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徳川を倒そうとする人はいなかったのでしょうか?
徳川家康が天下を取った後、家康を倒して自分が天下を取ろうとする人が現れなかったのは何故ですか? 天下取りの戦も、自分で調べてみたところでは大坂の陣が最後だと思います。 織田信長も豊臣秀吉も、それぞれすごく力もカリスマ性もある人だったと思うのですが、それを倒して自分が、と思う武将はたくさんいたわけですよね。 それが、徳川に対してはそういう動きが出なかったのはなにか理由があるのでしょうか?
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1,経済力が違いました。 徳川家は400万石です。 最高で450万石まで行きましたが、これに 比較して、薩長合わせて半分にもなりません。 加賀でやっと100万石です。 日本全国で2400万石です。 経済力が違う、ということは軍事力も違う、という ことです。 2,統治が巧みだった。 統治には威嚇の原理と納得の原理があります。 威嚇は、参勤交代やら人質の江戸滞在などがありました。 賦役というのもありました。 これは各藩に仕事を押しつけるものです。 そうやって経済力を削ぐことをやりました。 それに徳川家は、結構公平妥当な統治をしていたことが 判明しています。 (1)各藩の改易は、キチンと事実関係を調べ、統治能力の 有無を最重点にして判断していました。 (2)百姓や町人に対しても、一方的に押しつけることは 少なかったことが判っています。 根回しをして、説得し、賛同を得てから実行しています。 逆に賛同を得られない場合は施行しませんでした。 3,当初の統治が成功してしまえば、諸藩も太平に馴れ 戦争を起こそうなんて気概は無くなります。 借金だらけで、それどころではありませんでしたし。 幕末、藩徳川が立ったのは、いち早く財政改革に成功 した薩摩などが中心でした。 尚、慶安事件(由井正雪の乱)には紀州藩主徳川頼宣が 絡んでいたと言われています。 又、密告した「奥村八左衛門」は幕府の手の者であった という説が強いです。
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- misawajp
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少なくとも徳川勢力と同等以上の勢力を結集しなければなりません 日本全国の半数以上を、徳川に気づかれないうちの結集し、一気に攻撃しなければ成功はおぼつきません 時間がずれれば確固撃破されてしまいます 黒船以降のような混乱状況でなければ、賛同するものも居ませんし、そのうち表ざたになり(密告するもの出てくるでしょう)分断され確固撃破されます 徳川に反対する島津などとなったら、すぐに壊滅させられてしまいます、それが猶予されるようになったのは1850年代頃からです、それでも長州は武力制圧されました やはり 昭和20以降の平和中毒で、状況判断もできなくなっているのでしょう(野党や敵対者が存在を許されるのは、ここ100年ほどの民主主義国家においてのみです、いまでも近隣の大国やその隣の小国では体制を批判するものの存在は許されません)
- tempestsonata
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そうそう、忘れていましたが、幕府転覆を企てた人も居ましたねえ。 由比正雪という人の名前が中学校の教科書にのっていた記憶があります。 仲間の密告で未遂に終わったという情けない終わり方だったようですが。
- under12
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徳川勢には、豊臣の後継、とくに石田光成あたりの専横を許容できないという大義名分がありました。 世の中が泰平を望んでいた機運もあり、国内が分裂したまま継続するの望んでいません。それは、 自らの基盤に穴をあけることに等しいからです。 では、逆に徳川を倒して、その後、何をすれば自らの天下を治めることができるだろうか。 明智光秀はただの叛乱軍として、解体されました。誰もそれと同じ失敗はできないでしょう。 どうしても、日本での実権を握るためには、ヨーロッパ諸国の力が必要になります。 しかし、それを呼び込みすぎると、日本がばらばらになってしまいます。 成算が立たない、大義名分もない、そんな考えなしで戦をやらかす阿呆はいません
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「戦のない泰平の世に」というのは現代の感覚で、当時はもっと戦に対して鈍感というか積極的なんだと思っていましたが、そういうわけでもないのですね。 回答ありがとうございました。
