- ベストアンサー
徳川家康の天下統一への道
- 徳川家康が天下人になった理由について疑問があります。
- 豊臣政権の内部での権力闘争を制した家康が、天下統一を果たすことになった理由を考察します。
- 徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利し、日本全体を統一する政権を築いた背景や要因を探ります。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
yoshida39 さん、こんばんは。 それは秀吉政権の弱さが出ていると思います。秀吉という人物はご存知の通り、尾張國中村というところ出身の足軽か百姓という身分に過ぎませんでした。その後、織田信長によって取り立てられ、信長の重臣になっていきますが、譜代の家臣団というものを持っていませんでした。一方家康は信長の盟友でした。 この二人が激突したのが小牧長久手の戦いでした。結果的には戦術的には家康の勝利でしたが、戦略的には秀吉の勝利ということでしたが、ここで、秀吉の次の武将としての地位を確立しました。 小田原征伐の後、徳川家が関東へ入封している間も開拓や城下町の整備を行っていました。もちろん、朝鮮出兵の時は見合わせていたに違いありませんが…この時点で、禄高は250万石を超え、秀吉とほとんど変わらない領地を持っていました。 豊臣家内部の権力闘争に打ち勝ったというだけなのに、なぜ、徳川家康が、「当然のように」日本全体を統一する政権をつくってしまえのかが不思議でなりません。 豊臣家自体が天下を握っていたからです。ここから権力闘争、つまり、石田三成のような文治派と加藤清正のような武断派との対立を利用するという策略をめぐらすのです。 関ヶ原勝利後、家康は3年弱の時間を使って、天下の所領の配分や西軍大名の処分を決めた後、征夷大将軍に就任したからです。家康自身は天下人と思っていたかもしれないけれど、大名、特に豊臣家恩顧外様大名は微妙でしたし、第一、大阪には豊臣秀頼がいましたからね。関ヶ原の戦いはそこだけの戦いではなく、全国的な地方局地戦が行われていました。だから、家康は天下の所領の配分ができたのです。この権限は武家の棟梁の権限ですから、家康自身はやはり、天下人だと思っていたと思います。 豊臣打倒を考えるのは15年後の大坂の陣になってからです。 関ヶ原の戦い https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
その他の回答 (4)
- whaihansei
- ベストアンサー率23% (227/983)
やはり、家康の長寿ではないでしょうか。 没年 歳 信長 1582年 49歳 秀吉 1598 62 (信長から16年後) 家康 1616 75 (秀吉から18年後) 関ケ原 1600年 (家康59歳) 征夷 大将軍 1603年 ( 62歳) 大阪 夏の陣 1615年 ( 74歳) 長寿が、天下人というより、徳川を盤石にし、死後も 信長、秀吉と異なり天下を継続できた理由ではないで しょうか。
- Cheshire-Alice
- ベストアンサー率20% (23/110)
卵が先か?鶏が先か? http://oshiete.goo.ne.jp/qa/9368427.html
- jkpawapuro
- ベストアンサー率26% (817/3047)
まあその点は征夷大将軍に任命されたのが全てでしょう。 豊臣家の失点は関白の座を豊臣家から手放したこと、朝廷・公家の掌握に失敗したことでしょうね。 まあ結局何をどうやろうと家康は力づくて天下人の座をむしり取ったとは思いますが。
お礼
ご回答ありがとうございます。 とても勉強になりました。
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1961/11742)
>>当時の人々からすれば、関ヶ原の戦いに勝ったからといって、 「だから家康が天下人」 という意識は、まだなかったのではないか、と思うのですが そうです 当時の人の感覚はまさにそうでしたよ 関ヶ原で家康が勝っても豊臣家は健在だったし 大阪の陣で豊臣が滅ぶまでは家康は完全な天下人ではありませんでした 単に「豊臣政権のトップ」と言う位置づけです だから関ヶ原で徳川に味方した加藤清正や福島正則だって家康には従ってたけど 豊臣家の家臣として秀頼に頭下げてたし それに当時は感覚として「家康は将軍になって幕府開いたから家康に従わざる終えない」と言う考えだったと思います 豊臣家が滅亡するまでは家康は天下人ではありませんでした
お礼
ご回答ありがとうございます。 とても勉強になりました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 とても勉強になりました。