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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:江戸時代に宮将軍が考慮されたというのは真実か?)

江戸時代の宮将軍についての真実は?

このQ&Aのポイント
  • 江戸時代に宮将軍が考慮されたというのは真実か?江戸時代の5代将軍に関する質問です。徳川家康を神と称え、徳川に忠誠を誓っているはずの、徳川譜代の大老・酒井忠清が5代将軍に宮将軍を迎えようとしたという話は真実なのでしょうか?
  • 酒井忠清が綱吉を将軍にしたくなかったために、鎌倉時代に宮将軍を迎えていたという話を持ち出したそうです。しかし、初めての武家政権であり、武士の地位がまだまだ低かった鎌倉時代とはわけが違います。江戸時代のトップは東照大権現の正式な子孫のみがなれるはずです。
  • 宮将軍を迎えるくらいなら、家康の男系の直系子孫である水戸藩主を将軍に押した方がずっとましです。綱吉を将軍にさせたくなかったとしても、綱重の嫡男・綱豊、尾張の綱誠、紀州の綱教がいます。江戸幕府には鎌倉幕府の北条氏に当たるような存在もありませんでした。

質問者が選んだベストアンサー

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  • ithi
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回答No.2

abdfg さん、こんばんは。 実はこの時に家綱の子を宿した側室がいて、もし、この子が男子だった場合、将軍の跡継ぎになる可能性があるので、とりあえずお話だけという形で宮将軍の話が出たらしいとのことですが、側室が流産したため、光圀や堀田正俊の言うとおり、館林宰相だった綱吉に相続が決まったようです。

noname#221624
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 この段階では、家綱に子がなくて、綱重がもう既に死んでしまっていましたが、綱吉、綱豊、尾張の綱誠等の有力候補がいました。 他に、紀州の綱教もいますし、一時的な将軍でいいのなら、水戸の綱條(頼房の長男・頼重の息子)もいます。 全て徳川を名乗ることのできる、正式な家康の男系子孫です。 宮将軍など考えた事をもし家康が知ったら、怒るでしょうね。 家康は既に亡くなっていましたが… ありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • oska2
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回答No.3

>5代将軍に宮将軍を迎えようとしたという話は真実なのでしょうか? 真実ですね。 5代目将軍になると、既に血筋云々は幕府に必要ありません。 ドラマ・映画と異なって、将軍自らが政治を行う事はありませんからね。 将軍を取り巻く幕閣が、政治を行っています。 つまり、既に官僚組織が出来上がっています。 犬公方綱吉も、赤穂事件で直接判断を下したのも「実母・お玉(玉の輿)の従一位」を授かる為の儀式を浅野が穢したからです。 通常は、側近と幕閣が政治を行っています。 余談ですが・・・。 江戸時代は、徳川家に忠誠を誓っているのではありません。 幕府・征夷大将軍に対して、忠誠を誓っているのです。 幕府が開かれても、征夷大将軍は朝廷内の職制に過ぎません。 征夷大将軍は、武士を統括する権限を持った職種です。 朱印状の署名も「征夷大将軍・源朝臣〇〇」ですよね。 ※天皇の臣下である〇〇という意味。 ※幕末、慶喜が征夷大将軍職を解かれると各藩は(一部の親藩を除いて)朝廷側に組みしました。 ですから、家康の血筋か否かは問題になっていません。 ただ、光圀が「家光の子が居る」との鶴の一声で綱吉に決まっただけです。

noname#221624
質問者

補足

>将軍を取り巻く幕閣が政治を行っています。 >つまり、既に官僚組織が出来上がっています。 江戸時代は全て、東照神君の決めた事がグランドデザインとなっています。 何故、家康が幕閣が政治を行うようにしたのか? それは、自分の子孫がそれほど優秀でなくて、将軍になったとしても、世が乱れて徳川の天下に危機が訪れないようにするだめです。 つまり、優秀でなくても家康に血筋の近い正式な子孫がトップに立てるためです。 家康はその政治システムを世や民や朝廷のために作ったわけではありません。 自分の子孫が可愛いから作ったのです。 公武合体も自分の息子の頼房に初めまる水戸徳川家で行っております。 宮将軍など迎えたりしたら、家康の苦労が水の泡です。 例え、家綱の子が生まれるまでの繋ぎだとしても、将軍の地位が天照に対抗する東照神君の子孫でなくてもなれるという前例を作るのは好ましくない事です。 それに、宮将軍などに幕臣は仕えたいと感じないでしょう。 御三家の当主は自分を差し置き、宮ごときが何故、武家の将軍にと感じるでしょう。 もし、家綱に男子が誕生してうまく育てば、一時的な宮将軍も仕方なかったと皆が納得するでしょうが、もし家

回答No.1

これ結構有名な話ですよ 老中達は酒井に味方して宮将軍を迎える事で決まりかけた時に 待ったを掛けたのが かの水戸光圀です 「上様にはお世継ぎは無いが、末弟の館林宰相(綱吉の事)殿が居られる、徳川の血筋が途絶えたのならいざ知らず三代家光公の世継ぎが居られるのに親王将軍を迎えるとは、東照大権現(家康)の遺訓に反する」と老中派を一蹴 光圀の言い分は正論だったため老中は反論できず 結局綱吉が5代将軍になりました 光圀はその功績で副将軍に推挙されました(綱吉は自分を将軍にしてくれた光圀を副将軍に就けましたが実際に光圀は恐れ多いからと就任はせず 単に位を貰っただけでしたが)

noname#221624
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 結局は、5代将軍は、綱重の嫡男・綱豊や尾張の綱誠ではなく、家綱と最も血縁が近く、家光の実子である家光の四男綱吉になりましたよね。 やはり、血縁・家康の子孫である事が大切なのです。 ありがとうございました。

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