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ヘーゲルを補完する
ヘーゲルと言えば、弁証法 正→反→合 ですが、正→正→正 であっても歴史は発展すると思います。同意していくことによる発展が考えられます。 これにについて、思うことがあればどうぞ。
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atomonados様、こんばんは。 ピラミッドを連想しました。
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- amenhotep2000
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atomonados さん おはようございます。 この質問に関して、哲学の、お勉強をしながら、思索していましたが、この回答に関して、atomonados さんの頭脳をお借りしたい。 urigadai2013 さんのように、ヘーゲルを極めているわけでなく、反論の回答が来るかもしれませんが、それもまた、一興。 ところで、弁証法は、良く「螺旋階段的思考」といわれます。「弁証法」ではなく「弁昇法」といえるかもしれません。一見、物事が上昇し発展しているように思われます。 さて、現在において、映画もプリンターも3Dの時代なので、3次元空間で思考すると、ヘーゲルの螺旋階段といものは、一見、マンション(日本的なもので、アメリカ的な大豪邸でない)の非常階段の円筒形の螺旋階段を思い浮かべます。 しかし、この哲学カテの数週間前に私が回答した、sobatya_cn さんの「金融について」を参考にしてもらいたいのですが、エンゲルスの「空想から科学へ」において言わせると、ブルジョワジーとプロレタリアートの対立は弁証法的、螺旋階段により上昇していくと、螺旋階段の幅がだんだん狭くなり、将来、衝突すると見解を述べています。 これに関して、中国の共産党員のsobatya_cn さんから、直々に見解をもらいたかったのですが、難しくてわからないと逃げられました。おそらく中国では言論の自由というよりも、文化大革命の失敗から、労働者が労働せず、マルクスやエンゲルスの議論に熱中する事態を重く受け止め、中国の学校では哲学を教えてないのかもしれません。 話は脱線しましたが、エンゲルス的螺旋階段を3Dで考えるに、東京タワーは古いので、東京スカイツリーにしますが、まさに三角錐。もしかしたら、衝突した頂点に「真理」があるのかもしれない。 一方、マルクスはヘーゲルの考えは倒置していると言いましたが、ヘーゲルの「世界精神」と言われる、三角錐を考えると東京スカイツリーが逆立ちしており、末広がりの三角錐で、「真理」は∞かもしれない。 さて、演繹法的考えに移りますが、No.1 の私の疑問にatomonados さんは、この議論において、2)の数学的公理を選択しました。 しかし、公理という「円(領域)」をどのくらいの大きさに取って証明するかが大事になると思います。 お手元にあるなら、フッサールのデビュー作「論理学研究」の冒頭の、純粋論理学序説の2節を読んでください。 歴史ではなく学問を哲学することの注意が書かれてます。全部書くのは大変ですから「中略」を入れて回答欄に、省略して書きますが、「中略」にも、大事なことが書かれているので、全文を読んでみてください。 「学問の諸目標の捉えかたは、その学問の定義のうちに表現されている。(中略)学問と共に、その諸対象の概念的特性の認識や、その領域の限定と位置づけの認識も学問の発展につれて進歩するものである。(中略)一つの学問を構成する程になった場合に、その学問領域の限定に不適切な点があるとすれば、それは領域(ゲピート)の概念が、その所与に関して始まりに余りに狭く解された結果、基礎付けを行なう諸関連の結合が考察された、その領域をはみ出して、更に広い領域の中で初めて一つの体系的に完結した統一へ集約されるという点のみである。(中略)理論的関心が、まず最初は狭い範囲で満足を見出し、それ以上に深く広い論理的分岐を必要とせずに、その狭い範囲で行われる研究こそ、実はまず最初に必要なものである、ということもありえよう。しかし領域を限定するに際しての、もう一つの別の不完全性は、すなわち、領域の混同、異質なものを混入して勝手に一つの領域的統一を想定することは、前述の誤りとは比較にならないほど一層危険である。」 書くのに疲れました(笑) しかし、演繹法を大きな公理の「円」のなかに小さな定理の「円」を描くと言うイメージをすると演繹法は2次元で、3次元の弁証法の方がすぐれているのでしょうか? 以上について、atomonadosさんの見解をお礼にてよろしくお願いたします。またこの回答がたたき台になって、しばらく、この議論は平和のうちに止まってますが、また論争が起きるかもしれませんが、宜しくお願いします。
