ベストアンサー ヘーゲルについて 2002/05/06 00:09 「ヘーゲルは客観化された理性的意志としての人倫を、カントの道徳法則に対置した。」「人倫の3段階における自己発展の過程が世界史である。」 と書かれてあったのですが、意味がわかりません。よろしくお願いします。 みんなの回答 (1) 専門家の回答 質問者が選んだベストアンサー ベストアンサー jume ベストアンサー率46% (71/152) 2002/05/07 13:31 回答No.1 前者はわかりませんが、後者の「人倫の3段階における自己発展の過程が世界史である」って弁証法のことじゃないですかね。以下、gooの国語辞典から。 「矛盾を含む否定性に積極的意味を見いだすヘーゲルでは、有限なものが自己自身のうちに自己との対立・矛盾を生み出し、それを止揚することで高次なものへ発展する思考および存在を貫く運動の論理をさす。それは思考と存在との根源的な同一性であるイデーの自己展開ととらえられる。ヘーゲル弁証法。(『大辞林第二版』三省堂)」 まず第一段階として、Aという状態があって、次に第二段階としてそれに対立あるいは矛盾する事態Bが生じる。そして第三段階、矛盾する諸要素A及びBを統合するような、より高次のものCへ…という「思考および存在を貫く運動の論理」だそうです。そうやっていろんな物事が積み重ねられ、歴史(世界史)ができている、とヘーゲルは考えたんじゃないでしょうか。 質問者 お礼 2002/05/09 00:45 お返事どうもありがとうございました。詳しい解答でとても勉強になりました。どうもありがとうございました。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 カテゴリ 学問・教育人文・社会科学哲学・倫理・宗教学 関連するQ&A 倫理思想 1、カントの倫理思想(善意志、道徳法則、意志の自立としての自由など)について 2、功利主義の倫理思想について 3、ヘーゲルの人倫思想(「市民社会論」の意義と限界など)について みなさんの意見を教えて下さい。 一つでもかまいませんので。 カントの「実践理性」「判断力」という概念について カントの「実践理性」「判断力」という言葉の意味がよく分かりません。 純粋理性については、純粋に思弁的・論理的な認識を行う理性ということで意味は理解できます。 しかし、「実践理性」については、神や道徳法則や自由について語っているのに、なぜ「実践」理性なのだろうと思いました(どちらかといえば、「道徳理性」とかではないかと)。 信仰や道徳的行為は「実践」されるものであるから「実践理性」だといわれれば、確かにそうかもしれませんが……。 あと、「判断力」については、「美」という思弁でも実践でもない認識だから「判断」、ということでしょうか。 カント実践哲学、要請論を含む全体の妥当性(道徳法則って本当に実在するの?) カントの実践哲学の全体に関して、好みではあるのですが、今ひとつその論の中に納得の行かないところがあり、今のところカントの実践哲学全体への賛否を保留しています。 理性の事実としての道徳法則の実在から要請論へと展開していく中には問題がないように思えるのですが、肝心の道徳法則の実在を示すことはできていないように感じます。 『実践理性批判』第一編第一章第一節 定義の注の出だしに「我々が、純粋理性は実践的に…換言すれば、意志を規定するに、…十分な根拠を自らのうちに含みうることを認めるならば、実践的法則が存在する。しかしそうでない場合には、実践的諸原則は単なる格律でしかないだろう」とあり、純粋理性が実践的に十分な根拠を自らの内に含むことを示し、更にこの命題自体が正しいことを示すことができれば道徳法則が実在する、ということになるのでしょうが肝心のその点に関する言及が実践理性批判にはないようです。 この一点が否定されれば実践哲学としての体系全体が損なわれてしまう問題でもありますし、気を付けて読んでみたのですが、もしかしたら見落としてしまったかもしれません。まだ他の著作にはあたっていないので、もし、どこかでこの点に関する言及があることをご存じでしたらお教え下さい。 天文学のお話。日本ではどのように考えられていた? OKWAVE コラム フッサール現象学とヘーゲル現象学の違いについて 現象学という言葉をカントの同時代のランベルトが言い始めたことは中島義道がすでに言っていますが、その現象学というのをヘーゲルが用い、フッサールが用いたからといって、どちらの現象学も同じでないのは、蝦夷富士や伯耆富士があるからといって同じ富士山といえないのと同じ、またカント哲学とヘーゲル哲学といって、同じ哲学と称するから同じではないように、同じ現象学でないのは、いわば当然で、質問するまでもありません。 