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神みづからによる自己の揚棄:エレミヤ書31:31
- 聖書の伝えるヤハヱーなる神はエレミヤ書によって新しい契約を結ぶことを予告し、イエスによって成就した。
- 新しい契約の時代では、信仰によるモーセの律法ではなくアブラハムの信仰が重要とされる。
- イエスの登場により、原罪は贖われ、律法の教える必要はなくなり、組織や教会も必要とされない新しい時代が訪れる。
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こんばんはです。 ☆ (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。 ◇わたしは、そもそも《原罪》なるものがイエスの十字架以前の人々にあったのかどうかを疑わしく思っています。 ユダヤ教では《原罪》の存在を、確か、認めませんよね。《原罪》の存在を否定しないまでも、その存在を声高に叫んだりはしない、主張したりしない。 パウロ以前のユダヤ教の一派には、そうした《原罪》思想はあったのかもしれませんが、それが表面化した、公に叫ばれるようになったのは、パウロ以降のキリスト教の方。《原罪》思想はパウロ教学、パウロ神学なのかもしれない、などと思っております。 そもそも、アダムとエヴァは、楽園追放などという形で、神への不服従の罪は清算済みなのでは。 もっといやらしいことを言えば、アダムとエヴァの禁断の果実事件は、人間が死すべき存在で、そうなったことの神話的説明なのかもしれません。 神話学などでいうところの《バナナ型神話》の一形態にすぎたない、と考えたりしています。 バナナ型神話 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%8A%E3%83%8A%E5%9E%8B%E7%A5%9E%E8%A9%B1 ───ここでも出てくる《ギルガメシュ叙事詩》!!。 ここには書いていないけれど、 エヴァは、反獣人《エンキドゥー》を獣的な存在から理性を有する人間的な存在に変えた、神聖娼婦(?)シャムハトの如き役割を果たしているのかもしれない!!─── エンキドゥー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%89%E3%82%A5 アダムとエヴァの話が《バナナ型神話》の一形態であるとするならば、 人間にはそもそも《原罪》などは存在していない、 と考えるべきではありませんか。 さらに穿った見方をするならば、 イエスの十字架を説明するために、パウロによって《原罪》なるものが持ち込まれたのかもしれない・・・。 パウロに騙されたのかもしれない、食わせ者のパウロに人類はしてやられたのかもしれない!! 超正統派ユダヤ教のラビさんの発言を以前Youtubeで見たことがあるのですが、 「罪があるのは、(ソロモン以降)神を裏切ったユダヤの民であり、他の人々にはないない。その罪のために、我々は国を失った。そして、その罪は未だ神に許されていない」 と言って、 「人口国家イスラエルは断じて認められない。これは神に対する新たな罪である」 みたいなことを言っておりました。 ですから、《罪》に対する意識がユダヤの人々と、キリスト教の人たちの間では食い違っているのかもしれませんね。
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- NemurinekoNya
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直接にこの質問には関係しないのですが、 創世記は、二つ、あるいは、三つの系統の異なるテキストを元に作成された、 なんて話を、以前、どこかで読んだことがあります。 創世記一章と二章では、天地創造から、人間誕生までの時系列がちょっと食い違っているですよね。 しかも、神さまの呼び方も微妙に違う・・・。 KJVですと 一章では、God(el-o-heem)ですが、 二章は途中から、the Lord(yeh-ho-vaw‘)が付く。 create a manに該当するcreateのヘブライ語の単語も異なる。 baw-raw‘とyaw-tsar‘ ・・・。 http://www.sacred-texts.com/bib/poly/gen001.htm http://www.sacred-texts.com/bib/poly/gen002.htm エロヒーム派とエホヴァ派の異なる系統の創世記があったんじゃないかとか。創世記のみならず、他のモーゼ五書にもこの残滓が認められるとか・・・。 聖書学ではそんなことを言っているようですね。 であるとするならば、 エロヒーム派の創世記には、アダムとエヴァ、蛇の話はなかったりして・・・。
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ご回答をありがとうございます。 ▲ ( Genesis 1:27 ) ~~~~~~~~~~~~~ So God created (1254 バーラー) man in his own image, in the image of God created (1254) he him; male and female created (1254) he them. 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 ▲ ( ibid. 2:7 ) ~~~~~~~~~~~~~~~ And the LORD God formed (3335 ヤーツァル) man of the dust of the ground, and breathed into his nostrils the breath of life; and man became a living soul. 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この違いについてですが 聖書記者の意図や思想がいかにあれ あとから捉えるぶんには 神学としての違いがあるとは考えます。 1:27では 神が三位一体として成っており そのかたちに似せて ひとの自然本性には 記憶と知解と意志の三つの行為能力の――時間的な差をともなった―― 一体性があるということ これを物語っている。かも知れない。 2:7では 生物としてのヒトのこの星における誕生について述べている。 というふうに一応 区別できるのではないかという見方です。
