臣家臣である徳川家康率いる東軍と、同じく豊臣家臣である石田三成(毛利輝元)率いる西軍の戦でありましたから 関ヶ原は豊臣の家臣どうしの戦であり 関ヶ原の敗者は豊臣家というわけではありません そして、関ヶ原の敗者となり、徳川の裁定により領地を完全に失い、お家をとり潰された西軍参加者は、徳川に恨みをもった事でありましょう 何より、領地を回復し家を再興しようと言う思いが強かったかと思われます そのような状況下で、時がながれ、徳川と豊臣の官位の上下関係が逆転、やがて君臣の関係も逆転し、ついに両者は対立するに至ります 両者の間に戦が起こる気配が濃厚となってくると、西軍参加で浪人となった武士達は 豊臣に加わろうと言う動悸(恨みを晴らして旧領を回復すると言うモチベーション)はあるし、豊臣家には秀吉が蓄えた金がたっぷり蓄えられていたそうなので、豊臣に加勢する武士に支払う褒賞金もある、武器弾薬兵糧を賄う戦費もある と言う事で、徳川と戦が出来たと言う事のようです
お礼