ヘーゲルにとって現象学とは、意識の経験の学、とみずから言っているように精神が自覚的に感覚できる個別的なものから、その対立を克服して概念の階段を上昇し、最後に絶対知に至り、その絶対知にすべてを包括し、世界を絶対精神の発出として理解するもの。 これは古代ギリシャのプラトンの「実在論・リアリズム」の近代の復刻版であり、プラトンは天に永遠の「イデア」があり、それこそが真の実在であり、地上の諸々の存在、個物は真の実在ではなく、仮象だと言いましたが、ヘーゲルにとって個物だとか個人は実在ではなく抽象的なものであり、真の実在であり、具体的なものといったら、全体的なもの、精神でした。 ヘーゲルは言います、 「理性的なものこそ現実的なものであり、現実的なものは理性的なものである」と。 つまり概念こそが真の実在であり、現実的なものであり、感覚されるものは仮象であり、抽象的なものであるということ。 こうしてヘーゲルは私たちのいう具体的なものと抽象的なものの関係をひっくり返しました。 ヘーゲルにとって個人よりも国家の方が実在で、個人はその国家のための、国家を導くための否定的媒介に過ぎない。 これがヘーゲルのいう現象学です。 それに対してフッサールは意識を自然的意識と現象学的意識に分け、現象学をやるためにはその自然的意識を棚上げにして現象学的意識に転換しなければならないという。 それが「現象学的還元」で、現象学は外的世界の存在に「カッコ」を施し、それが存在するという判断を停止します。 つまり、外的世界が存在するという私たちの信念を「宙づり」にします。 もしかしたら外的世界なんて存在しないかもしれない。 また、同じく「現象学的還元」で、私の存在についても「カッコ」を施します。 もしかしたら、私なんて存在しないかもしれない。 フッサールはデカルトと同じように普遍的懐疑で、世界の存在、そして私の存在に対する私たちの信念を停止します。 これをフッサールは「中和性変様」といっています。 何を中和するかといえば、私たちの世界が存在する、という信念、また私が私が存在するという信念、それをプラスの信念とすれば、それにマイナスの信念を対抗させて、中和することです。 マイナスの信念というのは世界が存在しない、私が存在しないという信念。 こうして、フッサールに言わせれば、純粋意識が最後に残るという。 これはデカルトの「コギト」です。 意識といっても、普通の意識ではなく、いわば作用だけの意識。 そしてフッサールに言わせれば意識の本質は「志向性」にあり、意識は何ものかの意識であると言われる。 現象学とは、この純粋意識の「志向性」によって、世界を再構成しようというもののこと。 ヘーゲルにとって意識とは自然的意識でしたが、フッサールにとって同じ意識という言葉でも、中身がまったく異なり、現象学的還元を経た現象学的な意識でした。 ヘーゲルにとって意識とは人間が有するものでしたが、フッサールにとって、人間以前にあるもの、むしろ人間はその意識によって構成されるものでした。 ヘーゲルにとって現象とはカントと同じ意味で、時間・空間の中にある物の現象であり、現われでしたが、フッサールにとって現象とは物に限らず、霊でも魂でも、神でもいい、単に私の意識に現われるものならば、時間空間の中にあっても無くてもいい、すべてを含みました。 ヘーゲルにとって精神を除くものが意識の対象である現象で、精神そのものは現象ではありませんでしたが、フッサールにとっては精神だろうと神だろうと、私の意識に与えられるもの、現われるものはすべて現象でした。 ヘーゲルは世界と私の存在を疑いませんでしたが、フッサールはデカルトと同じようにすべてを疑いました。 「コギト」という、世界がそこから開けてくる視点の存在しか認めませんでした。 ところが初期のフッサールは純粋意識による世界の構成ということを唱えていましたが、後期になると、その初期のデカルトの道を放棄するようになります。 例えばゲシュタルト心理学で、地と図ということが言われますが、大きな地図があったとして意識というのはその地図の小さな点でしかないのを知り、地図というもっと広大な世界があることを発見しました。 つまり意識は氷山のほんの一角に過ぎない、その下には意識されたない広大な世界があることに気が付いたのです。 それをフッサールは「生活世界」といいました。 私たちは意識的に世界を構成する前に、その広大な「生活世界」があり、それを受動的に受容し、その上で、自発的に考えたり、行動しているのに気が付いたのです。 この世界の存在に気が付いたこと、このことは古代ギリシャ以来、中世を経て忘れ去られていたコスモスとしての世界を2500年ぶりに再発見したことを意味します。 フッサールの現象学の最大の功績は、世界の存在、「生活世界」が私たちの人生の根底にあって、私たちがそれに生かされていることを発見したことにあります。 