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徳川御三家って?

徳川御三家ってなんですか? 徳川家康の子息から水戸・紀州・尾張に分かれたというようなことは調べてすぐわかったのですが、一ツ橋家やら田安家、清水家も出てきました。 またよく松平家という苗字も聞きますが、徳川家ってどんなふうに分かれているんでしょう? 日本史を学んだことがないのでよくわかりません。 大河ドラマを見ていて疑問に思ったのですが、 詳しい方、是非ご教授ください。

みんなの回答

回答No.9

徳川御三家は家康の九男 義直 十男 頼宣 十一男 頼房がそれぞれ尾張 紀伊 水戸を拝領し 家光の時代に御三家となった(最初は将軍家 尾張家 紀伊家だったが将軍家と御三家が同列なのはおかしいとして家光が水戸家を加えて御三家とした) もし徳川将軍家に世継ぎが居ない場合は尾張 紀伊 水戸の御三家から将軍を立てることになっていた 実際8代将軍吉宗~14代家茂は紀伊徳川家の出身 15代慶喜は水戸徳川家の出身 尾張家のみ将軍が出ていない 御三卿は御三家に将軍世継ぎが居なかった場合に将軍を立てる家 吉宗の息子たちがそれぞれ任命されている 松平家は徳川の親藩 もともと徳川家康は松平元康と名乗っていた そのため徳川と名乗らない身内は主に松平姓を名乗った 家康の息子 秀忠は徳川だが同腹の弟忠吉は松平 また家康の六男で伊達政宗の娘婿忠輝も松平を名乗っている 例外として 徳川一族じゃなくても松平を名乗ったケースもある 家光の腹心で 知恵伊豆として知られた松平伊豆守は大久保氏の出だが松平姓を名乗っている また幕末に有名な新撰組の主で京都守護職の松平容保は会津白川藩主だが初代は保科正光で徳川秀忠の隠し子だった 3代藩主までは保科を名乗り4代目から松平を名乗った

alpharomeo19
質問者

お礼

回答ありがとうございます 松平は特別な姓なんですね 例外などまで詳しく教えてくださってとても勉強になりました。

  • goldman63
  • ベストアンサー率14% (27/189)
回答No.8

徳川家のルーツについては、no7の回答者に譲るとして、元々は松平姓が元祖です、徳川幕府末期においては御三家の水戸藩はかなりの冷遇、ないがしろにされていた、当時の大老(井伊直弼)の執政に不平不満を持つ水戸藩は、やがて恨みつらみが重なり、薩摩藩と結託して江戸城桜田門外にて井伊直弼を殺害する、これが明治維新の発端です、その10年位前にも米国のペリー艦隊が浦賀(横須賀)に来航、上陸して開国を迫った時からの伏線もある、そして水戸藩の最大の失敗は最期のボンクラ将軍(徳川慶喜)を輩出した事にある、このボンクラ将軍を祭り上げなかったら薩摩、長州、土佐どもの悪辣なやり放題は起こらず、こんにちの体たらくな日本には成らなかったと言っても過言ではない、ちなみに内ゲバの絶えなかった水戸藩を陰で支えていたのは会津藩です、それと横須賀には米国からの攻撃に備えるため会津藩が構築した砲台跡もあります。

alpharomeo19
質問者

お礼

回答ありがとうございます 水戸藩はよく聞く名だと思っていたのですが、 御三家の中では冷遇されていたんですね ちょうど八重の桜が会津ですよね! 砲台はドラマで出てきた場面と合致して納得しました