- NemurinekoNya
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アフラ・マズダーの一族⇔ヴェーダ神族のアスラ神族 アングラ・マンユの一族⇔ヴェーダ神族のデーウァ神族 という対応関係があるんですよ。 つまり、ゾラアスター教とバラモン・ヒンズー教では、神さまと悪魔が逆転している!! ヴェーダの最古層では、インドでもアスラ神族の方が、デーヴァ親族よりも上位の神であった。でも、お供え物などによって買収が可能な神であるデーヴァ親族とは異なり、 ヴァルナに代表されるアスラ神族は、バラモンの言うことを聞いてくれない、買収ができない。ということで、アスラ族の神さまの地位は次第次第に低下し、ゴータマさんの時代くらいには、バラモンたちによって悪魔の如き地位まで貶められてしまった。 ゾロアスター教の方はよく分からないけれど、デーヴァ神族はゾロアスター(教)に都合が悪かったから、悪魔に貶められたのかもしれない。 ユダヤ・キリスト教だって、カナンの主神である《バアル》を《ベルゼブブ》と呼び、最終的には魔王や悪霊の親玉にしてしまったしね~。 バアル http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A2%E3%83%AB 《バアル》はセム語で《主》の意味だとか。 ユダヤ・キリスト教などで《主》とか《主なる神》というのは、この《バアル》という名と関係があるのかもしれない。 もっとも、バビロニアなどの(都市)神と王様の関係から、こうした認識は来ているのかもしれないのだけれど。 バビロニアなどのメソポタミア地方では、(都市)神が《主》で、王様は「その僕(しもべ)」とされていた。 アッシリアでは、アッシュルという(都市)神が《王様》で、アッシリアの王様は《副王》とされていた。 こうしたバビロニアやアッシリアの思想は、ユダヤ教とその聖典「旧約聖書」は色濃く受けていると思われる・・・。 旧約聖書、特に《創世記》は、シュメルなどのバビロニアの神話の知識がなければ、読み解けないに違いない!! 最近、バアル復活の密儀と、キリストの復活とは関係があるのでは、と思っています。 イエス、「ワインは我が血、パンは我が肉」みたいな謎めいた言葉を残しているけれど、 これは、アナトが死んだバアルの肉を食べ、その血を飲んだという、カナンの神話と関係しているのかもしれない。 アナト http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%88
お礼
ご回答をありがとうございます。 (あ) 部族名と神の名とが対照的なように思います。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ アフラ・マズダーの一族⇔ヴェーダ神族のアスラ神族 アングラ・マンユの一族⇔ヴェーダ神族のデーウァ神族 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆☆(No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~ 部族・・・・・・・・・・・・・・・神の名など _______________________ Angiras ・・・・・・・・・・・Angra Mainyu (インドでリシ(聖仙))・・・(ペルシャで)悪の霊 Spitamas・・・・・・・・・・・Spenta Mainyu (同じく 部族名)・・・・・・・(同じく) 善の霊 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ただしわたしは くわしくありません。とにかく 十王戦争とか何とか 戦争の結果 ペルシャへ逃げた部族がいるのだとか。 ユダヤにとっての神は 神(エローヒーム)とヤハヱーとがあって どちらにしても いづれかの段階で唯一神をしっかりと戴くようになったらしい。 そのとき 唯一神というのは 別にほかの民族の持つ神(神々)がいてもかまわないというかたちでもあったらしい。 うんぬんです。
S.G.Talageri in his book Rigveda: A Historical Analysis says about the Rsis Angiras, Atharnanas, Bhrigus & Spitamas as "Hence, it is not the BhRgus or AtharvaNas as a whole who are the protagonist priests of the Avesta, it is only the Spitama branch of the Athravans. Hence, also, the name of the "good spirit", opposed to the "bad spirit" Angra Mainyu (a name clearly derived from the name of the ANgirases), is Spenta Mainyu (a name clearly derived from the name of the Spitamas)." http://en.wikipedia.org/wiki/Angra_Mainyu 一応、英語版のウィキペディアのページもどうぞ。 Angra ManyuとAngra_Mainyuで綴りが違うとか言われても知らん。
