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江戸時代の徳川家の譜代の家格の序列が 尾張>紀州>水戸 なのはなぜ?
江戸時代の徳川家の譜代の家格の序列が 尾張>紀州>水戸 だった、と読みました(吉宗就任のあたり)。 これはなぜなのでしょうか?もしかして、これらの分家のさい、尾張の1代目がほかより年長だったから、という理由でしょうか?家督の序列は3代家光以降定まった、と聞きました。
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名古屋城本丸は, (江戸城を除く) 他の城の本丸と違い「将軍が使う」ためにありました. だから尾張藩主は本丸ではなく二の丸を使っています. 名古屋城は, もともと西国 (特に大坂豊臣家) に対する最終防衛拠点兼最前線基地として使うことを考えて設計されています. 実際, 大坂の陣では家康自身が名古屋城に入って指揮をとるという計画もありました. もちろん, 家康は尾張藩主より格上 (義直の親だし, なにしろ大御所だから) なので, 家康が執務に使う部屋も藩主より格上でなければなりません. そのため, 設計時点では「藩主は二の丸を使い, 家康が本丸を使う」ということを予定していました. ところが, 大坂の陣が予想した以上に簡単に終わってしまったため, 結局家康が本丸を使うこともありませんでした. が, まあそんな予定だったので, 藩主は二の丸で政務を執ることになりました. 平時に「将軍が名古屋城で政務をとる」ことは非常に稀なので, 本丸は通常空であり, 管理するための人がいるだけだったはずです.
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これは偶然ではないかと思います。 家格で言えば 尾張徳川家>紀州徳川家>駿河徳川家>水戸徳川家の順で、駿河家が権大納言ですから、尾張・紀州・駿河を御三家としてもよかったと思います。 勿論これ以外にも甲府徳川家や館林徳川家も存在しましたから、歴史にifがあれば、駿河・甲府・館林が徳川御三家という可能性だってあります。 結局は家康晩年の子供たちがうまく成長し、子孫に恵まれたため尾張、紀州、水戸となっただけで、必然性はないのではないかな。
- buchi-dog
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「尾張が九男ですのでその他の兄たちに徳川姓を名乗らせず松平姓にしていたと言う事に興味がそそられますね」 義直の兄たちは「徳川を名乗らせず松平を名乗らせていた」というわけではありません。徳川家を継ぐ秀忠以外は、徳川家(もともと松平家)の親戚の松平家、もしくは他家(結城家、武田家)の養子になっていた(名跡を継いでいた)のです。これは、毛利元就の次男、三男がそれぞれ吉川家、小早川家を継いでいるのと同様のことで、いわば「戦国の習い」です。 長男 信康 (正室の子。文句のない家康の後継者であったが、信長に切腹を命じられる) 信康以外の男子は全て側室の子ですので、その意味では差はありません。秀康が冷遇されたのは、「側室というより、単なる『手がついた女中』が産んだ子だったから」と言われています。 次男・結城秀康(1574年 - 1607年)(母:小督局) 鎌倉時代から続く、下総の名家である結城家を継ぐ。 三男・徳川秀忠(1579年 - 1632年)(母:西郷局) 信康亡き後の嫡男として扱われ、家康の跡を継ぐ。 四男・松平忠吉(1580年 - 1607年)(母:西郷局) 東条松平家を継ぐ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%9D%A1%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B6 五男・武田信吉(1583年 - 1603年)(母:お津摩) 母が武田家にゆかりのある女性だったこともあり、武田勝頼の代で滅亡した甲斐の武田家の名跡を継ぐ。家康は、本気で「武田家を再興させる」つもりだったようです。なお、武田信吉の家臣団は甲斐や信濃の旧武田家臣で構成されていましたが、信吉の死後は徳川頼房(水戸藩初代)の家臣に移籍した者が多くいました。そのため、水戸藩士には甲斐・信濃を本籍地とする武士が多く、そのまま明治に至りました。 六男・松平忠輝(1592年 - 1683年)(母:茶阿局) 長沢松平家を継ぐ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B2%A2%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B6 この後に生まれた 九男・徳川義直(1600年 - 1650年)(母:お亀)尾張藩初代 十男・徳川頼宣(1602年 - 1671年)(母:お万)紀州藩初代 十一男・徳川頼房(1603年 - 1661年)(母:お万)水戸藩初代 が兄たちとは違い徳川姓の分家を興すことになったのは、「家康が天下人になってから元服したので、他家に養子に出すのが不自然になった」という理由があったように思います。 なお、家康の次男の秀康は、生前は「権中納言 結城秀康」で通したようです。生前に松平姓を名乗るのを許されたと言われますが、秀康の署名で「松平秀康」というものは存在しないとのことです。 ただし、秀康の子の世代からは松平氏を称し、数家に分かれて明治に至っています。秀康の子孫の石高を合計すると100万石近くに達し、相当な優遇を受けていました。 なお、結城秀康以外の、松平忠吉・武田信吉・松平忠輝の子孫は残らず、初代で絶えてしまいました。 家康の子孫は、 徳川将軍家(秀忠の子孫) 越前家(結城秀康の子孫、分家多数) 尾張家(分家あり) 紀州家(同上) 水戸家(同上) の5つの系統が残り後世に続いたことになります。
- SU-CO
