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8代将軍徳川吉宗はどのような存在だったか?

8代将軍・徳川吉宗の時代は、日本の民衆の間で徳川吉宗は日本一偉い人だと思われていたのでしょうか? それとも民衆は、日本一権力があるのは徳川吉宗だが、日本一偉いのは他の誰か(例えば天皇)だと思っていたのでしょうか? 8代将軍・徳川吉宗の時代に、徳川吉宗は民衆にどのように思われていて、民衆にとってどのような存在だったのでしょうか?

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回答No.3

徳川吉宗氏は,当時の,いわゆる各地の藩主や,武家の人々から見ると,武家や侍のトップで,階級的にも,立場的にも,武士のヒエラルキーの頂点で,各地の諸大名達などは,参勤交代をしたり,武家諸法度や,禁教令,公事方御定め書き?などで縛られたりと,一番の上司で有り,偉い人ですので,御家の為にも,無闇に逆らったりは,出来ない怖い存在です..一方,京の朝廷の,天皇家の人々や,皇族,公家の方々から見ると,徳川将軍家による,禁中並びに公家諸法度での縛りなどは,有るものの,基本的に,武家や侍は,古代より,天皇や朝廷の門番的な,出自のよくわからないところも有る,下郎のような存在であった為,内心,見下している面も,あったと思いますし,実際,徳川将軍家に,正室として嫁いだ藤原摂関家の御息女は,徳川将軍との間に,子供も,ほとんど無く,夫婦仲が,冷めているパターンも,多い気がします..日本の一般市民達から見ると,徳川将軍家や徳川吉宗氏などは,日本を統べっている人で,一般市民達から,普段,恐れられている?町奉行や,お代官様などの,地方警察や,お役人などのトップで,現在の日本の警察庁の長官的な感じだったかもしれません..ただし,浪人者とか,河原者とか,夜鷹(夜に,売春を生業とする浮浪の女性)などの不定住者などは,徳川将軍家も,京の朝廷なども,どちらも,崇拝の対象などでは,なかったかもしれませんが,日本の場合,京の朝廷のトップの天皇や天皇家は,日本古来の伝統を守り,代々受け継ぐ,日本の祭祀を司るトップなどとして,静かに,崇められていたような気がします(お雛様とか‥?)..失礼しました m(__)m 。

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  • mm058114
  • ベストアンサー率30% (102/337)
回答No.2

NO1さんを否定するつもりはありません。 ただ、全員が当てはまるととは思えません。 地方農村や山に居る人にとって、 せいぜい殿様じゃないでしょうか? 身近な偉い人は、庄屋さんって人も居たと思います。 まあ、全人口%は分かりませんが。 変な例えですが、 戸籍が整備されたと教科書で習う明治ですが、 国運かけて、もう動員余力が無いと言われた日露戦争時も、実は把握、周知されていません。 法制定されても、施行されるのには何十年もたってからであって、 周知されるのには、また何十年もかかります。 戸籍制度がほぼ周知されたのは、昭和に入ってからです。 亡くなった私の祖母は、秋田の農村生まれ、育ち。 明治44年誕生です。 しかし、この戸籍上の誕生年月日は父親が役所に届出した日で、 父親が、たまたま町へ出たついでです。 この時には、すでに3才くらいだったと、後年兄に聞かされたされたそうです。 だから、本当の誕生年月日は分かりません。 何歳で亡くなったのかも分かりません。 小学校も行ったことないそうです。 一日中、親の畑仕事の間、弟妹の世話をしてたそうです。 読み書きは、結婚してから祖父に教わったそうです。 明治が40年も過ぎても、この程度です。 果して江戸時代は? と考えると、天皇、将軍はおろか、大名も怪しいのでは? と思います。 都市部は認知あるでしょうが、 はたまた地方農村や山に居る人は、 身近の束ねる人、せいぜい、その人の上の人程度ではないでしょうか??

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  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.1

 畿内ならともかく、日本の民衆ということであれば、天皇の存在など知っていたとは思えません。  当時は、村から一生出ない人だって珍しくは無かったし、江戸から京都あたりに行くに際しても水杯を酌み交わして出かけたという話もあったと記憶しています。  日本の大半から見て、京都は遠いのです。  参勤交代を見て「うちの殿様が将軍様がいる江戸へ挨拶に行くんだそうだ」、移封を見て「将軍様の命令で、殿様が××へ移る」ということは知っても、京都にもっと偉い人がいるという話は・・・ 知らなかったと思います。アンケートを採ったという記録はないので、想像にすぎませんが。  小説だったかもしれませんが、薩長が倒幕の詔をもらって進撃するとき、兵隊や民衆に対してまず「天皇とはなんぞや」という教育から始めたという話も読んだ記憶もあります。  また、「ええじゃないか」運動も天照大神を通じて天皇家の存在を民衆に教える役割を果たしたとかいう説も。  したがって、将軍様=最高に偉い人 という認識だったと思います。  吉宗個人ですが、  吉宗の業績(享保の改革)も、ほぼ天領・江戸中心のこと。尾張徳川家など、節約の奨励に反して殿様が怒りをかっていますが、あれは吉宗の政策に対するあからさまな反発政治だったから。基本的に大名領のことに口出しはしなかったようです。  座がどうした、目安箱がどうだ、上米がどうだ、と言ったって、江戸や天領の人間には関係あっても、大名領の庶民には関係ありません。  なので、「日本の民衆にとって」ということであれば、ほぼ影響なしだと思われます。  なので、吉宗に対して「領主様の領主様で、すごく偉い人」「なんか、倹約家で立派な人らしいよ」という認識程度しかなかったのではないかと思います。

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