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なぜ紀州・尾張・水戸/徳川御三家
いつもお世話になってます。 ふと疑問に思ったのですが、徳川御三家の領地はなぜ紀州・尾張・水戸なのでしょうか。 大阪でも京都でもなく。 「交通の要所」って訳でもなさそうですし、「仮想敵国」に対する「睨み」にもなってないような・・・。 ご存知の方がいらっしゃいましたらお付き合い下さいませ。
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紀州(和歌山)は、藩主が幼少の頃は山梨近くに幽閉されていたということでその後、紀州に任じられていったという。(辞典より) どうも領地の位置理由は、今のところ不明です。 閉じられなければ3日間でできるだけ調べてみます。
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家康のやったおこないを質問とは、脱線していますが 記入させてください。 征夷大将軍・・もともとは平安時代に蝦夷(えぞ)せいばつのために設けられた官職であった。しかしのちに天下の武力をつかんだという意味になり鎌倉以後、源頼朝以後は幕府の統率者をあらわす職名となった。 関ヶ原戦い以後の西軍の領地取り上げ、縮小 大名の種類わけ 一門 譜代 外様 将軍を秀忠にはやくゆずり天下を他のものに取らさせないとした、 江戸城を3代にわたり増強(諸大名に金をつかわせる) 貿易に朱印状をわたす。 普請(土目工事で諸大名に金をつかわす) 何かと言いがかりをつけて大名をとりつぶす(石田光成に似ているのが気に食わないなど) 領地の1部をめしあげる。 朝廷の実権をうばう。(家康の家来みたいに・・) 方広寺の鐘の国家安康君臣豊楽 大阪城の外堀内堀を埋める 武家諸法度 禁中並公家諸法度を出す 1国1城 城の修理の時は幕府に願い出る 近くの国であやしい動きがあったときは知らせる 大名同士、勝手に縁組してはいけない 天皇や公家は学問を第1とすること 武士は勝手に官位をさずけてはならない 死後、遺言で日光にほおむられたが、自分の神像は西に向けておけと言い残している。・・これは諸カツリョウコウメイににている。やはり西方の動きが気になっていたらしい。 家光は、さらに厳しく 参勤交代 1大名 今の金で1回で4億円かかる まだまだ細かくは、あると思います。 その後の将軍は お犬様(あきれる政策) 質素倹約 いろんな政策が出ています。 こうでもしなきゃ治まらないのかなあと思えるですね。
お礼
こんばんわ。 細かい点までありがとうございます。
補足
簡単な総括として。 「家康が御三家を作った」というのが、「正確」に言うと間違っていた。 「御三家だから」紀州・尾張・水戸を領したのではなく、たまたま「身内」として「要所」を領していた。 その後「御三家」として整備された。 皆様ありがとうございました。
再度すみません。他の方が述べられていますが補足的に・・・ 新人物往来社 書物 前述のとおり (著述どおり) 徳川御三家の成立過程と役割 御三家の成立を考える場合・・ 江戸時代の最高権力の地位にある将軍家が、跡継ぎがないか、その地位にふさわしくなければこれにかわって将軍職を継ぐのが御三家である。幕藩体制にあっては将軍権力が絶対であって、御三家といえども将軍の親族であると同時にその家臣の地位にあったのである。将軍というのは、本来、武家の最高司令官であるから、これと同等の地位はない。ところが鎌倉・室町時代では例外ではあるが将軍の絶対的権威が発揮されることが少なく、その地位は常に安定しているとはいえなかった。これは将軍家を支える一門がそれと比較的、独立的な存在であったからである。 徳川氏は家康の祖父 松平清康が三河を一応統一した以降もとくに「御一門」の家柄が確立されないまま 家康の時代にいたった。