>徳川に対してはそういう動きが出なかったのはなにか理由があるのでしょうか? ↑ はい。 簡単に書いてしまえば、「初代将軍」の「徳川家康」さんの智謀と組織力が、反対勢力を押さえ込んで行ったと言えるでしょう。 歴史書を読めば解りますが、家康が将軍と成った時点でも、伊達政宗みたいに天下取りの野望を捨てていない武将は存在したでしょう。 しかし、家康は初代将軍職を2年も勤めないで早々に息子の秀忠に譲り、 『将軍職は、徳川が世襲で勤める』 事を世間にアピールし、自分は「大御所」、つまり裏方的存在となって、「徳川幕府」の基礎を固めて行くのです。 彼を取り巻く「三河武士」は、結束が強く、有能なブレーンが多かったのも彼の強みだし、ブレーンの忠告や意見を聞く姿勢を見せたのも彼の強みだったでしょう。 家康さんは、苦労人ですからね・・・。 更に、織田信長や豊臣秀吉と「同じ時代」に生きて、二人の長所も短所も知っていた。 これも「強み」です。 伊達政宗のような強大な相手は、武力より「懐柔策」を。 小さな抵抗勢力は武力で鎮圧。 先の二人の「良い部分を真似した」とも思えます。 更には、太平の世となっても、「参勤交代」などで大名の力を削ぐ政策を怠らなかったのです。 結果、徳川幕府を倒せるような「力」を持つ事が、地方の諸大名には出来なくなってしまった。 これが現実でしょう。
お礼
当時の人たち=武士と言われる男性にとっては戦は仕事のようなもの、と思っていたので、自分の好き勝手に世の制度を作って負担を押し付けて行く家康に対して、武力で歯向かう人が出なかったのが不思議でなりませんでした。 が、武士は戦が仕事、とはいえ、勝算のない戦をしかけるようなことは、やはりしなかったということなのですね。 回答ありがとうございました。
- tempestsonata
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中学校で教わりませんでしたか? ・関ヶ原の戦い、大阪(冬の陣・夏の陣)で徳川家と敵対する大名はほぼ壊滅した。 ・参勤交代の制度で、江戸に家族を住まわせ反乱を起こしにくくして(つまり人質)、 お金も浪費させた。 ・領地替えを行わせて、重要な地域には親徳川の大名を配置させて監視させる役割を果たした。 大体こんなところでしょう。 ・さらに、徳川の歴代の将軍は、大きなミスで幕府を危うくする行動をとらなかったわけです。 たまにおかしな行動をとるのはいたようですけどね。犬公方とか。 信長の時はまだ天下取りの途中で有力な大名は各地にいたし、 秀吉は、天下が自分のものになったと勘違いし、朝鮮出兵の失敗で、 お金を浪費し、他の大名から反感を買ったわけです。 さらに、石田光成という、あまり功績のない人を重要な地位につけ、 石田光成自体が、あまり人間できていなかったぽいので、さらに反感を買いますよね。 徳川と違って豊臣の天下をゆるぎないものにする策をきちんととらなかったのです。 さらにその時に徳川家康という大きな力を持つ者がいたわけです。 表面的には五大老として、従っているようにしていましたけどね。 秀吉が生きているうちはまだ良かったけど、豊臣の天下を確立するための対策ができていなかったのですよ。 他にも、弟の秀長が生きていればとか、秀頼と淀が云々・・・とかあるでしょうけど、 すでにそれ以前の問題なんです。 ということで、信長や豊臣の時とは状況が全く違いますよ。
お礼
中学で習いました(^_^;) ただ、それだけでそんなにも、誰もが徳川を受け入れてしまったのかと不思議だったもので・・・。 頻繁な参勤交代とか、領地替えとか城の普請とか、負担の大きな制度に対して「いいかげんにしろ!」と不満も出そうなものなのに・・・と思ったのです。 回答ありがとうございました。
- mekuriya
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徳川家康が賢明だったからです。鎌倉幕府、室町幕府、織田信長、豊臣秀吉と同じ失敗を繰り返してはならない。二度と戦国時代にもどしてはならない。そう考えた徳川家康は磐石の政権を構築したわけです。 諸大名には徳川を倒す理由も無かったし、対抗する経済力も軍事力も無かったのです。そういう動きを起せば、殿はついに狂ったかと家臣にみなされてお家騒動になって、挙句の果てはお家取り潰しになります。大名といっても家臣の支持があるから藩主なのであって、かような馬鹿殿では藩がもたないと判断されれば隠居に追い込まれてしまうのです。天下を取るということは万民の支持を得ることです。徳川だけが万民の支持を得たのです。かような馬鹿殿についていって命を預けようという馬鹿はいません。馬鹿殿についていけばどうなるか。それは大阪の陣で証明されたはずです。
お礼
回答ありがとうございました。
お礼
つまり、「お金があって頭もいい」人が現れて、世間も戦に疲れていたので「この人に任せよう」という流れになった、ということなのですね。 なんというか、家康の行ったことってわりと単純明快なやり方だと思うのに、それで世の中が落ち着いたというのが不思議でなりませんでした。 社会(人間)全体がひとつ進化した時期、と考えることもできるのかもしれませんね。 回答ありがとうございました。