フッサールは「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の付録として付け加えられた「幾何学の起源」において、17世紀の科学革命のガリレオによって数学的自然科学が創始されて以来、世界は数学の「理念の衣」によって、おおわれてしまい、人生を、物事を数学によって考えるようになり、その人生の基盤にある「生活世界」が見えなくなってしまったと言います。 フッサールに言わせれば、ガリレオは発見の天才かもしれないが、同時に隠蔽の天才でもある、といいます。 こうしてフッサールの現象学は最終的に私たちの目から見えなくなってしまった「生活世界」を現象学によって再発見し、存在の、生の、生き生きとした活力を再び取り戻すことに目標が、テロスが据えられました。 フッサールはデカルトからカントを経て、ヘーゲルまでの近代哲学の自我中心・意識中心・主体性を中心とする世界観を転換し、戦後フランスのポスト・モダンとハイデガーの存在論にいたる道を切り開いた哲学者だということができます。 どうですか、同じ現象学でも、フッサールのいう現象学と、ヘーゲルのいう現象学が、月とすっぽんのように違うのが分かると思います。 皆さんの感想と忌憚のない批判を募ります。 カントの形式主義が分かりません カントの形式主義は、 広辞苑には 「(3)カントのように、認識や道徳法則の普遍妥当性を、理性のアプリオリな形式にのみ根拠づけようとする立場。シェーラーはこれを批判して実質的価値論理学を主張。」 とありましたが、読んでもさっぱり分かりません。 カントの形式主義を分かりやすく教えて頂けないでしょうか。 宜しくお願い致します。 定言命法 カントの倫理学で 「格率が普遍的法則となることを、汝が同時に意欲しうるようなそういう格率に従ってのみ行為せよ」 「汝の行為の格率が汝の意志によって普遍的自然法則となるべきであるかのように行為せよ。」 「汝の人格ならびに他のすべての人の人格における人間性を常に同時に目的として使用し、けっして手段としないように行為せよ。」 「おのおの理性的存在者の意志は普遍的に立法する意志である」 というように沢山命法が出てきて一番上を除いて、第一方式~第三まであるようなのですが、カントは一番はじめの 「格率が普遍的法則となることを、汝が同時に意欲しうるようなそういう格率に従ってのみ行為せよ」 を根本方式として3つ定言命法を残したというこのなのですか?? ちょっと良くわからなくて…(~_~;) すみませんが教えていただけたら嬉しく思います。 実践理性批判3 お世話になります。おかげさまで、カントを一冊読むことが出来ました、理解できたかどうかは、また別の話と言うことで(笑 印象としてはキツネに化かされたような感じでしょうか。内容に関しては何が分らないかも分らないような状態です。 そこで、個人的な関心事が、カントとアダム・スミスの関係です。 アダム.スミス 道徳感情論初版1759 国富論1776 道徳感情論6版1790 カント 純粋理性批判1781 実践理性批判1788 判断力批判1790 イギリスとドイツ、遠く離れていましたが、ほぼ同時代の人です、カントの中には経験論(一般的な道徳感情をふくむ)に対する確信的な批判がありますが、私の乏しい知識ではカントがスミスの利益を善とする考えに対して強烈な批判しているような気がします。 カントはスミスの存在を知っていたのでしょうか。 スミスが社会に受け入れられ、経済的発展を促進し、カントは哲学を結果として学問の精密性の中に閉じ込めてしまったような気がします。 もはや、歴史の問題かもしれませんが、学問や知識は人間の心が変えたのか、それとも、人間の心の変化を追認したのか、あるいは、人の心は変わっていないのか。 過去に利益を善としない時代が確かにあったような気がしますが。 とりとめのない質問になってしまいましたが、200年程前、人間の社会に大きな岐路が有ったのでしょうか、カントの理性の王国はどんな社会を作るのでしょうか。 カントの考える自由 カントは義務に基づいた行為(道徳性をもった行為)をしなければならないとした。 もし義務を果たせなかったとしても 「果たすべきだったのに果たせなかった」と良心の呵責を感じる。 そしてそのとき自分は義務に従うことができたという自由を自覚する。 人間としてどういう風に行為すべきかと神剣に道徳法則に直面して 初めて自由の存在を知る。 ・「義務に従うことができたという自由を自覚する。」 ・「道徳法則に直面して初めて自由の存在を知る。」 この「自由」の意味がよくわかりません。道徳法則という束縛(?)の中で 自由を知るとはどういうことなんでしょうか? 理性と現実 「理性的なものは現実的であり現実的なものは理性的である」 ヘーゲルの言葉らしいのですが文脈とか意味を教えてください。 理性批判とか、この世界は幻影とかいっているときに、 「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」 とかいわれると、驚きがあります。 