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引き続きNo.3です。 Umm・・・すみません。確かに私は正直申しまして「儒教」を引き合いに出せるほどの博学ではありません。。。 ですが私が浪人生の頃愛用していた山川出版社の「日本史研究」という書籍の中で「儒教」伝来について書かれてある項があるのですが・・・(相当長いです、すみません)。 「(6世紀頃)応神天皇の皇子、菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)は阿直岐(アチキ)や王仁(ワニ)について儒教を学んだ。応神天皇は死ぬ前に、皇子の兄大オオササギノミコトの意見を取り入れて、弟の菟道稚郎子を皇太子に定めたが、天皇が崩御したのち菟道稚郎子は『兄が上で弟が下なのは古今の常道だから』といって皇位を兄に譲ろうとし、兄もまた先帝の遺志だからといってこれを受けず、皇位に空白が空いたまま3年が過ぎた。あるとき、漁師が鮮魚を皇太子である菟道稚郎子に献じたが、それを兄の下へ献ずるようにと言い、兄もまた弟にと言って受け取らなかったので魚はとうとう腐ってしまった。こういう状態のうちに、弟はとうとう兄に皇位についてもらうために自殺してしまった。そこで兄は皇位につき仁徳天皇になった。」という「儒教」に対する表現がされていましたので・・・(どうやら「日本書紀」伝らしいです) それを「順番」というふうにとらえ表現しました。わかりづらい表現をしてすみませんでした。
- earli-blue
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尾張、紀伊、水戸の家格の序列としては言われるように兄弟の年長の順序だと思いますが、尾張が九男ですのでその他の兄たちに徳川姓を名乗らせず松平姓にしていたと言う事に興味がそそられますね。 長男の信康が三河の大名時代に自害させられてますが、将軍を継いだのが二男の秀康では無く三男の秀忠です。後の八男までが徳川姓では無く松平姓を名乗らされていたのは秀忠が将軍を継いだ時はまだ徳川幕府が磐石では無かったので内輪もめをさせないために一線をひいたのでしょう。 徳川御三家と言えば尾張・紀伊・水戸と言うのが有名ですが、いろんな御三家が線引きされていました。参考URSをどうぞ。
- SU-CO
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こんにちは。 私は歴史の好きな素人さんです。 さて基本的には「生まれた順番」で格式も決まったのではないのでないのしょうか。とくに昔は儒教的な色彩が強かったですから、「順番」は特に重んじられたのだと思います。 また関が原以降、尾張と紀州は「西国の要所」でしたし、さらに軍事的には江戸から一番遠いところにいる「御家門」でしたので、一番に格式を上げて信用を持たせて謀反を防ごうとしたのだと思います。 長州藩や薩摩藩が一度決起すれば近江の徳川家最大の譜代家臣井伊家35万石が突破され、さらに東海道の街道筋に位置する御家門の尾張家まで持ちこたえられなければ、もうそこから先は大きなお城はなく関東まで防ぐ手立ては薄くなり攻め上られてしまいます(ちなみに水戸家は「伊達家」への備えでした)。 そういう意味で基本は年上順ではあったけれども、他の二人は同腹でしたので、そうではない「義直」にあえて御三家筆頭として信用と責任を与え、配置したのではないかと私は考えます。
お礼
すばらしいです! 基本的に、年長だったから格が上とされた、で正解ですね。でも儒教自体が生まれた順に家督が優先される、という発想はなかったと思います。
- buchi-dog
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御三家は「譜代」ではなく「親藩」です。間違えないで下さい。 御三家の序列ですが、「そう決まっていたから」程度であまり考えても仕方ありません。「尾張の1代目がほかより年長だったからという理由」が大きいというのは、質問者様の考える通りでしょう。 なお、8代将軍吉宗以降の将軍は吉宗の血統で独占されています。言うまでもなく、吉宗は紀州家藩主の地位から将軍家を継ぎました。 「尾張>紀州>水戸の家格」が実際にどういうものだったのか、いろいろ調べてみてください。
お礼
ありがとうございます。Tacosan に次いですばらしい回答です。
- Tacosan
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それ, 「譜代」じゃなくって「親藩」(しかも御三家) なんだけど.... 基本的に大名の格は「親藩→譜代→外様」の順で, それぞれの中では石高の高いものからとなっていたような気がします. それに合わせて石高を設定した可能性もありますが. ついでにいえば, 水戸は「御三家」の中でも新参者かつ特殊な位置にあるので, 一番下でもしょうがないのかなという気がします. 尾張と紀伊の差は, おそらく重要度の違いでしょう. 尾張は, 西から江戸に攻め込まれたときの最後の砦, かつ大坂を攻めるときの前線基地 (だったんだけど大坂との戦いは簡単に終わっちゃったのでこの意味はほとんどなくなった. まあ, そのため尾張藩主は二の丸にいるんですが) の役割を持っています. 紀伊から渥美半島→東海道ルートも考えられるけど, これは攻める方にも (海を渡るという) リスクがあるため, さほど重要視されなかったんじゃないでしょうか.
お礼
Tacosan ありがとうございます!
補足
細部に興味をもちました!「そのため尾張藩主は二の丸にいるんです」、はなぜですか?二の丸にいるからどういう利点があるのでしょうか?
お礼
私のほうが間違っておりました。 どうも儒教は年長を立てる思想を持っているようですね。 平安後期、鎌倉時代武士の世、戦国時代、家康の治世も含めて、儒学がないがしろにされたようです。強いものが反映する時代。 江戸中期以降、平和な世の中になると、徳川幕府の体制を磐石なものにしたい。だから主従の関係をことさらに植えつけた。年少者が年長者より栄えるような事態は従が主に勝ることの連想につながるので、避けたかった。 だから儒学は統治に都合の良い思想だったのでしょう。 みなさんありがとう。