お礼
ご回答をありがとうございます。 言葉は 歴史的に変化するだけではなく 同時代においても違ったものが出て来るようなのですね。 特に人の名前などに現われるようです。 ここでも次のような事例が見られるでしょうか。善悪を入れ替えていることと 言葉が変化していることとです: 部族・・・・・・・・・・・・・・・神の名など _______________________ Angiras ・・・・・・・・・・・Angra Mainyu (インドでリシ(聖仙))・・・(ペルシャで)悪の霊 Spitamas・・・・・・・・・・・Spenta Mainyu (同じく 部族名)・・・・・・・(同じく) 善の霊 AtharvaNas・・・・・・・・・・Athravans (この種族のうちの Spitamas なる一部族が主役であるらしい) * 出典として インドは リグ・ヱーダ。ペルシャは アヱスタ。 * 主役として インドでは アンギラス族とスピタマス族とが争って 後者が敗れ ペルシャに逃がれた後 神々のうちの善神を スペンタ・マーニュとし 悪神を アン〔グ〕ラ・マーニュとした。ということでしょうか。だとしたら かなりルサンチマンにかかわっているかにも見えますね。 飼い犬や猫に きらいなヤツの名前をつけて いじめる場合とか。 ★ Angra ManyuとAngra_Mainyuで綴りが違うとか言われても・・・ ☆ Manyu と Mainyu とは 英語の mind / mental やあるいはマナ識の manas やと同根なのでしょうね。 - i - は 《イの折れ》だと思います。 ma (目) > ma-i = mä > me (目) ta (手) > ta-i = tä > te (手) k ö (木) > k ö-i = ki (木) ( k ö = コ(コ‐すえ=木末=梢) ( k ö = ク(ク‐だ(の)‐もの=木の物=果物) m ö (身) > m ö-i = mi (身) ( m ö = モ(モ‐ぬけ=身抜け=蛻) ( m ö = ム(ム‐くろ=身殻=骸) n ö-gare (逃がれ) > n ö-i-ge > ni-ge (逃げ) * 日本語にも オ・ウムラウト( ö )があったという想定です。ア・ウムラウト( ä )や イ・ウムラウト(あいまいな ゥ。 ö-i のことです。i にウムラウト記号がつけられなかったので省略しています)は はっきりありました。 苦情を言います。外国語の文章をポーンと放り出して 回答とするのは お・も・て・な・しの精神に欠けるのではないかと思います。どうでしょう。
なんだか宗教の話そのものに飽きてきました。 もっとほかのことに時間を使えていれば有意義な人生を過ごせたと思います。 興味を持った時点で失敗でした。 せっかくリグ・ヴェーダまで来たのだから昔見つけた話題だけ提供して もうやめようかな。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ What is Avesta? Avesta is the scripture of the Iranian people who knows much about Rigvedic era in India and hence can be concluded that this scripture is of the era of Rigveda. This scripture contains exactly opposite side of the scenario. The dasas and dasyus in Rigveda are lauded in Avesta, calling themselves proudly as Ahur( Asur), Dah ( Das), etc. Indra is called a demon whereas Angiras is called as Angra Manyu and a bad spirit. Analyzing this scripture can tell us about exactly who from India could have come to Afghanistan and later to Iran to compose the Avesta. The earliest part of Avesta, the Gathas and Yashts contain information related to India. Zaruthushtra is the main leader of the Avestan people and the opposer of Vedic people. http://historyindianized.blogspot.jp/2012/04/proving-out-of-india-theory-4.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Indra is called a demon whereas Angiras is called as Angra Manyu and a bad spirit. アンギラスはアンラ・マンユと呼ばれたらしい。 