お礼
amenhotep2000さん。こんにちは。 いま、数時間かけてあなたの回答を読んで印象を綴ってみたのですが、表現するには機が熟してないと思いました。自分の思索の中で大いに汗をかいてきたものを、収穫物としてよかったらどうぞと差しあげたい。 他者の思想の肯定否定の両論があるとすれば、自分は相対主義的に、論理主義的に、4つの場合があることを認め、現実に最適な立場を利用する。利用に適した解釈、それは論理的に整理されていること。だから他人の思想にあまり深入りしない。自分の認識レベルで解釈して、自分の思想の中の整合性を重視する。理解困難なものに時間をさかず、理解ができるものを自分のものとすることに力をいれる。
「正→反→合」に対峙する手法は、「正→正→正」以外にもいろいろあつて発展してゆくものに思へます。 正→反→対 正→符→合 正→月→休 自他の相互作用は相性もあります。「反」がふさはしいか、「正」がこのましいか、状況次第です。Q&Aの場合は、回答がたくさんついて、「反」「正」が両方ありますので、便利です。 「正」で相対する場合は、控へめなのが効果的に思へます。同意する際に、何か付加するとか、少し修正するとかするわけですが、教へてやるのだ、といふ姿勢でゐると、受け入れてもらへなくなります。自然に気づいてもらふ、そんな状態が理想です。
お礼
plapotaさん、こんばんは。 >「正→反→合」に対峙する手法は、「正→正→正」以外にもいろいろあつて発展してゆくものに思へます。 なるほど(笑)。他に自分が思いつくのは、 正→常→位 正→攻→法 正→念→場 ぐらいですか。 >自他の相互作用は相性もあります。「反」がふさはしいか、「正」がこのましいか、状況次第です。Q&Aの場合は、回答がたくさんついて、「反」「正」が両方ありますので、便利です。 そうですね。 >「正」で相対する場合は、控へめなのが効果的に思へます。同意する際に、何か付加するとか、少し修正するとかするわけですが、教へてやるのだ、といふ姿勢でゐると、受け入れてもらへなくなります。自然に気づいてもらふ、そんな状態が理想です。 なるほどですね。 ご回答ありがとうごさいました。
- urigadai2013
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弁証法・ダイアレティックは古代ギリシャで、弁論術とか、議論法とか、対話法と言われ、アテネの市民が公会・民会で政治的討論をするときの必須の技術で、アテネ市民は労働はみんな奴隷に任せ、市民は戦争をやるか、議会で議論をするか、それしかやることがありませんでした。 弁証法はソクラテスやゼノンが開発したとされ、ソクラテスは街頭に立って、往来する人々に「徳とは何か?」とか、「善とは何か?」と問い、いろいろな対立する意見を調停して、個物から種へ、種から類へと、概念の階段を上昇してゆき、最後に「善のイデア・理念」を導いたとされます。 最初は帰納法的に「イデア」を導きましたが、いったんそれが導き出せると、今度は逆に演繹的に「イデア」からの発出として世界を解釈してゆくこととなりました。 アリストテレスは「弁論術」という著作があり、その中で自分の三段論法の論理を必然性の論理といい、弁証法を蓋然性の論理といって区別しました。 蓋然性ということは、そうなるかもしれないが、そうならないかもしれない、ということです。 ギリシャで、ソフィストといわれる哲学者たちは弁証法を「詭弁術」として用い、弁証法に対する評判を貶めました。 弁証法は議論法ですから、今でいう「ディベート」、それを連想するとよく分かりますが、「ディベート」は議論によって相手を打ち負かせばよいのですから、必ずしもそれが真理である必要はないのです。 マルクスは「経済学哲学草稿」の中でヘーゲル弁証法を厳しく批判し、また「ヘーゲル法哲学批判」で、ヘーゲルを論難しています。 ヘーゲルは対立を止揚して、総合に至り、対立を克服すると言っているが、ぜんぜん対立を克服なんかしていないじゃないか、対立はそのままじゃないか、ヘーゲルのいう弁証法は誤魔化しだと言っています。 問題は弁証法の中心概念の「止揚・アウフヘーベン」という言葉にあります。 止揚とは、読んで字のごとく、「留める」と「克服する」の両方の意味があり、一面では、そのまま留める、一面では克服する、その両義的な意味があり、マルクスが言うように、何にも解決なんかしていないじゃないか、対立はそのままじゃないかというのも分かります。 そこから弁証法は「詭弁術」ということも言われました。 以上のことから、私はあまり弁証法の観点から物事を考えない方が良いと思っています。 歴史に弁証法を適用することは、歴史の実質的なものを見失う恐れがあります。 