観察することもできない、経験を超えてしまった、いわば理性の暴走や無駄遣いですら 現実なのでしょうか? カントの純粋理性批判のアンチノミーは今どう解釈? カントの入門本『カント 信じるための哲学―「わたし」から「世界」を考える』石川輝吉を読みました。 カントは純粋理性批判で世界や有限や無限に関するアンチノミー(二律背反)を提示していますが、これらは19世紀~20世紀の科学を通過した現在では議論は成立しないのではないでしょうか? ・無限は存在し、濃度の差がある 集合論 カントール ・時間と空間は相対的である 相対論 アインシュタイン ・物質はエネルギーである 相対論 アインシュタイン ・物質は粒子と波の性質を持つ 量子論 ハイゼンベルク ・物質の位置と運動量を同時にわかることはできない 量子論 ハイゼンベルク など の科学的な成果を哲学のほうではどう捉えているのでしょうか? 入門本ではカント以後の展開として、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、アーレントを 取り上げてて科学のほうは完全に無視されていました。 感性は 理性よりもえらい。 まづ 定義から入ります。 序 《理性》は 広くは《精神》全般を表わすこともあり 狭くは 或るコトから別のコトを論理的に導く(つまり推論する)能力を言うようです。 ひとの存在を 《身と心》に分けたとき その心のことを広義には 理性という言葉が表わす場合もあり 狭義には或るコトの意味の論理的な展開をおこなう能力を言うのだと見ます。 ひととおり定義をしておいて そのあと 表題について問います。 1. ひとの存在: 身と心 / 身体と精神 / 感性と理性 2. 自然本性: 身と心それぞれの性質と能力を言う。 3. 感性: 身の五感が知覚すること。 4. 悟性: 知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。 5. 理性: 悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。 6. 判断: 理性のおこなった推論とその結果について 或る基準によって取捨選択する。その判断基準は 一般に主観的な《よいかわるいか》である。おおむね善悪である。 7. 知解: 感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。 あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。 ここまでが 知解という作業である。 8. 意志: 判断能力とその行為を言う。選択肢の中から 一般によいものをえらぶのであるが 良し悪しの評価と判断は やはり主観的なものである。(学習過程を経つつ くせ・ならわしとして培うようになる)。 8-1. 自由意志は 周知のように 必ずしも善と思うものをえらぶとは限らない。おのれの心にさからって負の善(つまり悪)をえらぶことも 少なくない。 9. 記憶: ただしこれら知解および意志に或る種の仕方で先行する自然本性の能力として 記憶がある。おぼえるというよりは 存在にかんするすべての(つまり本性としてすべての性質および能力の)あり方の秩序作用である。自己組織化のハタラキである。 9-1. 記憶は 悟性が認識した知識としての情報を むろん整序してその倉庫におさめる。 9-2. たぶん 狭義の理性による論理的な情報整理とは違った《身と心の全体にとっての》整序作用を持つというように思われる。 9-3. 言いかえると 《わたし》が意識していないハタラキであり 直接に意図(意志)もしていないそれであろうと思われる。 9-4. 記憶は 取捨選択した判断とその内容を実際に行為したという意志行為の実績を整序しつつ記憶し その記憶の中にとうとぶべき意味内容のたくわえを持つ。これは 知恵だと考えられる。 10. 知性: これは 知解という行為能力を言う場合が一般である。ただし 知恵をもふくめて言うこともあるか。 11. 境地: 《記憶・知解および意志》の三つの行為能力の全体を言う。つまり 自然本性の――特には 精神にかかわる――全体のことで 特定の《わたし》の実際の存在形式である。その状態である。知恵と知識とそして判断力あるいは度胸などを含めたかたちである。 * さて 《感性は 理性よりえらい》について 次のように問います。 12. 狭義には理性は 良し悪しにかかわる判断を含まないから そのような倫理としての意志行為とは別である。 13. 広義には 意志やら知恵やらを含めた精神全般を指して言うのなら 理性は 善悪判断をおこなう倫理や道徳にかかわっている。 