  • shin1417
  • ベストアンサー率27% (199/721)
回答No.7

昔の人は、名前が良く変わります。 徳川家康という名前は一番最後に名乗った名前で、それまでは松平家康でした。 家康の名前の遍歴は、松平竹千代→松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康。 松平というのは、元々は三河周辺を支配していた豪族(田舎の実力者)の一族で家康はその中の一人。 一族ですから他にも松平を名乗る人間は何人もいます。 いろいろあって、家康が松平一族のトップになりました。 家康は織田信長と手を組み、どんどん勢力を拡大。それにつれて他の松平も勢力を拡大。 気が付けば、あっちも松平こっちも松平っと、松平の名前を持つ武将が増えました。 そこで家康だけは他の松平とは別格を示す意味で『徳川』を名乗りました。 「徳川」は松平一族のトップの人間が名乗る姓であって、名前が違っても松平一族です。 家康の直系の子孫だけは「徳川」を名乗りました。 家康は侍のトップとなり江戸幕府を開きましたが、今度は後継者の心配をする必要が出てきました。 今まで後継ぎを巡って家の中が分裂したり、後を継ぐ子供がいなかった為に家が潰れたりしている例をたくさん見て来た家康は、自分の跡を継ぐことができる家(血筋)を限定しました。 それが『徳川御三家』。 御三家は、全部、家康の息子達の家ですから、優先順位は違っても皆、家康の跡を継ぐ権利を有しています。 一ツ橋家やら田安家、清水家というのは『御三卿(ごさんきょう)』と呼ばれる家のこと。 江戸時代も中期を過ぎると、だんだん家康の血筋を引く人間が薄れてきます。 現在では諸説いろいろありますが、あの当時、血(遺伝子)を引き継ぐのは父から息子そのまた息子...と考えられていましたので、同じ男の孫でも「息子の息子」と「娘の息子」では、「息子の息子」の方がより血を濃く引き継ぐと思われていました。 「娘の息子」は父親が別の血筋ですから、血筋が「息子の息子」より低いと思われていました。 家が代々つながっていきますと、いつもいつも男の子が生まれてくるとは限りません。 これは「御三家」も同じ。 男の子が生まれなかった為、婿養子を迎えたり、親戚の子を養子に迎えたりで、徳川家康の血筋が薄い人間が将軍になる可能性が高くなってきました。 この対策として、8代将軍徳川吉宗(暴れん坊将軍でおなじみ、この人は「息子の息子...」で来た徳川家康の直系の人)が自分の息子や男の孫を、家康の血筋を引く者たちとして「御三家」を真似して『御三卿(ごさんきょう)』と呼ばれる家を創設したのです。 田安家は吉宗の次男、一ツ橋家は吉宗の四男、清水家は吉宗の孫(九代将軍家重の次男)

alpharomeo19
質問者

お礼

詳しい回答ありがとうございます 御三家と御三卿は別モノだったんですね とても参考になりました

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.6

”徳川御三家ってなんですか?”    ↑ 将軍の血筋が絶えないように、予備の血統を 準備していました。 将軍家宗家の血筋が絶えた場合に備えていたのです。 それが御三家です。 尾張藩が筆頭で、次が紀州藩です。水戸藩は 事実上、将軍継承はできない、とされていました。 ”一ツ橋家やら田安家、清水家も出てきました”     ↑ これは御三卿といいます。 8大将軍吉宗が、自らの権力を持続させるために 御三家とは別に設けたものです。 幕末になって一橋家から慶喜が出ました。 ”松平家という苗字も聞きますが、徳川家ってどんなふうに分かれているんでしょう”     ↑ 松平というのは、徳川家康が三河出身でその三河にあった 地名です。 徳川家の母体となる名字です。 たくさんあるのは、本家の他に分家みたいのが たくさんあるからです。 名誉ある名なので、皆つけたがったのです。

