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歴史における「正統性」

一票の格差問題で現政権は「違憲で無効」とされ、政権の正統性云々が論議されてますが、 そもそも日本の歴史における政権の正統性なんて本当にあったのでしょうか? ・大化の改新で逆賊の蘇我氏を倒したとする 中臣鎌足らの正統性は果たして正しかったのか? ・信長の家臣で、しかも農民出身だった秀吉が主従逆転した上で 天下人となった正統性は? ・家康が関ヶ原の戦いで勝利し、豊臣家の家臣なのに征夷大将軍になって幕府を開き、大阪の陣で豊臣家を滅ぼした正統性は? ・関ヶ原の戦いを起こす理由としては石田方や直江状の方が 道義としては正しかったんじゃないの? ・そもそも徳川家/松平家は本当に源平の子孫だったのか? ウソの家系図で朝廷に賄賂を渡して強引に主張したんじゃないの? ・いつの間に、何をもって豊臣と徳川は主従逆転したのか? ・方広寺の鐘の件なんて戦の口実にするには無茶苦茶な理由じゃなかったのか? ・大政奉還で徳川家は政権を返上したのに朝敵とされ、 薩長に戦争を仕掛けられた正統性は? そもそも薩長が官軍となって、徳川幕府を打倒するという正しい道義はどこに? 日本の歴史において真に正統性があるのは平家追討の勅旨を 受けてそれを滅ぼした源頼朝と、同じく北条家追討の勅命を 受けて鎌倉政権を倒した足利尊氏の2件ぐらいで、 他の政権なんか正統性もクソも無いような状態で積み重なった歴史の上で 成り立っている現在の日本の国において、政権の正統性なんて 議論するまでもないと思われますがいかがでしょうか?

みんなの回答

回答No.6

『正統性』と『正当性』とを混同されていませんか。 『正統性』は血統の正しさなどを意味し,今日話題になっている政権交代後の安倍政権については,憲法上の『正当性』が議論されています。 『正統性』に疑義があるのは,天皇家の血筋の問題など。南北朝後の『正統性』が議論されたり,男系の男子の相続とする現皇室典範は,女性差別に当たらないかと,『正当性』が論議されています。 近世以前は,血統的『正当性』があれば,その相続者は『正統』と見なされました。秀吉は信長の子を後継者とすべきでしたが,織田家を排して自らが政権の座に就き,その事の正当化を図りました。 家康は,秀頼を排して徳川三百年の礎を築き,後世の徳川将軍家の世継ぎのルールを定めることで自己を正当化すると共に,後継者の『正統性』の根拠を残しました。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.5

”正統性もクソも無いような状態で積み重なった歴史の上で 成り立っている現在の日本の国において、政権の正統性なんて 議論するまでもないと思われますがいかがでしょうか? ”      ↑ ハイ、その通りだと思います。 もっとも、これは日本に限りませんけどね。 正統性など議論する必要はありません。 時間の無駄です。 鐘に刻まれた文字について、議論して、それで何が 得られるというのでしょうか。 同じ事は、あのイラク戦争にも言えます。 あの戦争が石油目的であったことは、国際政治学者の間 では定説です。 大量破壊兵器の存在は正統性、大義名分でしたが、 そのウソがばれて、慌てて民主化に切り替えましたが 正統性などというのはこういうものに過ぎません。 強いものが、支配するのです。 でもそれだけだと、不安定で永続きしません。 支配される人間を何となく納得させる もっともらしい正統性が要求される所以です。 正統性など、所詮は時の支配者が民衆を納得させる為の 道具に過ぎません。 家康の鐘は、道具としてはお粗末だった、ということです。 これは西洋でも同じです。 なんで、王様が支配できるんだ。 王様の地位は神より与えられたからだ。 これを王権神授説といいます。 中国では、天命である、ということになっています。 現代の共産党は、悪い日本を撃退したのが共産党 だからだ、というストーリーです。 信長の子孫なのに、どうして秀吉の傘下にいるんだ。 秀吉は天皇から日本の支配を命じられたんたぞ。 その点民主制は巧みにできています。 あいつらはなぜ、支配できるんだ? それは俺たちが選挙で選んだからだ。