14. ただし この善悪の判断というのは 自然本性のあり方としてそれぞれの《わたし》の意志にもとづく主観的なものだと考えられるゆえ その主観としてはむしろ基本的には身体の感性において 良し悪しが――ひそかに・言葉に先行するようなかたちで――告げられていると思われる。 15. わが心にさからってウソをつくなら 顔をあからめることになる。さらにイツワリをはたらこうものなら 発言に際して言葉はしどろもどろになり 冷や汗が出る。 16. たぶんこのように感性は 理性に先行してハタラキを成し 理性よりえらいと思われる。 17. なぜなら ウソをつくにもイツワリをしでかそうとするにも ポーカーフェイスをよそおうのは バレるのを避けるという推論の結果であって そのように――むろん意志による判断とともにであるが――理性がチョンボをおこなっているのだと見られる。 18. ひとは 感情に流されるのではなく・ほんとうにはそうではなく そのような様相を呈しながら むしろ理性が意志を巻き込んでそれを欲し横暴をきわめるのだと考えられる。すべて理性のしわざだと見られる。意志をしのいでしまうようである。 19. この生身の存在にかんするかぎり社会力学上で 何が何でも 有力になるということ そうなれば勝ちなのだという理性のくだした安易な推論を 意志もつい負けて飲んでしまうようである。感性は そのウソに気づいているのではないか。 カントの「実践理性の要請」について カントのいう実践理性の優位とは、神とか死後生の事柄は理論的にはわからないし「物自体」は認識できないが、だからといってそれはどうでもよいというのではなく、人間の道徳の実践のためには必要であり、その限りに於いて認め得るということでしょうか? もしそうなら、道徳的行為以外の事柄についても、神とか死後生の事柄を必要とする場合があるのではないでしょうか? たとえば死に対する恐怖を克服すること、そのために神とか死後生の事柄を要請することだってあり得ると思いますが、 それは実践理性の要請とは言えませんか? また、死の恐怖の克服だけではなく、自分の人生の意味付けや世間的価値基準の相対化など、精神衛生上有意義なことがあると思いますが、そうした見地から神とか死後生の事柄を要請するのは実践理性の要請とは言えないのでしょうか? 日本史の転換点?:赤穂浪士、池田屋事件、禁門の変に見る武士の忠義と正義 OKWAVE コラム 「真か偽かより、必要か不要かが大事」の格言・名言 ・・・ってありますか? 要するに、客観的に「~である」か「~でない」か? とか、真か偽か? とかいうことより、自分にとってそれが必要な事かどうかが重要だという趣旨の言葉がありましたら、出典も含めて教えて下さい。 これは哲学的な言葉になりますが、カントが「神の存在」やら「霊魂不滅」やらを客観的に認識することは出来ない事とし、道徳目的の実践的要請として認めたように、ものごとを外から眺めてどうのこうの言うのは意味なしとし、それが実際的に有用かどうかで認識する態度を表すものです。 趣旨としてはぴったしカンカンではなくても近いものでもよいです。 カントの思想について、アインシュタイン以後、この宇宙の時間と空間は伸び カントの思想について、アインシュタイン以後、この宇宙の時間と空間は伸びたり縮んだりする絶対的なものではないものだという概念にとって代わり、 ア・プリオリな判断形式が成り立たないのが現実世界であるわけだから、「純粋理性批判」は現代ではナンセンスだ… ということが立花隆氏の近著に書かれていたのですが、哲学の学問の世界でもそういう認識はあるのでしょうか? また、「いかなる経験もいかなる感覚も混入されない認識」をもって純粋な認識といい、そのような認識を得させる理性を純粋理性という…というところからカントの「純粋理性批判」は始まっているそうですが、立花氏はそれについても、現代の認知科学によると、人間の認識というものは、すべてが経験・感覚入力の基盤の上に成立するものであって、もし、感覚入力をすべて取り去ったら、認識能力そのものが崩壊してしまうということをたくさんの感覚遮断実験が証明している…と述べ、さも高級な意識のような、純粋理性などというものは存在しない、と論じていました。 この文章には、さすが圧倒的な勉強量を誇る氏ならではの議論だな~と、単純にスゴイスゴイと思って、確かに氏の言うことは筋が通っているんじゃないか、と、私自身は大した素養もないまま思ってしまうのですが、実際学問の世界の人から見たらこういう議論は妥当性があるのでしょうか?哲学の研究者には嫌われそうな議論だよな~と、何かと批判されることもあった立花氏が心配になったりもするのですが。(私に心配されても余計なお世話だと思いますが。) 哲学の歴史ではカントの存在は圧倒的に大きい気がするので、私もいつか時間ができたらカントの本を読んでみようとは思っているのですが、現代ではナンセンスだ、と言われると、ちょっとさみしいような気がします。 