- ベストアンサー
関ヶ原以降の豊臣石高について
関ヶ原以前豊臣家の石高は二百万石ですよね。 で関ヶ原以後の石高は家康によって六十五万石になりましたよね。で不思議に思うのですが関ヶ原の戦いは豊臣家対徳川家の戦いではなく豊臣家の内部争いでそれを東軍の総大将家康が豊臣をまとめたわけでこの時点では少なくても形式上は家康は豊臣家の家臣なわけで関ヶ原の戦い後家康が豊臣家を二百万石から六十五万石したけどなぜ家臣である家康が豊臣家を二百万石から六十五万石にできるのですか? 普通出来ないですよね。 そこらてへんがよくわからないので教えてください。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
豊臣家に逆らった、石田三成などの逆臣を倒した、徳川家康を始めとした、忠臣に、豊臣家の大老である徳川家康が恩賞を出すのは当たり前であります。 忠臣に報いるために厚く恩賞を出すべく、豊臣直轄領を減らすことなど、当たり前のことです。 というようなロジックです。
その他の回答 (3)
- oska
- ベストアンサー率48% (4105/8467)
>家臣である家康が豊臣家を二百万石から六十五万石にできるのですか? 確かに、関ヶ原の戦いは「豊臣家臣団の内部抗争」です。 本来なら、宗家である豊臣家の石高は変更が無い訳です。 ところが、困った事に。 1.秀頼は元服していない。 2.5大老5奉行制度が生きている。 形式上は、家康は「秀吉からの、秀頼が元服するまで政治を行なう権利」が存在しています。 この事は、家康も納得していたようで、各命令書も「奉行」として差し出しています。 領地の没収・配分は、家康の権限だったのです。 では、何故秀頼の領地を削減したのか? 「秀頼及び豊臣家家臣では領地支配が出来ないので、秀頼成人まで別途管理する」との名目です。 家康は、形式上「秀頼の家臣」を装っていただけですが・・・。 秀頼は分かりませんが、淀君・大野などは納得していたようですね。 1603年、家康が将軍宣下を受けても「秀頼成人後には、豊臣政権誕生」と信じてました。 家康が秀忠に将軍職を譲った時点で、初めて「騙された」と分かったのです。
- drakichi70
- ベストアンサー率19% (23/116)
以前にこのカテゴリで書いた覚えがありますが、関が原以前豊臣家は本国の摂津,河内,和泉の他播磨一国および山城や近江,大和などの畿内を中心に全国各地に領地を持っており、それらを各大名に預けていました。(例えば石田三成は近江佐和山19万石の外、豊臣家の近江における代官地5万石を管理していました。) 関が原の後それらの大名が取り潰されたり、他地方に栄転したりのどさくさにまぎれて徳川氏が天領にしたり、他大名に与えた結果豊臣家は摂津河内和泉三国の一大名に転落しました。
- 1582
- ベストアンサー率10% (292/2662)
秀頼が幼く判断できないから家康が代わりにやった