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.4

 主題は一見正当であるかのように見えても、論理としての未熟さが多分に見られる質問内容です。 そもこの質問では「政権の定義」がなされてもいません。仮に「政権=権力による支配」と規定するならば、その「権力」を正当化するための規範がなければならず、それは「法および制度」以外の何ものにも求めることは不適切といえます。  「以人王の令旨」や「後醍醐の勅命」といっても実質の拘束力などどこにもない。「以人王の令旨」は単なる建前でしかなく、東国の新興階層である武士にとっての「最大の興味関心の所在」は論功行賞であり、自らの土地の支配権・領有権を保証してくれる新たな政治基盤に求める以外はなかった。それを裏付ける史料が「御成敗式目」や「関東御教書」であり、この御成敗とは「訴訟に於ける判断および判断の基準」との意味であり、従って「法としての有効性と存在意義」を示すことになる。その裁きに天皇や朝廷が関与することは決してありえない。この事実一つをとってみても、質問者が持つ歴史感覚と事実認識の間に相当のズレがあることもうなづくことができ、質問として根底から成り立たないことも明らかである。  藤原氏による摂関政治および平氏政権も質問者の論理からすれば「正当な政権」として評価されても良いはずである。その根拠はこの両政権が共に「天皇家との外戚関係」にあることで、権力を権威によって保証されているとのことになる。    >そもそも徳川家/松平家は本当に源平の子孫だったのか?。ウソの家系図で朝廷に賄賂を渡して強引に主張したんじゃないの?  武家の棟梁が努めていたのは征夷大将軍であること。その地位に就くには四姓の出自を有することとの慣例があり、これに基づいただけの話である。では「四姓」でなければならないのか、との問題になるが、その四姓は序列化と密接に結び付いてもいる。武家は元々「想定外の存在」であり、彼らが官人として序列に組み込まれることで彼ら自身がそのステータスを求め得たともいえる。日陰者だったものが一躍脚光を浴びた形である。実効支配を行い得たといっても、それも「何らかの裏付け」がなければ意味をなさない。そのために「権威」というバックボーンを必要としたのであり、それはあくまでも「形式的な手続き論」でしかない。「権威」は「権力」に対する「保証」の役割を持つ。  >他の政権なんか正統性もクソも無いような状態で積み重なった歴史の上で成り立っている現在の日本の国において、政権の正統性なんて議論するまでもないと思われます  現在の法体系の下で「国権の最高機関」と呼ばれる組織体が何であり、そこに関与する「主権者」が誰であるか、をお考え下さい。自ずと答が出てくるはずです。国権の最高機関は「立法府」であり、ここに属する者は「議員として選良に依り選ばれた者」てす。そして彼らを選んだ者が「主権者」であり、それは正当な手段と手続きを裏付けとします。  よって「天皇至上主義」の様な時代錯誤のご質問は成り立たないこととなります。よろしければ逐条的に小質問にお応えしますが如何ですか 爆!。

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.3

主従逆転なんかしていません。皆、天皇の家臣であることに違いはない。当時は諸大名を従えられないようでは統治者の資格はないってだけの話です。資格を失えば潔く表舞台から去る。去るものは追わず。日本の歴史において天皇の信任を得ずに統治者になった例はない。それは現代においてもそうなのです。薩長は戦争を仕掛けた訳ではない。明治新政府に逆らう逆賊一味を成敗しただけの話。それは天皇の家臣として当然の務めであります。そもそも徳川慶喜が大政奉還したからには、その時点で幕府は存在しない。明治新政府に事務を引き継ぐまで残務処理をしていただけです。打倒するもへちまもない。徳川慶喜が後は朝廷におまかせしますとして、謹慎していたのですから。新聞もテレビもない時代ですから、事情が飲み込めない徳川の不忠の家臣が身の振り方を間違ったとはいえる。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1973/9604)
回答No.2