歴史はあくまで歴史的な事実から考えるべきもので、上から目線で、弁証法で考えるべきではないと思っています。 ドイツ歴史主義というのがあり、マルクスの「歴史は階級闘争の歴史」というのも、19世紀の資本家と労働者の対立の激しさ・闘争を、過去に延長したものに過ぎず、普遍性を持たないように、ヘーゲルの「歴史は自由の発展」というのも、フランス革命を背景にそういったものに過ぎず、普遍性を持たないと思っています。 エルンスト・トレルチは「歴史主義とその諸問題」の中で、それを「現在文化総合」といっていますが、現在あるものを過去に延長して、過去からずっとそのようなことがあったというのを称して言っています。 マルクスの「階級闘争史観」もヘーゲルの「歴史は自由の理念の発展」というのも、すべてはかれらの生きた時代の中に秘密があり、それを過去に適用したもの、だから過去の歴史がそうであったというのではなく、そういう歴史観を過去に「押し付けた」ものに過ぎない。 弁証法は「発見術」かもしれないけど「詭弁術」でもあります。 だからあまり、高く評価せず、ほどほどに考えた方がいい。
お礼
思想というものは、その成立が時代背景に大きく依存していて、記録に残らなかった秘密、たとえば人々の生の生活というものの影響に思いを馳せて考えるべきもの。そして弁証法は当時の世界をひとつの枠組みでとらえるためのもの。マルクスに言わせれば詭弁だと。現実に、(たぶん資本階級と労働階級の)止揚ということがなされているわけではない。議論のための道具でしかなかった、現実的には役たたずの理論だった。そういうことなのですか。 過去の詭弁論法はまあ議論の仕方の反面教師的な面もあったでしょうが、現在のディベートでは、相手を打ち負かすといってもルールがあり、感情論などは減点の対象となるでしょう。論理的で説得力のある表現が勝利をおさめるのです。肯定否定の立場を入れ替える場合もあります。詭弁によるディベートでは勝利はないでしょう。 弁論術がひとつの「発見術」であるというご見解に同意します。「詭弁術」は過去においてはおっしゃるとおりでしょう。現在もなお用いているとはいえ、それはもう過去において現実に役にたたない理論が生まれるということがわかっているなら、その無意味さぐらいは認識していていいのではないかと思います。 お時間とっていただきまして、ありがとうございまた。
- urigadai2013
- ベストアンサー率37% (92/244)
そういう教科書から知っただけの質問をするところからすると、実際はヘーゲルなんてほとんど読んだことが無いのが、よく分かります。 教科書を読むと、ヘーゲル弁証法は正・テーゼ、反・アンチテーゼ、合・ジンテーゼだと書いてありますが、それだけではヘーゲルを理解したことにはなりません。 私は18歳の時からずっとヘーゲルを読んできました。 ヘーゲルの著作はたいてい読んでいます。 参考書・解説書も10数冊読みました。 ヘーゲルは難しいですよ。 特に難しいのが「大論理学」、これにはてこずりました。 最後まで読めませんでした。 代わりに読んだのは、かつて「エンチクロペディー」といわれていた「小論理学」で、これは最近、長谷川宏の新訳が易しくて、松村一人の旧訳と対照しながら読みました。 一長一短、どちらが良いとも言えませんでした。 「精神現象学」は旧訳の金子武蔵、樫山欽四郎のものよりも、新訳の長谷川宏・訳のほうが易しくて、スラスラ読めましたが、ただし、意訳に近く、以前の方が良かったところもあります。 なんと言っても、同じ長谷川宏・訳の「法哲学講義」が素晴らしい。 前後6回の講義のうち、第5回の講義録をまとめたものだけど、ヘーゲルの壮大な知識がよく分かる。 ヘーゲルはアダム・スミスをよく知っていて、その研究から「法の哲学」を著したことがよく分かる。 マルクスの「資本論」はヘーゲルの「法の哲学」の経済版、応用編といっていい。 ヘーゲルの「法の哲学」がなくして、マルクスの「資本論」もなかった。 ヘーゲルの「歴史哲学講義」を読むと、歴史は自由の理念の発展だと言っているけど、これはマルクスの歴史は「階級闘争の歴史」といったのと同じ。 別に弁証法なんか、念頭に置かなくても良いし、だいいち歴史は弁証法によって発展して行くものでもない。 弁証法を念頭に置くと、却って歴史の実質的なものを失う可能性の方が大きい、弊害の方が大きい。 どうしても図式的になる。 したがって、質問のように歴史をあまり教科書的に考えない方が良い。 弁証法なんて知らない人が、そういう質問をするのだから。
お礼
ご回答ありがとうございます。 今後ともよろしくご教示ください。教科書的でない図式的でない歴史の捉え方など披露していただけていればよかったかと思います。自分はお察しの通り無学です。義務教育レベルが理解しやすいかと思います。
補足
「批判しないで、まず同意したらどうか」という問いかけにどう答えられますか?