ウィキペディアだとキリスト教にも影響を与えたらしい。 で、アンギラスは仏教だと、ゴータマ・ブッダの尊称でもある。 それは今まで散々やった。過去七仏のところでアンギラスだった。 Aṅgīrasassa namatthu, sakyaputtassa sirīmato; Yo imaṃ dhammaṃ desesi, sabbadukkhāpanūdanaṃ. Dīgha Nikāya 32 Āṭānāṭiyasutta http://suttacentral.net/dn32/pi ~~~~~~~~~~~~~~~~ アンラ・マンユ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%A6 リグ・ヴェーダの英訳 http://www.sanskritweb.net/rigveda/index.html リグ・ヴェーダ http://www.utexas.edu/cola/centers/lrc/RV/
お礼
ご回答をありがとうございます。 インド・パンジャブ地方でしょうか そこで対立していた部族。あるいは部族連合どうしの対立。 破れて アフガンへ逃がれさらにペルシャに到った。そこで インドでの対立部族の持っていた神話(リグ・ヱーダ)の内容を 善神を悪神に 悪神を善神に代えるかたちに変更し 自分たちの神話――アヱスタ――をつくったと。 アンギラスは リグ・ヱーダでたたえられているが アヱスタでは悪神と成っている。 そこでは 善悪の二元論が かなり色濃く打ち出されたとか。 宗教の話は 信仰類型論の一発で結着がつきました。(自慢しています)。 普及するのに 十年・二十年とかかるでしょう。 この主観共同化の過程に参加するのは 有意義だと思います。
感想みたいなものですが 人々はなにも宗教をまとめて終わらせたかったのではなくて、 たんに自分たちの文化や伝統がそれなりに守れて 敵対する相手を批判できて 自由気ままに過ごせればそれでよかったのであって、 超人なんてのはどうでもよかったのかもね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 人びとは 宗教について おかしいと思った場合には おそらくもうどこまでもうたがいを棄てないでしょうね。 でも 批判の仕方を知らない。 超人を出して来るようでは ただ批判すべき相手たる宗教に圧倒されているだけであるように思われます。
プラトンとシャンカラは同じことを言っていたか? 差異を強調して、違うと言えばそれまで。 ざっと二人を要約して この世界は幻影であり、真の世界が存在し、 魂は輪廻し、苦しみに囚われている。 解放されるには真の知識を得ることだ。 それで、プラトンはキリスト教に影響を与えたし、 シャンカラは仏教をヒンドゥー教に吸収するきっかけを作った。 二人を論破しないことには いわば 梵我一如で決着してしまうでしょうね。 否定の否定は肯定か? という問題もさておき 生の冒涜者をどうやって論破するか。 それとも二人が言うことはもっともなのか。 この世界の背後にブラフマンがいて この世界はマーヤーであり アートマンはブラフマンであった。 やっぱり、ブラフマンしか存在しない。 ぜひぜひ、 そんなのは間違っている、ギリシャ哲学もインド哲学もゴミだ。 と言う人がいないかな。
お礼
ご回答をありがとうございます。 質問者からの反応は 次のようになります。 1. 神ないし 神とわれとの関係なる信仰は 人間にとって 個々の存在である《わたし》の内面におけるマボロシにかかわった現象です。 2. 対象は どこまで行っても ナゾです。そのような非対象を それでも ワタシは 受け容れます。ゆえに マボロシにかかわった心的現象です。非思考の庭と言っています。 3. 重ねて言えば 信じ受け容れる対象は ナゾでありマボロシです。しかも 信じるというのは ワタシの経験的な意志行為です。 4. ブラフマンは ナゾ・マボロシのことです。神です。これを わが心に受け容れると そこに《理性や感性を超えて 思考に非ざる〈非思考の庭〉が成る》と見ます。 5. その庭は 生きる存在にかかわるかぎり 動態であり 動態の内容は やはりナゾであるゆえに 霊とも呼び替えられます。あたかも量子のゆらぎがあるかのように。これは 《息・風》という意味の言葉・つまりアートマンと呼ぶようになった。《霊我》と訳されたりします。 6. このブラフマンとアートマンとの一体を想定するのが 信仰の――必ずしも内容ではないのですが――かたちであり その梵我一如は 信仰一般の類型になる。と考えます。 7. その結果得られるまとめは 次です。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如 無梵:空・シューナター・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如 仏:アミターバ / マハーワイローチャナ 仏:如来蔵・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) 8. このひとつの物差しで ご議論を整理していただければさいわいです。 ★ やっぱり、ブラフマンしか存在しない。 ☆ ということですので そのような交通整理において議論されているというふうにも受け取られるとは思うのですが。 9. ★ シャンカラ ☆ を知らないものですから。 10. ★ この世界は幻影であり、真の世界が存在し、/ 魂は輪廻し、苦しみに囚われている。 ☆ という認識は 上の信仰類型の前には あってもなくても 同じことだと考えますので さらにこれに絡めた議論があると 分かりやすくなると思います。 