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尾張国は読み方が問題にならなかったのですか?
終わりとも読めますから、忌み嫌われたりしなかったのでしょうか? 昔ってやたらとそういうのを気にしていた筈ですが・・・ 尾張徳川家だって、徳川家の終わりみたいな感じにも聞こえます。 どの時代にも問題にはならなかったのでしょうか? 日本史に詳しい方、宜しくお願いします!
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- staratras
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結論から言えば、「昔の人は「尾張」が「終わり」に通じることをよく知っていました。その根拠の一つが次の狂歌です。(古活字本 「平治物語」 ) きらへども命の程は壹岐のかみ美の尾張をば今ぞ給はる 簡単に説明すると、尾張に源頼朝の父である義朝をだまし討ちにした長田忠致(おさだ・ただむね)という武将がいました。この人は義朝の首を取ったことを功績として六波羅の平清盛に申し出、その恩賞として「壹岐の守」にしてもらうのですが、これを不服として「美濃・尾張が欲しい」と言い出す始末。平氏政権側も、これには閉口し、敵方の首を取ったとはいえ、もともと娘婿が仕えていた主君義朝を娘婿とも殺したことへの反感もあって、忠致は処罰されそうになります。そこで急いで尾張に逃げ帰ります。これが伏線です。 頼朝の挙兵後、忠致は源氏のために働きますが、最終的には父を殺された頼朝の命により殺されてしまいます。その際刑場に何者かが書いて掲げたというのが上の狂歌で、欲しがっていた「美濃・尾張」ならぬ「身の終わり」をたまわった、というのです。「壱岐の守」の壱岐も「生き」にかけています。 「平治物語」には多種多様な異本があり、回答者が見た「日本古典文学大系」(岩波書店)の「保元物語・平治物語」でも、本篇にはこのくだりはなく、付録としてつけられていた「古活字本」の方にありました。 これから先は回答者の個人的な考えです。こんな狂歌が知られていたからと言って、そのことで「美濃・尾張」という国の名前は「身の終わり」に通じて縁起が悪いと忌避されていたとか、あるいは逆に壱岐という国名は「生き」に通じるから縁起が良いとされていたとは考えにくいですね。むしろ古人はこうした洒落(今風に言えばブラックユーモアか)を楽しんでもいたのではないかと考えますが、いかがでしょうか。こうした掛詞は日本の和歌・狂歌・川柳などには古来多数ありますから。
- fujic-1990
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尾張のルビは「をはり」で(全訳古語辞典)、当時「終わり」があったかどうか存じませんが、「をはり」は「おわり」と発音していたに違いないと思います。 例えば、「荒海や佐渡によこたふ天の河」も「よことう」と中学時代の国語の先生が発音していたと記憶しています。今思い出せませんが、ほかにも文字と発音が一致しない読みはいくつかあったと思いますので、「をはり」も「おわり」だったろうと思うのです。 なのに、「なぜイヤだと思わなかったか」といえば、尾張で終わるのは、自分ではなく敵だと考えていたからではないか、と。 小説の話ですが、隣の「美濃(岐阜)」と合わせて、信長か誰かが(攻めてくる信玄?を、「ここで『身の終わり』にしてくれよう」とか言ったということにしています。終わるのが敵ならば、むしろ縁起のいい名前なわけです。事実、これまで尾張を侵略できた者はいないわけですし。 また、同じ事実も、立場を変えると、見方も変わるのです。 秀吉がでて来た会議に、運悪く、活けた花がしおれていたんだったか、鳥が死んだんだったかして、秀吉が「縁起が悪い」と怒った時に、誰でしたか「・・・ 枯れにけり、おのが命をキミに譲りて」(・・・ 枯れてしまいました。自分の命をキミ(秀吉)に譲って)と詠んだので秀吉の機嫌が直ったというようなエピソードを読んだことがあります。
日本史というよりも、国語の問題かと。 江戸時代に、「終わり」という言葉が、存在しません。 「終わり(終わる)」は、現代語。
- sutorama
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大前提として『諸説』あり・・として をはり → おはり → おわり 飛鳥時代、推古天皇の営んだ宮廷は「小墾田宮」(おはりだのみや)と呼ばれます 小墾田というのは、「新しい開墾地」という意味だと思われます 故に、そもそもは新しい新天地という意味合いであると言われています 書かれているように「おわり」と読むのはそれこそ近代でありますから「終わり」と読み取ることは当時、無かったと思われます 蛇足として、そもそも日本各地のそれぞれの地名の「よみがな」が統一されたのは、明治になってから(日本式ローマ字の導入)です