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大坂の陣の前に豊臣秀頼の官位は剥奪された?
豊臣秀頼は、大坂冬の陣の前の時点で正二位・前の右大臣という高い官位を有していました。秀頼の父である秀吉、その養子である秀次は、いずれも関白任官の直前には「正二位内大臣」の官職にありましたので、秀頼の「正二位・前の右大臣」という官位官職は「関白任官待ちの状態」と言えます。 これに対し、 徳川秀忠 従一位 右大臣 征夷大将軍 徳川家康 従一位 前の右大臣 前の征夷大将軍 の両名が「鐘銘事件」をきっかけに「因縁をつけて」、豊臣秀頼と断交し、諸大名を動員して大坂城を攻囲するに至ったわけですが、その過程で * 徳川方が朝廷に工作し、豊臣秀頼の官位を剥奪させた。 * 同じく徳川方が朝廷に工作し、豊臣秀頼を追討することを正当化する文書を出させた。 などということが行われたとは聞いたことがありません。 「正二位の高位の公卿を討つ」という尋常ならざる事態ですから、 「予め、秀頼の官位を剥奪して無位無官の地下人に落としてから天下の兵で攻撃する」 といった手続きが要るように思うのですが、そのような手続きは踏まれなかったのでしょうか?
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- fumkum
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1611年の秀頼と家康の会見は、名目はともかく、参勤の一種で、この行為自体が服属儀礼ととられていたと思います。秀吉が家康を服属させるために、大坂に挨拶に来させることに実母である大政所を実質的な人質に出すことまでしています(家康は大坂で服属の意志をはっきりさせますが)。逆に信長は、足利義昭の招きに応じないことを名目に、兵を出しています。ですから、1611年の会見には加藤清正と浅野長政が付き添っただけではなく、北の政所や福島正則も説得に行っていたと記憶しています。これは、秀忠将軍襲位の時に、徳川側から秀頼に挨拶に出向くようにとの誘いがありながら行かず、「すは、いくさか」ということで京・大坂の住民が避難をはじめたことがあり、挨拶に行かない=服属拒否=戦争と考えられていたからだと思います。ですから秀頼側がどのように感じていたかはともかく、世間一般では1611年の会見をもって服属と感じたと思います。 さて、関連することですが、秀次の切腹の件です。話しは飛びますが、院政期以降、天皇、上皇の関係の中で、「治天(の君)」と言う地位があり、治天が天皇の場合親政、上皇の場合院政になることがありました。幕府についても将軍位にあるなしに関係なく、「鎌倉殿」と言われる地位?があり、それが武家の棟梁であったとする考え方があります(権門体制論等)。室町時代には「室町殿」、そして、戦国時代を通じて「天下(様・人)」という武家の棟梁が成立していたとの考えもあります。足利義満以降「室町殿」・「天下様」は、日本国王に結びつき、独自の権威を持ち-朝廷の権威とは別の権威を持ち-、朝廷の官位の外にあって超越的な権力を持ったとの学説があります。つまり、秀次に切腹を命じたのは、天下殿の秀吉だったことになります。 秀頼を攻めたことについて、徳川方は将軍(天下)の討伐行為と思っていたのではないでしょうか。ですから、官位の剥奪は重要なことではなかったと思います。 考えがまとまらない部分もありますが、参考まで。
- fumkum
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>大坂の陣の前に豊臣秀頼の官位は剥奪された? 出先なので公卿補任で確認をしていませんが、豊臣秀頼の官位は剥奪されていないと思います。秀頼が公家であるのか武家であるのかの問題もありますが、武家と考えられていますし、二条城で家康に会うことにより臣従の形式をとっていますから、武家の棟梁である征夷大将軍の統制下にあると考えられたために、朝廷は介入しなかったと思います。室町時代には官職が将軍よりも高位の公卿であっても、地頭であった公家は将軍にコジュウしていますし、従軍する事もあり、将軍の統制下に入っていますし、奉公の仕方が悪いと追放になった御家人としての公家もいますから、高位の者といえども将軍の統制下にあったことは間違いありません。 高位の武家では織田信長も、大内義隆も、足利義輝も非業に倒れていますが、当然解官してから倒したわけではありません。戦国時代を通じて、多くの高位の武家、そして公家も討たれています。大内義隆が討たれた時には、巻き添えで従1位前左大臣の三条公頼が討たれていますし、従3位権中納言北畠具教も信長に殺されています。ですから、正2位の者が討たれたといってもそう珍しいことでもなかったのです。 以上、参考まで。
少し違う思います。 >徳川家康 従一位 前の右大臣 前の征夷大将軍 前々の右大臣 一応は格下(家臣)とも言えます。(家康から見れば) ともなれば、生きている内に叩いておきたいでしょう。(家柄) 血筋に関しては織田家の例を取り、問題なし。 元より憎み、金戦力を剥ぎ取りちう。 >そのような手続きは踏まれなかったのでしょうか? 家臣の不祥事。 勝手に官位を天皇に出させていましたが、 天皇の譲位でそれが解決したのだと思います。
お礼
ご回答有難うございます。 「結論として、秀頼の官位官職は最後まで剥奪されなかったので、史書に何も記載がないのが当然」 ということになるでしょうか。 「高位の武家では織田信長も、大内義隆も、足利義輝も非業に倒れていますが、当然解官してから倒したわけではありません。戦国時代を通じて、多くの高位の武家、そして公家も討たれています。大内義隆が討たれた時には、巻き添えで従1位前左大臣の三条公頼が討たれていますし、従3位権中納言北畠具教も信長に殺されています。ですから、正2位の者が討たれたといってもそう珍しいことでもなかったのです」 これらは、いずれも「奇襲」と言えるような形で討たれたわけですよね。朝廷に工作して殺害を正当化するような暇はありません。 秀頼の事例の前例になりそうな事例として、「正二位、関白、左大臣」であった豊臣秀次が、「従一位、前の関白、(前の?)太政大臣」である養父の秀吉によって高野山へ追放された上で切腹させられた例があります。 この場合、秀次が官位官職を持ったまま切腹したのか否か分かりません。秀次の伝記「豊臣秀次」(小和田哲男)にもその辺は書いてありません。ただ、秀次の戒名は 「瑞泉寺殿前関白秀次入道高巌道意尊儀」 となっており 「高野山に追放された段階で(恐らく僧の姿となり)、一介の僧となって官位官職を自動的に返上し、その後に秀吉の命で切腹した」 前提の戒名であるようです。 秀頼の場合は、大坂の陣の直接の契機である「鐘銘事件」の顕在化から、諸大名の動員、家康の駿府出陣まで約2ヶ月あります。朝廷への工作はその気になれば容易に出来た筈で、秀吉の官位官職をそのままにしたというのは、fumkumさんが指摘されるような理由によるものでしょうか。 ただ、1611年に秀頼が二条城で家康と会見した際の詳細を見ますと、秀頼は確かに家康に目下の礼を取っていますが、これは 「正二位の秀頼の、従一位の家康への礼」 「家康の孫婿である秀頼の、義理の祖父への礼」 であり 「秀頼が家康に臣従する形式を取ったので、1611年以降の秀頼は、武家の棟梁である征夷大将軍の統制下にある」 と解釈するのはどうかと思いますが。