ところが家康においても結局、関東入国にいたるまで、徳川一門というべき親族は存立しないまま、御三家の成立にいたるのである。 関ケ原役以前の徳川一門 三河国(愛知県)の統一を出発点とし、遠江・駿河国(静岡県)、甲斐国(山梨県)、信濃国(長野県)のいわゆる三・遠・駿・甲・信五カ国を領有しさらに関東八ケ国を領有する家康に「御一門」という家柄はなかった。 五カ国領有時代の徳川氏の事績を記す「松平記」に松平衆 松平国衆 松平之五人衆 の名称がある。 家康が徳川氏を名乗ったのは永禄9年で、それ以前は 松平氏であった。この松平一族は松平郷時代以降、家康の父弘忠にいたるまで、三河国の国人領主であった。これは現在の村の規模でいうならば、一、二ケ村 以上、数ケ村程度の地域を領有する領主で小規模とはいえ城をもっていた。松平一族は十四か十六家あったといわれ、一門衆といってもよい存在である。家康が徳川氏に改称したのは小領主的規模の松平一族とは一線を画し、自らは戦国大名であることを内外にしめそうとしたからである。そして松平一族をかっての同盟的な関係から家臣の地位とした。 このようなわけで五カ国領有時代の家康には、彼に対抗しうる御一門は存在しなかった。徳川氏の一門になるべき人は家康の子供たちであったのである。 徳川氏の内紛と御三家の成立 天下分け目の関ケ原の戦いは、豊臣秀吉に嫌われた毛利と吉川の裏切りも影響し徳川方の勝利に終わり、家康は西軍にくみした大名90家、620万石余の領地を没収した。この結果、関東、中部、近畿にいたる豊臣系大名は一掃され、徳川氏の直轄領、徳川一門、譜代家臣の新しい領地にあてられた。戦後、慶長7年までに独立した譜代大名は28家、関東入部後からすると徳川一門、譜代大名を合わせて68家に急増した。これにより徳川氏は近畿以東、関東にいたる日本列島の中央部を完全に支配化におき外様大名を圧倒したのである。関ケ原戦い後の家康の次のねらいは大阪城の豊臣氏包囲網をつくり、これを徳川氏の配下におくことだった。 いっぽう豊臣秀頼は68万石の一大名に転落していた。畿内から西日本は豊臣方の旧武将も割拠していた。 家康が慶長8年征夷大将軍となり、4年後に秀忠にゆずり、秀忠には最も信頼する本多正信を顧問役として残し駿府にはその子正純など側近による権力を編成した。江戸の幕府重臣は元来、秀忠付の近臣であるから 権力抗争が底流にあった。将軍秀忠には大久保忠隣という武功派の巨頭がいた。三河以来の五カ国領有時代における家康の旗本軍の大将には、三傑の井伊直政・本多忠勝・榊原康政がいたが、彼らは家康からはなれて藩鎮となっている。忠隣はこの三傑の跡継ぎ的な存在で旗本、譜代大名から人気があった。しかし当時の 徳川氏においては全国統治と貿易をおこなう面から本多正信・正純父子のような行政手腕の人材がひつようであった。 このように江戸と駿府の重臣たちには対立的な要素があったが、家康にとってはこれを何とか統合し、ともあれ当面の敵対勢力の豊臣勢力の根を絶たねばならなかった。ところが大久保忠隣は徳川譜代の家臣に信望があると同時に豊臣方の大名にも交流があり大阪方から好意をもたれていた。 結局、慶長19年、忠隣は根拠のない豊臣方への内通説により改易となり失脚した。 御三家につながる徳川一門の創設は、将軍権力の支柱になること、豊臣背力に対する威圧にねらいがあったが、大久保忠隣に代表される譜代勢力の発展を抑制する面もあったと思う。 御一門の創設については関ヶ原の戦い後、四男忠吉を尾張国62万石 五男信吉を水戸25万国 六男忠輝を越後国(新潟県)高田城60万石 義直を尾張国62万石の大名とした。慶長14年十男頼信に駿府・遠江で50万石 11男頼房を信吉の没後、三戸城にいれた。 --参勤交代の制度的実施は外様大名が寛永12年 譜代大名が同19年である。-- 御三家は将軍と諸大名の中間的な存在でありながらも 将軍の家臣として位置づけられたといえる。 御三家という名称がはじめて史料にでてくるのは家光政権以後の延宝年間1673から81年といわれる。 5代将軍綱吉のときには尾張家 紀伊家 水戸家の三家がたの諸大名とちがった特別な格式をもつ家柄として制度化されたのである。