現在の世の中について何か論じたいと思ったら、思考のベースとしてクラシックな哲学をひも解くより、現代の思想家の本を読んだほうが良いのでしょうか?どちらにしても、現在の思想のルーツを確認するために、過去の思想も知る必要はある気もするのですが… ヘーゲルについても、アマゾンのレビューでもっともらしく批判されている方がいたので、思想史の貴重な資料としてはともかく、近代あたりまでの哲学は現代の思想、社会分析には直接は役に立ちにくいのかな…という不安もあります。どうなんでしょうか? マルクスの唯物論について入門書を探しています ちょっときっかけがあって、むかしむかし学生時代の知識を総動員して、弁証法や唯物論をふまえた発想は意外に生活の役にも立つよ、と若い人に話をしたところ興味をもってくれて、なにかわかりやすい入門書を教えてほしいといわれました。 二昔前なら、直に古典にあたれとか、見田石介を読めとか、レキシコンの方法の巻をを読めとか言えばよかったのでしょうが、さすがにこの時期それは躊躇します。かといって、私のような世代のものが知っているわかりやすい入門書は政治色や労働運動色が強すぎて、これまたアレルギーをひきおこしそうです。 彼が関心をもっているのは、あるシステムの発展の原動力が、発展が進むに従って逆に発展をおしとどめるものになり、最後にはシステムそのものが破壊される、という考え方です。私が若い頃だと、社会発展の段階(原始共産制から資本主義、さらには社会主義に至る)が切り替わる本質的理由を説明するものとしてよく使われましたが、もっと一般的な法則として存在していたと思います。 新書版程度で、こうした考え方を含めたヘーゲルの弁証法やマルクスの唯物論についてアウトラインを説明しているものは、いまどきないでしょうか。ずばりでなくても、こんなものも参考になるのでは、というようなことでもけっこうです。ぜひよろしくお願いします。 なお、ヘーゲルやマルクスの理論そのものが正しいかどうか、あるいは「生活の役に立つ」かどうか自体が当然議論になりうると思いますが、それは今回はとりあえず脇におかせてください。 ニーチェとカントの出会い って? ニーチェとカントの出会い? ▼ (三島憲一:ハーバーマスとデリダのヨーロッパ) ~~~~~~~~ デリダの〔ハーバーマス七十五歳の誕生日に際しての〕お祝いの手紙が 《我々の誠実さ》というニーチェの引用で始まっていることを忘れてはならない。デリダとハーバーマスにおいて(ひょっとしてハーバーマスは多少ともいやいやながら) ニーチェとカントが出会っているのである。 理性の欺瞞を告発し 個性と差異を情熱と芸術の名によって擁護したニーチェと 人間を目的として扱うことを哲学的社会論・政治論へと翻訳し 世界市民権を説いたカント 理性と力の癒着の告発がともすると力の理不尽な肯定という迷誤に陥ったニーチェと 理性の哲学がときとして謹厳実直な特定のライフスタイルへの固定化を誘引しがちな道徳主義的カント 政治的にはこれまでまったく違った陣営に位置づけられていた両者が デリダとハーバーマスの《翻訳》を通じて二一世紀にもっと激しく出会うならば――そして すでに二〇世紀の最後の一〇年で確実に出会っているのだが―― それぞれの迷誤と誘引をもう知らない世代の希望が出てくるというものである。 そうすれば ヨーロッパ憲法の挫折はエピソードに終わり 国際秩序の立憲化という《ユートピアなき理想主義》への道がひょっとすると見えてくるかもしれない。 これがデリダとハーバーマスのヨーロッパ つまりエアバスと武器輸出のヨーロッパではない ヨーロッパの自己像である。 そして ひょっとすると 日本の思想の世界でも 《なんとか大学なんとか学会》の習慣も 〔* 日本の学者たちがそれぞれ自分たちの奉じる外国の学者や思想家をそれにたてまつったところの〕神様や偶像を引くだけの《神々の戦い》の時代も終わるかもしれない。ヱーバーがこの表現を使った経験は もう過去のものに属するのだから。 (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 終章 ハーバーマスとデリダのヨーロッパ p.227 ) ~~~~~~~~~~~~~~~ ハーバーマスおよびデリダについて知りません。どなたか解説してくださいませんか。 そのほか ご感想やご見解をも述べてください。 質問者の物言いは わづかに《世界市民権》が 市井の一市民にあるというだけではなくそのことが 社会制度としても――つまり 国家やあるいは国際連合などに必ずしも頼ることなく 地域のムラ(市町村)じたいの体制としても――成っているということ このことを必須の条件とすると考えられることである。 自由なご批判をどうぞ。 どうやったら偉くなれる? 意志が因果の必然に縛られているなら、道徳の命令は無意味であり、 行為の責任も問うことが出来なくなる。