bonky653 さん、おはようございます。 大化の改新で逆賊の蘇我氏を倒したとする 中臣鎌足らの正統性は果たして正しかったのか? もう一人の主役中大兄皇子や孝徳天皇がいました。このクーデターは朝廷の実権を握った段階で正当性があるのです。 なぜなら、中大兄皇子は天智天皇となり、その後の政権が彼らのとった政策を継承していくからです。ある程度は正しかったのでしょう。 ・信長の家臣で、しかも農民出身だった秀吉が主従逆転した上で 天下人となった正統性は? 戦国時代は乱世で下剋上が当たり前の時代でした。秀吉は唯一の伝統的権威である。天皇とよしみを通じ、関白という官職をもらい、その権威で自分の脆弱な正当性を強化しました。だから、正当性があるのです。 ・家康が関ヶ原の戦いで勝利し、豊臣家の家臣なのに征夷大将軍になって幕府を開き、大阪の陣で豊臣家を滅ぼした正統性は? もともとは徳川家は豊臣家の家臣だったわけではありません。それにまだ時代は乱世の気分が抜けていませんでした。 征夷大将軍になって幕府を開き、この時点で天皇とよしみを通じ、その権威で自分の脆弱な正当性を強化しました。だから、正当性があるのです。 ・そもそも徳川家/松平家は本当に新田源氏の子孫だったのか? ウソの家系図で朝廷に賄賂を渡して強引に主張したんじゃないの? 確かに違います。しかし、戦国時代には下剋上による実力主義ですが、そればかりではいつでも下の者にとってかわられてしまいます。だから、家系出自を飾り、ある程度名門出身であるとし、その権威で人を取り込んだり、武士団の中での長や代表のような地位に就く正当性を主張しました。これは新興の家によくあることです。 家康の場合は、征夷大将軍が源氏が代々任命されるということから、源氏にしたのでしょう。また、三河守任官の時に必要な位階も持っていなかったため、近衛前久という公家に掛け合って藤原姓を名乗ったという記述があるらしいです。これも朝廷の権威をもって自分の正当性を主張するためです。 詳細な記述はURLを参照してください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6 いつの間に、何をもって豊臣と徳川は主従逆転したのか? ・方広寺の鐘の件なんて戦の口実にするには無茶苦茶な理由じゃなかったのか? 徳川家康が武家の棟梁たる征夷大将軍に任命された時点で秀頼は一大名になりました。 大政奉還で徳川家は政権を返上したのに朝敵とされ、 薩長に戦争を仕掛けられた正統性は? そもそも薩長が官軍となって、徳川幕府を打倒するという正しい道義はどこに? 徳川幕府はもう政権を返上した時点で幕府ではありません。ただ、徳川家の持っている所領と官位は朝廷でもとびぬけているので、朝廷でも実権を握られる恐れがありました。だから、これを朝廷に返上させようとしたのです。 日本人は安定志向で政治に対して無関心(無関係?)であり、あまり政権交代を望まないようなところがあります。そして、江戸時代は極端ですが、かなり長いインターバルが必要なところが特徴です。

  • Satan94
  • ベストアンサー率66% (33/50)
回答No.1

江戸時代まではそれまでの政権を武力で潰した者が次の政権を担うというものでした。 ですからあなたのおっしゃているように正統性はありませんね。 しかし今問われているのは政権の正当性であって正統性とは意味が異なってくるように思います。 それと違憲で無効とされているのは現政権ではなく選挙そのものです。 一票の格差が大きいというのは、有権者数とそこで選ばれる議員数の比率の地域差が大きすぎるということです。 衆議院は小選挙区を導入していますから1選挙区1議員となるので「1議員を選ぶ有権者数が選挙区により差がある」ということになります。 そしてその差があるのは憲法の法の下の平等に違反するというのが原告側の主張です。 今までは違憲という判決が出ても無効という判決は出ませんでした。 次の選挙までに法律改正・施行をしていたためです。 しかし、今回は違憲状態であったにもかかわらずその法律のままで選挙を行ったために無効の判決が下っているのだと思います。 一応そうなった理由はあり、法律改正から選挙までの期間が短く事務手続きが追い付かないためとされています。 その理由の原因は前政権にあるのですが・・・。 このように違憲な選挙によって選ばれた国会議員が政権についているわけですから、その政権は正当ではない、不当だ、といわれるわけです。 >・信長の家臣で、しかも農民出身だった秀吉が主従逆転した上で 天下人となった正統性は? 秀吉は信長の生きていた時は信長の家臣でしたので主従逆転とは言えません。

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