お礼
本当にありがとうございます。 家康の子供で、他家に養子に行っていない子供だけが「徳川」を名乗れて、彼らが後の「御三家」の基礎になったわけですね。 外様に対する「睨み」は親藩「松平家」と共に家康の子供たちも配置され、その子供たち「徳川(分)家」にはそれなりの石高を与えた。 で、歴史的に生き残った「紀伊・尾張・水戸」が「御三家」として現在に至る・・・。 と言った感じでしょうか。 貴重な時間を、私の質問にお付き合い下さいましてありがとうございました。
15番で回答したのですが、主要搬路は海の航路です。 なお、その他いろいろ調べたのですが、他の方が前述されておられるので重複するようです。本当に簡単な記述になってしまいました。失礼いたしました。
お待たせいたしました。史実というのはひと口で説明するのは難しいと思いました。tkr1977さんは、研究者であられますでしょうか? 私のハンドルネームは女性と間違われるようなですが実は男です。(関係ありませんですが) 何分質問に興味がわきましたので、歴史上ではかなり重要な部分みたいに感じますね。 1993年11月18日初版1994年9月9日(株)平凡社 日本史大辞典(全7巻)より 「水戸藩」・・徳川頼房(よりふさ)初代 1609年常陸下妻城主から水戸に移封(いほう)された。それ以後代々の水戸藩主は参勤交代を免除され江戸小石川邸に常住し必要なときだけ幕府の許可を得て帰藩する定めであった。江戸北方の備えに置かれたものであるらしい。 「尾張藩」・・徳川義直(よしなお)初代 1663年甲斐の国から1607年尾張国に転じ東海道を押さえる広域藩となる。紀州家と交替で江戸参勤した。当家より将軍になったものは出ていない。 「紀州藩」・・徳川頼宣(よりのぶ)初代 頼宣は家康から1603年水戸、ついで駿府、遠江等を与えられ1600年から19年間紀伊国を統治した浅野氏の安芸国広島転封(てんぽう)の後に移った。 駿府の家康側近と江戸の秀忠側近との確執、紀伊国の 政治的・地理的な重要性、つまり幕府権力による大阪ー江戸間の主要搬路の掌握、伊勢神宮の所在する伊勢国支配の確立などを考慮して紀伊国へ転封されたと考えられる。 次は 歴史読本44回 19巻15号 新人物往来社 1944年5月11日発行により 家康手づくりの大名・・ 江戸時代の大名の出身をみると(1)島津、毛利、伊達氏のように戦国大名が近世大名になったもの、(2)織田信長・豊臣秀吉に取り立てられたもの、(3)家康の家臣で関東入部後、大名になったものに分けられる。御三家はもちろん第3のタイプに入るが、 近世大名とは何かについて (1)大名の領地が石高で示され、江戸時代では1万石以上が大名とされる。(2)兵農分離がなされている。戦国時代では、大名の家臣の多くは大なり小なり領地に居住し合戦になると動員されて主君の居城に駐留する。近世大名になるとその家臣は領地(村)から離れ城下の武家屋敷に常駐するようになる。(3)江戸時代に入ると参勤交代が実施され大名は1年交代で江戸に居住するため、領国の統治は城代家老にまかされ家臣は在国と江戸に分かれて勤務した。(4)幕府の発布した武家諸法度は厳守しこれに抵触すれば改易(御家断絶)、減封(領地削減)の処罰がある。(5)とくに譜代大名は転封(領地の移動)が多く、一定の領地に落ちついてくるのはだいたい元禄期以降である。‘‘大名を鉢植えにする‘‘ということばがあるが、これは近世大名の特徴を示している。 ここに御三家の特別な地位が明らかになる。 譜代大名はよく転封ー移動されるが、御三家は水戸・尾張・紀伊の要地に配置されて以来、明治維新にいたるまで移動されなかったのである。 