(非決定論) カントは因果の系列を、自分から始める自発性な現象の影響での能力を認め、 これを「先見的自由」と名づけた。 因果関係が支配する世界とは別な高次の実在(英知:感覚的に与えられていないものを 主観的に表象しうる能力)に自由を求めようとしている。 ※偉い人とはどんな人かと思案しております。 辞書で「偉い」を引くと (1)優れている、尊敬される立場にある (2)普通あるべき状態より程度が甚だしい、ひどい (3)思いがけない、とんでもない (4)苦しい、痛い、辛い 人気者だったり、幸運の持ち主であったり、 何か色んな意味で立派なものを持ってる人なのではなく、 苦境、逆境に強い人。 またそれを誰からも同情もされないのに平然としてる(ある意味尊敬される)人となりますか? 「自発的な自虐ネタの多い人が偉い人」と哲学的に定義して宜しいのか助言をお願いします。 虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか? まづ 推測がゆるされるとしたらのお話です。 ( あ ) 虚数は 現実とどうかかわっているのか? この問いから出た考え(推測)ですが その名のとおりに ( い ) 虚数とは 《想像をめぐらしたその観念の世界》である。 と言えるものであるのか? これが質問です。おしえてください。 * さらに推測を交えた世界に入りますが 趣旨説明を述べます。 まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。 たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。 ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか? たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況は相手からその答えを求められ決断をも迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。 つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( bi )とで構成される複素数( a+bi )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか? いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう? いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。 もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として・つまりやはり一でありつつ また多少そこから脱線しても元の一に戻りつつ 生きる。 ところが 現実は 複素数である。かも知れない。虚数の動きが 心に忍び込んで来るのかどうなのか 起きる。おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。代わりに ひょっとするとその想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭の中にあそぶかのような時空間をすごすということかも知れない。 もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか? 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )となる。 これでは 社会における交通(まじわり)が成らない。成し得ない。 という憶測としての発見をきょう得ました。 ご教示ください。 * おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか? 余計でした。つまり《さとり》についてのゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるのですよ。 ご教示を願います。 自由な選択が起こりえる・・・、という仮設、論拠は? 自由意志による、自由な選択が起こりえる・・・、という仮設、論拠は? wikiより抜粋 物理学:一般的に、「意志は脳の働き」であり、かつ、「脳が物理法則に従う」ならば自由意志はないと考えるのが適当である。 意思というのは、脳によって生じる。 脳が物理法則に従うのなら、自由意志はない。 というのは、推論、論拠、仮説と言えますよね? 「神は、我々に自由意思を与えたのだから、ある!」とか、「主観的に、あると思うんだからある。」というのは、科学的な論拠、仮説ではない。 また、決定論は「不確定性原理」によって、否定されたのだ!