- 雪中庵(@psytex)
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社会的な課題は、AでもBでも変わらない、 「正解」のないものが多い。 また、そうした「正誤」は、立場によって異なり、 分業化が未熟で独立した生存単位が複数ある場合、 「正」同士が相容れず、論法ではなく淘汰が妥当 なプロセスになる。
お礼
psytexさん、いつもご回答ありがとうございます。 進化論的相対主義といった観点でしょうか。
- amenhotep2000
- ベストアンサー率31% (72/227)
atomonados さん おはようございます。 簡単に解釈すれば、正→正→正は「演繹法」。 しかし、頭の切れるatomonados さんに質問しますが、「演繹法」を考える場合。 1)正が丸い、小さな数珠球ととらえ、演繹することにより、大きな「円」を描くのが真か? 2)数学的公理から出発し、あらかじめ、大きな「円」があって、その大きな「円」の中に小さな定理という「円」を描くのが真か? うーん。atomonados さんのご見解をお礼にていただければ幸いです。
お礼
おはようございます。amenhotep2000さん。 「ロンリのチカラ」ご紹介ありがとうございます。検索して第1回より見ています。 さて、ご回答の内容ですが、演繹法とは思っていませんでした。三段論法を連想させてしまったのかもしれませんね。演繹法というのは新たに定理を発見するにしても、その事象(定理内容)に適合する事実というのは、もともとあったわけで、いわば後付けですね。大きな「円」が歴史だとすると(歴史は繰り返すといいますから)、1)の立場は違和感あります。2)でしょうか。 自分は、相対論的論理主義的立場から、形式的に肯定否定の両論を立て、事実をどちらかに当てはまるだろうと考えるようにしています。 否定的弁証法(ゼノン)と肯定的弁証法(ヘーゲル)の違いはあれど、「戦いは万物の父(ヘラクレイトス)」でしたか、まず対立があります。平和主義的思想にはなじまず、戦争を正当化する根拠に使えたりします。 最近、私の神はどういうものかを考えていて「調和」というのがそれだろうと思っているところ、弁証法だけではバランス悪かろうと閃きました。片輪で動くから円を描いて前には進みません。批判哲学なるものも片輪です。同意哲学が欲しいところです。 種明かしが早すぎるかもしれませんが、・・・→正→正→正→・・・機械的コピーでなく人間の模倣の連鎖で、伝言ゲームのように、はじめとちがうものが現れる。そういう進み方があるかと思いました。同意はするのだけど完全な一致はなく、多様性が生まれるということですね。自分が思ったことは。 ご回答どうもありがとうございました。
お礼
kurinalさん ご回答ありがとうございます。 ピラミッドですか。思いもよらぬ連想ですね。
補足
思考を視覚化する幾何学的モデルが、無批判に受け入れられてしまってはいまいかと思われました。弁証法が螺旋階段モデルで捉えられているようなことについてです。人類の思想は螺旋階段を高く上り詰めてはいなくて、どの時代においても、新たの思想が基礎から積み重ねることを余儀なくされるのではと思いました。