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江戸初期の豊臣家
1600年以降、大坂の陣で豊臣氏が滅亡するまでの間、諸大名、特に豊臣恩顧や毛利・島津氏は豊臣家とはどんな関わりを持っていたのでしょうか? 徳川に遠慮して関わりを持たなかったのでしょうか。
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こんばんは。 毛利家は関ヶ原の結果吉川広家の必死の活動によってどうにか防長二国を保つことが出来たものの、それがなければ取り潰されていたかもしれません。島津も同様に関ヶ原で成り行きとはいえ西軍に加わってしまった義弘と国許の義久らとは無関係であったとの弁解に努めてやっと国を保ったところですので、二家ともこれ以上の下手はやれない状況で豊臣家どころではなかったというのが実情だったのではないでしょうか。 豊臣恩顧の大名も家康への思いがどうであったにしろ、その動きはかなり制限的なものだったと思われます。ただ、加藤清正などは家を保つ為に徳川方へ積極的に協力する一方、家康と秀頼の会見を実現させ秀頼を必死に守ろうともしていましたが、実際には会見が仇となってしまうなど皮肉な結果を生んでしまっています(これが清正という人物の限界であったのかもしれません)。また福島正則などは清正に向かって公然と家康批判を言い放つなど非常に危険な橋を渡ってもいましたが、やはり家を保つ為にはそれが限度だったようです。 大坂の陣の際に馳せ参じた者達の多くが浪人などであったことも、その辺りの家康の抜かりなさを物語っているのではないでしょうか(正則などは江戸で軟禁状態だったくらいですし)。 しかしその正則は陣の勃発に際して「三年遅く、三年早い」と嘆いていたと言われています。開戦が三年早ければまだ豊臣恩顧で力のある大名達が残っており、三年遅ければ家康が既にこの世の人ではないから豊臣方が敗れることはないだろうという訳です。正則の読みはやや豊臣贔屓かもしれませんが、関ヶ原から大坂の陣までの間に世代交代が進んでしまったことはやはり大きかったのかもしれません。
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- a-koshino
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慶長八年の正月、諸大名は大坂城へ集まって秀頼へ年頭の挨拶をし、翌日に伏見の家康へ挨拶をしました。二月八日には、家康が大坂城へ出向いて、秀頼に年頭の挨拶をしています。この時点までは、秀頼が天下の主でした。 ところが二月十二日に家康へ将軍宣下がなされ、江戸に幕府が開かれると、立場は逆転しました。 慶長十三年に秀頼が疱瘡にかかった際、福島正則ら西国大名が見舞いに行きますが、人目につかぬよう、こっそりと行き、「是れ家康公の前を憚るか」と記録されています。 表向き、関わりを持たないようにしていたのでしょう。
お礼
福島ら西国大名は見舞いには行っていたのですね。 やはり堂々とは行かなかったのですね。 ありがとうございました!
お礼
>二家ともこれ以上の下手はやれない状況で豊臣家どころではなかったというのが実情だったのではないでしょうか。 私もそう思います。 毛利輝元も大坂の陣の際に家臣の内藤元盛を「佐野道可」として大坂城に入城させていたようですし、必ずしもただただ徳川に恭順という考えでもなかったようです。(http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2375806.html) 保険にしてもかなり危険な保険ですよね… ありがとうございました!