というのも、「不確定性原理」が働くのはミクロの世界であって、マクロで生きている我々には、ほぼ関係がないし、仮にあると言っても、「あなたの行動が意思ではなく、ランダム性が加わった。」というだけ。 道徳や法律的には、自由意志による自由な選択がなければ、問題が起きるのもわかるが、知りたいのは、なにか私の知らない、自由意志があり自由な選択ができるという論拠、仮説って出てますか? 一応書くが。 運命論や宿命論はオカルト。 決定論は、自然科学の中の哲学。 で、全く別物です。 ニーチェとカントの出会いって? ニーチェとカントの出会い? ▼ (三島憲一:ハーバーマスとデリダのヨーロッパ) ~~~~~ デリダの〔ハーバーマス七十五歳の誕生日に際しての〕お祝いの手紙が 《我々の誠実さ》というニーチェの引用で始まっていることを忘れてはならない。デリダとハーバーマスにおいて(ひょっとしてハーバーマスは多少ともいやいやながら) ニーチェとカントが出会っているのである。 理性の欺瞞を告発し 個性と差異を情熱と芸術の名によって擁護したニーチェと 人間を目的として扱うことを哲学的社会論・政治論へと翻訳し 世界市民権を説いたカント 理性と力の癒着の告発がともすると力の理不尽な肯定という迷誤に陥ったニーチェと 理性の哲学がときとして謹厳実直な特定のライフスタイルへの固定化を誘引しがちな道徳主義的カント 政治的にはこれまでまったく違った陣営に位置づけられていた両者が デリダとハーバーマスの《翻訳》を通じて二一世紀にもっと激しく出会うならば――そして すでに二〇世紀の最後の一〇年で確実に出会っているのだが―― それぞれの迷誤と誘引をもう知らない世代の希望が出てくるというものである。 そうすれば ヨーロッパ憲法の挫折はエピソードに終わり 国際秩序の立憲化という《ユートピアなき理想主義》への道がひょっとすると見えてくるかもしれない。 これがデリダとハーバーマスのヨーロッパ つまりエアバスと武器輸出のヨーロッパではない ヨーロッパの自己像である。 そして ひょっとすると 日本の思想の世界でも 《なんとか大学なんとか学会》の習慣も 〔* 日本の学者たちがそれぞれ自分たちの奉じる外国の学者や思想家をそれにたてまつったところの〕神様や偶像を引くだけの《神々の戦い》の時代も終わるかもしれない。ヱーバーがこの表現を使った経験は もう過去のものに属するのだから。 (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 終章 ハーバーマスとデリダのヨーロッパ p.227 ) ~~~~~~~~~~~~~~~ ハーバーマスおよびデリダについて知りません。どなたか解説してくださいませんか。 いい線を行っている内容であると思います。 わたしの言葉では 《あやまちうるスサノヲ人間語 と あやまち得ざる〔とみなされた〕アマテラス普遍語(科学語および人格語)とのえも言えない融合》ではないかと。 質問者に物言いがあるとしたらそれは わづかに《世界市民権》が 市井の一市民にあるというだけではなく そうではなくそのことが 社会制度としても――つまり 必ずしも国家に頼ることなくあるいは国際連合などといったメタ・アマテラス普遍語次元の機関に頼ることなく 地域のムラ(市町村)じたいの共同自治の体制としても――成っているということ このことを必須の条件とすると考えられることにあります。(インタムライズム)。 自由なご見解・ご批判をどうぞ。 注目のQ&A 「You」や「I」が入った曲といえば? Part2 結婚について考えていない大学生の彼氏について 関東の方に聞きたいです 大阪万博について 駅の清涼飲料水自販機 不倫の慰謝料の請求について 新型コロナウイルスがもたらした功績について教えて 旧姓を使う理由。 回復メディアの保存方法 好きな人を諦める方法 小諸市(長野県)在住でスキーやスノボをする方の用具 カテゴリ 学問・教育 人文・社会科学 考古学・人類学文学・古典歴史経済学・経営学心理学・社会学地理学美術音楽哲学・倫理・宗教学その他(人文・社会科学) カテゴリ一覧を見る OKWAVE コラム 突然のトラブル?プリンター・メール・LINE編 携帯料金を賢く見直す!格安SIMと端末選びのポイントは? 友達って必要?友情って何だろう 大震災時の現実とは?私たちができる備え 「結婚相談所は恥ずかしい」は時代遅れ!負け組の誤解と出会いの掴み方 あなたにピッタリな商品が見つかる! OKWAVE セレクト コスメ化粧品 化粧水・クレンジングなど 健康食品・サプリ コンブチャなど バス用品 入浴剤・アミノ酸シャンプーなど スマホアプリ マッチングアプリなど ヘアケア 白髪染めヘアカラーなど インターネット回線 プロバイダ、光回線など
お礼
お返事どうもありがとうございました。詳しい解答でとても勉強になりました。どうもありがとうございました。