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大坂城の内堀
大坂冬の陣で講和した時の条件は堀を埋めるという事でしたが、徳川家康は堀をわざと指定せず外堀どころが内堀まで埋めるという狡猾な事をやり、丸裸にされた大坂城は大坂夏の陣で豊臣秀頼・淀君の親子もろとも落城の憂き目を見ることになってしまいましたが、 どうして豊臣方は内堀も埋められてしまうのを黙って見てるしかなかったのでしょうか? 内堀と言っても広くて大きいでしょうから、埋め立てるのにも日時が掛かるでしょうし、武力行使で止めようと思えば出来たはず。「内堀を埋めて良いとは講和条件にない!」と抗議して止めさせる事だってできたはずなのに、なぜ家康のながすままにされてしまったのでしょうか?
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講和条件の中に「浪人を全員解雇する」も入っていました。 これも豊臣方は、うやむやにできると思っていたようですね。 なかなか外堀・内堀を埋めようとしなかったり、浪人を城内に残しておいたりと、約束を破っているのは豊臣方でした。 従って、徳川が表立って講和条件を破っていない以上、武力で工事を中止させれば、再戦の口実を与えてしまいます。豊臣方は抗議までが精一杯でした。 実際、工事の済んだ後、浪人たちが堀を掘り直そうとしますが、これを重大な講和違反として、夏の陣が始まりました。もっとも、再戦の口実など、徳川にはたいした問題ではなかったでしょうけれど。
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- ss79
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豊臣側からは度々抗議の使者が出向いていますが、工事の担当者は命令だからとか色々口実を設けてききいれません。 仕方なく家康本人に抗議しようと使者を送りますが、この抗議が来ることを予想して家康は駿府に戻っており、道中の時間がかかりその間にも突貫工事で破壊が続きます。 駿府で家康に面会した使者に対し、家康は工事の担当者のミスで直ちに中止させようと答えますがその命令を遅らせ、工事は終わってしまいます。 堀を埋めるのに大阪城の塀や防御構造物を壊すので工事は早かったのです。 No2のご回答にあるように大阪側のもくろみは完全に裏をかかれてしまったのです。 講和直後で大阪側には実力で阻止する程の覚悟もなくただ傍観するだけでした。 東西双方の覚悟の相違でした。
補足
なるほど、ですが私にはもう一つ疑問が残っています。 それは講和したといっても、大坂城には真田幸村とかの武将や兵隊が残っていたはずでしょう。それなら、「家康からの返事を貰うまで、中止にしろ!」と工事をしている人夫に刀や鉄砲など武器を押し付けて、むりやり工事を武力で中止にさせることもできたはずだと思うのですが・・・なぜそれが出来なかったのか?というのが、小さい頃から頭の中に疑問として残っていました。
- a-koshino
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講和条件の中に、惣構えの破却の他、二ノ丸・三ノ丸の破却も入っていました。ただし、徳川は惣構えの破却のみを行なうとなっていました。 豊臣方としては、家康が死ぬまで二ノ丸・三ノ丸の破却を先延ばしにすれば、うやむやにできるだろうとの目算があったようです。 ところが徳川方は諸大名を動員して惣堀を埋め、惣構えを破却すると、手伝いと称して三ノ丸の堀(厳密には、これが外堀)を埋め、三ノ丸を破却し、二ノ丸も同様にします。 大坂方の抗議に対して、徳川は「そんなばかな、何かの間違いだ。すぐにやめさせる」とか「すぐ元に戻す」などと口約束を連発し、その間に工事は終わってしまいました。 まあ・・・考えが甘かったんですね。
補足
豊臣方も打算があったでしょうけど、徳川家康にはその打算も見え透いていたという事でしょうね。 でも、これだけでは私の疑問に全て答えたという事にはならないので、もうちょっと補足回答をいただけるとありがたいのですが。 私の残りの疑問とは、↑のNo.3の方の補足欄を見てください。
- Willyt
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内堀を埋めたのではなく、外堀を埋めたのです。内堀は現存しています。外堀はもっと広く、広大な敷地が城内に取り込まれていました。
補足
歴史本などでは 「大坂城の外堀どころが内堀まで埋められてしまった」 とありますが、これは正確な表現ではないという事でしょうか?
お礼
追加回答ありがとうございました。小学生時代からの長年の疑問が解けてきました。 歴史本や歴史漫画では、家康が完全に豊臣方を騙したから悪いのだ、という風な表現でしたので、「本当に家康だけが悪いのかな?」という疑問が頭の中から離れなかったのです。こうして見ると、家康だけが一方的に悪いように書かれているのは、単純に判官びいきだけでなく、政治・経済中枢を江戸(東京)に取られた大阪人の恨み(?)なのかもしれないな、と思ってしまいますね。 講和もとい交渉とは(騙しあい)でしかないという事が良く分かります、これはどこの歴史でも見た来た事ですね。豊臣方は講和しておきながら約束を守るつもりなんて無かった、しかし家康はその態度を計算していたのが歴史の真実だったのですね。 家康に服従するという屈辱を味わっても家門を守るか、服従するぐらいなら家が滅んでも構わない、どっちの選択が豊臣秀頼には良かったのかは分かりませんが、早い段階から前者の選択を潰してしまった事は愚かな事だったと思われても仕方がありませんね。 (織田信長の子孫の一部は秀吉・家康に服従する事で家門を守ったですし)