11. ★ 解放されるには真の知識を得ることだ。 ☆ についても 《真の知識を得ること》を 信仰類型はすでに超えています。何しろ《非思考の庭》ですから いっさいの人間の能力と努力とに成る知識や知恵から自由な境地を言っているはずです。 12. ★ ~~~~~~~~~ この世界の背後にブラフマンがいて この世界はマーヤーであり アートマンはブラフマンであった。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ この場合の《マーヤー》は (10)の《幻影》のことでしょうが やはりすでに信仰類型を前にして 雲散霧消していると想定してもよいと考えています。 (《実際の生きた信仰を前にして》ということですが いまここで哲学として考えることにおいては 信仰類型を前にしてという言い方をしています)。 13. 触れ残しました点についても もっとみなさんが共に問い求める主題として明らかになるよう説明されるとよいと思いました。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◇ わたしは、そもそも《原罪》なるものがイエスの十字架以前の人々にあったのかどうかを疑わしく思っています。 ☆ そのとおりだと考えます。と同時に ただし 《悪魔》といった観念は だいたいどの民族も持ったのではないでしょうか。 人間が世の中のことは自分の思うようにならず またそのときおのれの欲望(苦? 煩悩?)のチカラになかなか勝てないといった事態を捉えているものと思われます。 《無明》というような根本的な言わば敵を表象するのと同じように この悪魔と同じ観念の内容として 後世になってからでしょうが 原罪も 言われるようになった。とまでは捉えておくことが出来るのではないでしょうか。 ◇ ユダヤ教では《原罪》の存在を、確か、認めませんよね。 ☆ 《へび》を認めたなら ほぼ内容としては実質的に認めたことになるのではないかと考えますが。(モーセのときにも シナイの荒野で 人びとがヘビにやられる(殺される)ことがあり モーセは人びとが死なないようにと青銅の蛇を棹につけて揚げていました)。 ◇ 《原罪》思想はパウロ教学、パウロ神学なのかもしれない、などと思っております。 ☆ であったとしても その原罪思想は そのように提出したと同時に それが克服され切ったのだと報告している格好なのだと見ます。 創世記にヘビが言い出されているからには それの後始末をしておかねばならない。わけだと思います。 ◇ もっといやらしいことを言えば、アダムとエヴァの禁断の果実事件は、人間が死すべき存在で、そうなったことの神話的説明なのかもしれません。 ☆ わたしは 《自由意志》論だと見ます。おのれの意志であるのにその意志その心にさえさからって考え行動するという自由度 これを論じたのだと見ています。 このときの意志の曲折ないしヘソの曲げ つまりウソ これが生まれて それまでは宇宙の時空間がその領域一杯にひろがっていたイノチないし心が 区切りがついているのを知った。つまりはおのれの自由な時空間が おのれにとっては果てがある。つまりおっしゃるように《死すべき存在》の自覚もが この自由意志論から みちびかれる。こう考えます。 自由意志の悪用は カインの物語としての《殺人》論へつながり また アブラハムがその長子イサクをいけにえにするかしないかの決断をめぐってのやはり《ひとごろし(ひとをころしては なぜいけないか)》論をも視野におさめているものと考えます。 ◇ バナナ型神話 ☆ には 自由意志およびそれによるウソ・イツワリの理論がふくまれているとよいと考えます。 それゆえ ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~ アダムとエヴァの話が《バナナ型神話》の一形態であるとするならば、 人間にはそもそも《原罪》などは存在していない、 と考えるべきではありませんか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ には そのままでは与しがたいと考えています。ウソ(おのれ自身のあざむき)が 原罪です。 ◇ イエスの十字架を説明するために、パウロによって《原罪》なるものが持ち込まれたのかもしれない・・・。 ☆ たぶん違うと思います。次のように物語は旧約のときからつながって来ていると思われますから。 ▲ (ヨハネによる福音 3:14-16 ) ~~~~ そして、モーセが荒れ野で蛇を上げた(民数記21:6-9)ように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 ▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~~~ 〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めた。ので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。 民はモーセのもとに来て言った。 「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。 主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」 モーセは民のために主に祈った。 主はモーセに言われた。 「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた 者がそれを見上げれば、命を得る。」 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。 ~~~~~~~~~~~~~