私的の感慨・・・・・ 家康のやったことで将軍を4年間おこなって次の将軍に ゆずり(自らは浜松にいて実際は政治の権力を握り) これは豊臣秀吉の系列をうつためと本当に徳川家(親戚松平一族の中でも独立した)を固めたあらゆる政策を打っていったということで、世の中を平和に保つというより、幼少のとらわれ時代反動もかなりあるような感じ=ふるえあがる独裁性てきなものを感じられずにはおられません。 ていうと関係の方にご迷惑ですが、深く研究すればするほどそういうことは感じますね。 歴史の史実は教科書で教えられるより自分から研究してみるといろんな刺激を与えられるとつくづく感じました。有難うございました。 長らく記入しましたが、また別の楽しみのある質問を期待しております。 「追伸」 前の#7、幽閉の件、どこで見たかまた振り返って調べたのですが、出てこなかったのでここの部分は無視してくださるようにお願いします。
お礼
私はただの歴史好き好き人間♂です。 私を含め、「素人」の「ふとした疑問」が歴史カテに限らず入れられてますが、その「ふとした疑問」って案外教科書に載ってなく、しかも今まで何の気にもならなかったクセして、急に「ふと」疑問に感じちゃったりするんですよね。 そういう質問を見つけちゃうと、私も意地になって調べちゃいますね。 普段、本棚に飾ってある本をひっくりかえしたり、色んなキーワードで検索かけてみたり。 またいつかお付き合い下さいませ。
- reny
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「交通の要所」と言う意味では紀州は、江戸時代以前の唯一の大量輸送手段である水上交通の要です。 船で西国から東国へ移動するには、瀬戸内海を通ろうが、土佐沖を通ろうが、 必ず紀州沖を通過します(昔の舟は陸地沿いにしか航海できる技術がありませんでしたので)。 熊野水軍がかつて精強を誇ったのも東西の水上交通の要に位置し、関舟で通行料を徴収していたからです。 尾張は、陸上交通における東西の要にあたります。 中仙道や東海道はもちろん伊勢街道や伊賀街道など、東西南北の街道が一度ここで集結する場所です。 そのために、頻繁に大名は配置換えされています。 結局、徳川姓を名乗ることが出来る一族を配置することで、徳川家の防衛構想が落ち着いたと考えるのが妥当ではないでしょうか?
お礼
こんばんわ。 「徳川家・幕府にとって、紀州ってそんなに重要な場所か?」って思っていたのですが、「水上交通の要所」なのですね。 ありがとうございました。
#9の >たまたま石高の高い藩が後に御三家になったのであって、御三家を紀州・尾張・水戸に封じた訳ではないってことですね。 生き残ったと見るべきかと思います。 御三家が成立したのは3代将軍家光の時代で、初代家康にはその思想がなく、2代秀忠は意図的に忠長を優遇します。 尾張義直、紀伊頼宣、水戸頼房と家光、忠長とは叔父・甥の関係ですが、年齢的にはほぼ同じ(家光を基準にすると義直が4歳年長、忠長は2歳下)で、家康死後の元和8年(1622)までは頼房の方が忠長の上位にいますが、元和9年に50万石に加増されて頼房を抜き、寛永元年(1624)には5万石を加増された上で、頼宣の駿府城を与えられますから、2代秀忠としては何らかの意図があったと思われます。 秀忠の時代に越後高田75万石の忠輝(家康6男)が改易になっており、この時点では4家。 結局3代家光により忠長が切腹させられ、最終的に残った3家をもって御三家とし、他の大名家とは差をつけたということかと思われます。 >「紀州」も「紀伊」も同じだと認識しておりました これだけで1つのポストが造れる問題で、紀州とは大別すると紀伊の国と熊野の国が1つになった言葉で、紀伊という言葉自体も古代は「木の国」と呼ばれ、結局紀州は5つの国が合わさった意味になります。 >将軍家の跡目争い ついでにですが、一応将軍家に後継ぎがいない場合は御三家からだすという建前がありますが、8代将軍候補を見ますと根回しがものを言うように思います。 このとき、血筋で一番将軍家に近い立場にいたのが、館林の松平(越智)清武。 3代家光の孫にあたり、6代家宣の実弟で、この時点では徳川宗家に残った唯一の男子ですから、有力候補の1人となってもよさそうなものですが、早々に脱落します。 吉宗が血筋をアピールして8代将軍になってますから、事前の運動があれば清武がなっても不思議でないと考えています。 理由として、一旦他家に養子に言ったからとか言われても、兄の家宣も新見家に養子に行ってますし、決定的ではないので。 脱線してすいません。
お礼
たびたびありがとうございます。 >生き残ったと見るべきかと思います。 歴史に「もし」はタブーですが、ひょっとしたら「御三家」じゃなく「御四家」なり「御五家」の可能性もあったわけですよね。 実際、綱吉(館林藩主)や家宣(甲府藩主)は本家(宗家)から独立していたようなものですしね。
補足
脱線ついでに、よく考えると吉宗ってすごいですね。 「御三卿」を作って、 「親藩(松平家)」<「御三家」<「御三卿」<「将軍家」 って序列を整備し強固にしたわけですから。 さすが「中興の祖」ですよね。
- bomber_c
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仮想敵国に対する睨みという点では、水戸は伊達に備えるためであることは周知の通りです。名古屋は東海道・中仙道双方にに近く、萩・鹿児島など西国が攻めて来ても抑えられるからという「軍事上の要衝」という理由と、もともと織田の拠点であったという警戒心があったことも挙げられると思われますが、如何? 京都には所司代を置いて幕府が直接支配し、同じく大坂も将軍自らを城主として大坂城代を置きました。これは、当時江戸よりも物資の集まる環境が整った場所に藩などを置くと、下手をすれば幕府より強大になってしまうおそれがあったからではないかと推測されます。「大坂」ではなく「和歌山」とした理由もその辺にあるのではないかと考えられます。
お礼
ありがとうございます。 尾張は信長も秀吉も生まれた地ですからね。 交通の要所だけでなく、歴史上の要所って意味も含まれてるみたいですね。 大阪や京都に領地をもったら、確かに「天下」を窺いたくなるかもしれませんね。 ありがとうございました。
- syo1220
- ベストアンサー率0% (0/8)
ここで質問してもいいのか分からないんですけど… 「御三家」って「尾張・紀伊・水戸」ではないんですか?
お礼
こんばんわ。 ご質問の意味が分かりません。 私が「紀州」と書いたことについて「紀伊」ではないか?とのご指摘でしょうか。 それとも「序列」についてのご指摘でしょうか。 <前者の場合> 個人的に、「紀州」も「紀伊」も同じだと認識しておりました。 ですので、「紀州」と「紀伊」が異なるもの(「紀州」が適切でない)であれば今後改めたいと思います。 <後者の場合> 「序列」と言う意味では「尾張・紀州・水戸」と並べるのが「暗黙の了解」「適切」なのかもしれません。 個人的に「御三家」に「差」を付けることに、なぜか抵抗を感じるので、西から「紀州・尾張・水戸」と表記いたしました。 なぜ抵抗を感じるんでしょうかねぇ。 たぶん尾張の某氏が「御三家とは将軍家・尾張・紀州を指す」なんて将軍家の跡目争いの中で発言したのが気に食わないのだとは思います。 ひょっとして、この「御三家=将軍家・尾張・紀州」に対してのご指摘でしょうか。 この「御三家=将軍家・尾張・紀州」って言うのは、尾張家だけの常識です。 一般的(教科書レベル)に御三家とは「紀州・尾張・水戸」を指します。 「御三家=将軍家・尾張・紀州」は将軍を出したくても結果的に出すことの出来なかった尾張家の自慰です。 それ以外のことについてのご指摘であれば再度頂きたく思います。 (もちろん、このレスに関しても結構ですよ。)
