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大阪冬の陣、和議の内容
- 大阪冬の陣は、徳川方と大坂方の和議が含まれていたが、徳川方のフランキー砲の砲弾が天守閣に命中し多くの侍女が死傷したことで、大坂方は突然和議に持ち込まれた。
- 大坂方は徳川の都合良い条件で和議を結んだが、城の外堀の埋め立て作業では最初は大坂方が自分たちで行う予定だったが、徳川方が埋めることになった。
- 大坂方が内堀の埋め立てにまで気を配っていたかは不明であり、徳川方に対して力ずくの交渉や妨害はできなかった。
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>なんにしても豊臣恩顧の大名がだれも馳せ参じなかった 現実を冷静に考えて、「ゴメンチャイ」といえば、 豊臣家も存続出来たかも知れず返す返す残念です。 No1です。これは私もよく考えます。 「ゴメンナチャイ」では済まないとは思いますが 大坂城を退出し、先の関白の息子として 京都御所の付近に庵をたて、和歌や蹴鞠をし、 家康や秀忠の前で蹴鞠を披露するとかして 公家として生きていきますとアピールすれば 豊臣家は残ったかも知れません。 今川氏真はそのようにしました。そして今川家は明治維新を 迎えることが出来たのです。 そこまですればあの織田信長でも許容したのです。 家康は以前は豊臣家の家臣であり、秀頼からは爺と言われてたことも あったので、見逃したかも知れないと思います。 人間バカを演じなければならない時もあります。
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- kuroneko3
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既に他の方からの回答がありますので,一点だけ補足。 大阪冬の陣では,豊臣方は豊臣恩顧の大名達が秀頼に味方してくれることを期待し,大坂城に籠城したのですが,実際に秀頼の味方となったのは浪人衆だけで,国持ちの大名達は誰一人として秀頼の味方にはなりませんでした。この時点で豊臣方の劣勢は明らかであり,豊臣方としては大坂城の防御力に頼りつつ,家康が病死して情勢が変わるのを待つしかなかったのです。 講和後,大坂城の外堀は埋め立てられましたが,この時点で大坂城の防御力も大幅に低下していたほか,秀吉がため込んでいた軍資金も概ね使い果たしていたので,徳川方から再度の攻撃を受ければ,もはや勝ち目はない状況でした。豊臣方としては,内堀まで埋めようとする人夫達を武力で排除したりすれば,徳川方に攻撃の口実を与えることになり,それは豊臣家の自滅を意味したのです。
お礼
いろんな書物を読んで思ったのは、加藤清正や 福島正則はこの陣場合、命をかけて徳川に制止を 働きかけねばならない立場なのに、「息子には 世話になってないし~」でもないでしょうが、 豊臣の役に立ってません。(清正は没してたかな、 知識不足スンマソ) なんにしても豊臣恩顧の大名がだれも馳せ参じなかった 現実を冷静に考えて、「ゴメンチャイ」といえば、 豊臣家も存続出来たかも知れず返す返す残念です。 回答ありがとうございました。
- Verhalten
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家康が購入したのはカルバリン砲とオランダ製の大砲でした。 和議に応じる数日前から話し合いは続いており、 豊臣方は淀の人質と浪人の加増の条件などを提示していました。 >多くの侍女が死傷し、 淀殿が狂ったように「和議じゃ、和議じゃ」と 勝手に講和に持って行きました。 これで豊臣方の条件が無い和議になったのは事実です。 後は「堀の埋立」を参照して下さい。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3 関が原の家康隊になどと言う反論も馬鹿らしいので他の事をします。
お礼
しかし思うに、秀頼を「上様、上様」と持ちあげても 息子を戦場へ出すはおろか、決裁もさせず、女だてらに 全軍を総べようとする淀殿の気性が豊臣滅亡の一因ですね。 大坂方の重臣はそんなこと分かっていただろうに、なぜ 淀殿を斬らなかったのか、真田が暗殺隊を出すということは 考えられなかったのでしょうか。 回答ありがとうございました。
- ikuzecia
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>大坂方が自分らで埋めると言ったものが.・・・・・ 家康は当時としては異様なほど高齢です。 ゆっくり埋めておればそのうち死ぬだろうという計算があったのです。 講和条件を無視し埋め始めた家康が1枚も2枚も上です。 >質問は、外堀だけだった埋め立てが、内堀にまで 及ぶにあたって、大坂方はその間 ぼけ~っと見ていた だけでしょうか 何度も家康に抗議に駿府まで行きましたがのらりくらり ごまかされるばかりでした。 当時は新幹線もないので大坂、駿府の往復時間もたいへんかかり その間に工事はどんどん進みました。 >工事の人夫や監督武将を血祭りにあげて、条約違反を訴えるような力ずくの・・ これこそ出来なかったのです。 もしすれば幕府側の攻撃する絶好の口実になったのです。 大坂夏の陣の口実に大坂側が埋められた堀をもう一度掘り返したというのが ありました。
お礼
当時は家康以上の権力者はいないので、その人に 無視されたら、言っていく所も無く、泣き寝入りか 実力行使しか選択肢は無く、今の日本なら、”訴えてやる~” ということも、豊臣氏は我慢しかなかったのですね。 夏の陣で真田軍に本陣を襲われた家康は、何度も 切腹を考えたといわれるが、今更家康が死んでも、 徳川は秀忠が2代将軍になっているので徳川の天下は 揺るがず、豊臣復権は夢のまた夢という現実が 分からなかったか、分かっていても信じたくなかったか 淀殿という女性ひとりの気性が起こした戦いでした。 世の中ズルイ人にはかなわない典型的な例ですね。 回答ありがとうございました。
お礼
おっしゃる通りですね。武士からにわか公家になった 豊臣氏は、徳川という新たな武士の棟梁に対して、公家という 立場に専念し、豊臣右大臣家という位を全うすべきでした。 ただ、「臣下の徳川ごときが・・・」というプライドが 我々一庶民には理解できない葛藤を生み、死すとも 徳川の支配は受けず、になるのでしょうね。 淀殿以外の女性ならともかく、信長の姪で、しかも秀吉の 側室、こんな女性ならかくあるべきものか。 重ねての回答ありがとうございました。