alpharomeo19
質問者

お礼

回答ありがとうございます 松平は生まれではなくブランドとして扱われているという感じがあったんですね わかりやすい回答ありがとうございました

noname#178467
noname#178467
回答No.5

 詳しいわけではないので概略だけお知り 下さい。きっと後の方が詳しく教えて下さ るでしょう。 (1) まず江戸時代を築いたあの将軍家は現代風に  言うならすべて松平家です。 (2) 松平家の中で幕府将軍職につけるのが御三家  と言って姓を徳川と名乗ります。実際に将軍を  出せるのは尾張と紀州の2藩で水戸は「副将軍」  格の家柄とされました。何と水戸藩は徳川であり  ながら藩主である大名は代々、天皇中心の世が  正しいとする「水戸学派」を形成します。多分  ですけれど、天皇を屈服させて江戸で政治をする  徳川の幕府が危なくなったときに役立つように  置かれたのではないかなと感じます。 (3) 徳川御三家に次ぐ家格が一橋家などです。  正式には一橋徳川家なのですが、平安時代の  藤原一族が分かれて姉小路家というのと同じ。  一橋に屋敷を構える徳川家を縮めて一橋家です。 (4) そして幕府最後の将軍が普段なら決して出せない  慶喜は水戸藩主の子どもとして生まれ、後、一橋家  を継ぎます。彼の任務は徳川家をつぶすことなく、  幕府を閉じることでしたが薩長の策略でそれは  失敗します。でも明治の世、彼は趣味の写真を  楽しみながらのんびりと余生を送ったようです。

alpharomeo19
質問者

お礼

回答ありがとうございます 徳川慶喜の余生って思ったより穏やかなものだったんですね 水戸藩から出た将軍でも最期はゆっくり過ごされたようで安心しました

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.4

歴史は偶然とその時の人の選択の結果です。 徳川家康は、松平一族の中で「俺って、特別だよ」と宣言するために、徳川と名乗りました。 俺だけ徳川で、他は松平デス! ほんで、結構子供が多かったので、跡継ぎである秀忠以外を、ドンドン養子に出します。 秀康は、関東の名門 結城家へ 忠吉は、松平一族の 東条松平家へ 信吉は、武田家へ 忠輝は、松平一族の 長沢松平家へ このへんまでが 1599年 つまり天下取りの前です 徳川義直、徳川頼宣、徳川頼房 これらは、関ヶ原の戦いの後に生まれているので、徳川家の跡継ぎ秀忠のスペアです。 家光1604年生まれで、徳川義直、徳川頼宣、徳川頼房よりも後に生まれています。 ちゃんと成長するかわからない時代ですので、スペアは重要です。 御三家はどこか? 寛永9年2月3日(1632年)秀忠がなくなったときに遺物が御三家に渡されていますが、対象は 徳川忠長 義直 頼宣であって、頼房(水戸家)は御三家にカウントされていません。 同母兄の紀州家の分家という説もあります、水戸家は。 また、忠長切腹後、尾張家の認識では 江戸 尾張 紀伊の三家が御三家で水戸家は違うものもありました。 家光の子供 綱重 綱吉 がそれぞれ 25万石 水戸家が28万石 ※ 水戸家が国直しで自称35万石とし、綱重の息子綱豊(のちの家宣)の25万石よりワンランク上よと自己主張したのは、元禄年間、綱吉の時代となります。 家宣が将軍になり、甲府家がなくなると、一応綺麗に、御三家となります。1709年。 家宣の息子、家継が無くなって、紀伊家から吉宗が入ります。1716年。 家康の時代から100年。もう、紀伊家にとって、尾張家も水戸家も遠い親戚。 で、吉宗は自分の家系から、将軍のスペアとして、一ツ橋家やら田安家、清水家を作ります。 その時の最高権力が、自分のご都合に合わせて、徳川家を作った、あるいは松平と名乗るものと区分けした。 というような感じになります。