紀州藩ですが、これは左遷と見たほうがよいでしょう。 紀州藩の初代徳川頼宣は、家康に可愛がられ駿河・遠江50万石を与えられますが、秀忠により紀伊・伊勢55万5千石で転封されます。 代わりに秀忠の可愛がっている次男忠長が入るので、穿った見方をすれば、弟よりも息子をということでしょう。 和歌山城も豊臣秀長の城として藤堂高虎が縄張りし、その後桑山重晴から浅野幸長と城主が代わり、福島正則の改易で広島に浅野家が移った後に徳川頼宣が入りますが、紀州は統治が難しい国であり、加増とはいえ駿河のほうが上かと思います。 尾張は徳川発祥の地、岡崎に隣接し、東海道の要衝にあたり、家康の9男義直が、兄で清洲城主の忠吉の死亡により入りますが、西国への押さえと言う意味があります。 家康は11人の息子がいますが、上には冷酷無残、下は猫かわいがりで、長男信康(切腹)、次男秀康(他家に養子)、3男秀忠(ボンクラ呼ばわり)、6男忠輝(追放)で、下の3人は可愛がると言う親でした。 家康の考えとしては、可愛い9男義直には実高(木曽のヒノキがあって豊か)の多い尾張を与え、10男頼宣には駿河を与えて自分の老後を看させ、11男頼房には水戸を与えて江戸の押さえとしたということかと。 それが秀忠に代替わりして、目論見が変わったのでしょう。 大阪城は石山本願寺が織田信長の攻撃を多年にわたって凌ぎきった天然の要害で、そこに豊臣秀吉が天下の財をかけて築城したのが元々で、天下一の城と言ってもよく、多くの大名が望みましたが、この城を望むものは幕府に反抗する意思があると、改易されております。 曰くつきの城なので、幕府が大阪城代を置いて、直接支配しておりました。 因みに大阪城代は幕閣のエリートコースで、これを無事に勤めると老中への道が開けます。
尾張、紀州、水戸が御三家になったのはたまたまで、特に深い意味はありません。 初期においては、尾張、紀州、駿河(徳川忠長)が徳川の姓を名乗り、官位も大納言、石高も50万石クラスですから、改易されなければ水戸に代わって駿河が御三家になっていたと考えます。 事実、兄の家光と京都に上洛した時は、尾張、紀州と同格、水戸よりも上に遇されてるので、このままならこの三家が「御三家」になったかと思います。 血筋でも、家康の次男である越前家は「松平」の姓で、親藩の筆頭ではありますが、御三家には入りませんし、8代将軍吉宗が創設した御三卿も田安家と一橋家は吉宗の次男、三男が初代ですが、清水家は孫の重好ですから、御三家も必ずしも家康の息子でないといけないと言う決まりはありません。 京都は山城国と呼ばれ、朝廷があるので、ここに大名を置くと朝廷と結び、万一の場合は幕府が朝敵として討たれる恐れがあるので、直轄領として京都所司代を置きました。 大阪は人気の有る場所で、家康の六男忠輝が望んだ時は家康の逆鱗に触れて改易、徳川忠長も駿河を返上してもと望みましたが、父親秀忠の怒りを買って蟄居(後に切腹)、松平忠直も大阪の陣の恩賞にと望みましたが、後に改易、どうも豊臣氏の本拠地と言うイメージもあり、ここを領するものには反乱の意思があるとみなされ、誰にも許されず幕府の直轄領。 紀州、尾張に大きな藩を置いたのは、仮想敵国は長州、薩摩ですから、京都に集結した倒幕軍が東海道と中山道を東上すると睨み、彦根と紀州で戦いを挑み、突破されたら尾張、それも危うくなれば水戸に逃げると言う想定があったのでしょう。 親藩でも越前家は信用されてませんし。
お礼
こんばんわ。 たまたま石高の高い藩が後に御三家になったのであって、御三家を紀州・尾張・水戸に封じた訳ではないってことですね。 ありがとうございます。
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お礼
こんばんわ。 ありがとうございます。 >閉じられなければ3日間でできるだけ調べてみます。 期待しちゃいますよ★