alpharomeo19
質問者

お礼

回答ありがとうございます 血筋だけではなくやはり権力によって利用されているものなのですね… 松平という苗字が多いのも納得です

  • Tacosan
  • ベストアンサー率23% (3656/15482)
回答No.3

今学校で教える日本史では「御三家」といえば尾張・紀伊・水戸ですが, それ以外にも「江戸・尾張・紀伊」とか「駿河・尾張・紀伊」とかを指すこともあったりしました (家格は江戸→駿河・尾張・紀伊→水戸などの順なので, 上から 3家をとるとどうしても水戸ははずれる). 江戸時代初期には徳川姓を名乗る系統がいくつかあったのですが, いろいろあって江戸・尾張・紀伊・水戸の 4家になり, このうち将軍そのものである江戸を除いた 3家を今では「御三家」と呼んでいます. ちなみに「徳川」の姓を名乗るのは本来当該家の当主に限られ, その他は原則「松平」を称することになっていました. だから「徳川家」というのは本当はおかしいのかもしれない.

alpharomeo19
質問者

お礼

回答ありがとうございます 私は理系でちゃんと日本史を学んだのは義務教育でだけでしたので ほとんどの歴史の情報はドラマなどだけだったので 徳川と様々な苗字について 今回きちんと整理できてすっきりしました

  • yahhon
  • ベストアンサー率22% (44/196)
回答No.2

尾張・紀州・水戸は。家康が、将軍家の直系後継者が居なかった場合、この三家からと決めましたが、水戸は一段低く見られて擁立できない立場で、第8代将軍徳川吉宗が次男・宗武(田安)、三男・宗尹(一ツ橋)を取り立てて別家させたのが御三卿の起こりです。さらに、吉宗の長男である第9代将軍徳川家重が、自身の次男・重好(清水)を別家させることで、三家の体制が確立した。家格は徳川御三家に次ぐものとしました。 松平は、徳川家の旧姓です。 家康の先祖は、愛知県東部の岡崎周辺に勢力を持った、土豪です。この頃、名乗ってたのが、松平。 「松平」は、三河地方の土豪の名です。 そもそも、信長のおかげで、今川の人質から解放されて、三河へ帰った際に、自らの権威を高めるために、新田義貞の末裔であると自称して、徳川に改姓したと言われています。「徳川」という姓は、源氏の一門である新田義貞の末裔とされていたので、そういう系図を捏造したのです。 で、この改姓を正当化するため、関白である近衛前久の仲介で、官位とともに徳川姓を認めて貰ったのです。 これにより、三河平定も、朝廷が認めた格好となったのです。 この時点では、家康が源氏の末裔の徳川を名乗ったのは、三河の領民に対し、自分を偉く見せるため、ようするに箔をつけるため、という程度のことだったと推測するのが自然のようです。  

alpharomeo19
質問者

お礼

回答ありがとうございます もともとの徳川は徳川幕府の徳川ではなかったんですね やはり家系というブランドは重要なんですね

  • trajaa
  • ベストアンサー率22% (2662/11921)
回答No.1

>一ツ橋家やら田安家、清水家も出てきました 残念!それは御三卿 >松平家という苗字も聞きますが、徳川家ってどんなふうに分かれているんでしょう? 家康の政略として有力武将の子女と養子縁組をしたり、功績のあった家臣などにも名誉として松平の姓を下賜すると あっちも松平こっちも松平と松平ばかりになってしまいます そのために、家康の直系で将軍職に就任する可能性のある血筋の近い人物のみが徳川の姓を名乗れるように格式を設けたのです。 例えば、徳川秀忠の子供(正妻の子)である家光と忠長は徳川姓ですが、妾腹の子である保科正之は後に秀忠の実子であることが正式に公になっても、徳川ではなく松平の姓を名乗る という感じ 尚、御三卿は世代を経る事で将軍家との血縁が薄まってしまった御三家に代わって(或いは補強して)将軍職の後継者の予備軍をより血縁の濃いもので準備するために江戸中期以降に設けられたもの

alpharomeo19
質問者

お礼

回答ありがとうございます 御三卿とは初めて聞きました! 幕末の物語などでは御三家より御三卿のほうが 跡継ぎをだす家というような口振りだったので気になっていたのですが 今回のことですっきりしました

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