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正と邪
ヘルムホルツによると、この世界のあらゆる動きは真っ直ぐなものと曲がったものの2つに分けられるという。 真っ直ぐなものとは外に向かって伸びるもの、発展性のあるもの、革新的なもの、正しいもののこと。 曲がったものとは同じ所をただぐるぐる回るだけのもの、発展性のないもの、保守的なもの、邪なるもののこと。 ヘーゲルも弁証法において同じようなことを述べています。 正と邪とはこのようなものと理解しておよそ間違いないのではないか。
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- kurinal
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人の道さま、こんばんは。 「真っ直ぐ」も、いつかは、曲がる。
- Nakay702
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「お礼コメント」をありがとうございました。 おかげで、hitonomichi35様がおっしゃりたいこと(少なくともその一部)は理解できたように思います。 >我々の脳内世界とて1つのベクトル空間であると見なすことは可能です。その脳内世界にて我々の心は絶えず動きまわるベクトルであると捉えるのです。 ⇒デリダやドゥルーズの「脱構築」の概念などにも似て、「ヘルムホルツの定理」からある意味(その基底部)を抽出し、解釈し、1つの考え方の原理への応用性能を模索した…、とそんな風に受け取れますね。 以上、お礼まで。
- Nakay702
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「補足コメント」をありがとうございました。 「ヘルムホルツの定理」は、ベクトル解析の問題でしょう? それは電磁気学などの物理や自然科学の世界での話であって、正邪の問題にはとても結びつかないと思いますが、いかがですか? 哲学的な解釈まで敷衍するとしても、せいぜい認識論まで拡大解釈できるのが限度だと思いますが、「世界の動きをベクトル場における動的現象であると考える」ことが、どういう根拠によって正邪問題へ展開するのかが私には皆目見当もつきません。そのことをにおわせるような文言が「定理」の中にあるのでしょうか。これがまず第一の疑問です。 もし仮に、「定理」の中に正邪問題の記述があったとしても、「真っ直ぐなものは正しいもので、曲がったものは邪なるもの」というような見方を提示(暗示すら)しているとはとても考えられません。これが第二の疑問です。 ヘルムホルツがそのような見方、つまり、「自然現象の解釈を正邪に関連づけるような見方」をしているのでないとしたら、残るは、失礼ながら、hitonomichi35様の拡大解釈ないし短絡と考えざるを得なくなってしまうのですが、いかがでしょうか。(そして、その正邪の区分のあり方については前便で申しあげたとおりです。)
- Mokuzo100nenn
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ヘルムホルツの時代には人類は自然界を正確に理解できていなかったな。 自然界のあらゆる動きは曲がったものしかない。 まっすぐな動きというのは数学上(=形而上)の概念だけであって、形而下の、この世界には存在しないよ。 この宇宙では、最短距離で到達するためには、光さえ曲がって行かなければならないということが分かってきたのはつい最近のことですから、ヘルムホルツが悪いわけでなくて、自然科学の進歩を無視する一部の現代人の問題ではあるな。
- Nakay702
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あの生理学者がそんなことを言ったとは、寡聞にして知りませんが、それはともかく、「真っ直ぐなものは正しいもので、曲がったものは邪なるもの」とはまたすごい決めつけですね。 (1)正邪、白黒はそう簡単に分けられません。この世の物事、すべからく多値的であり連続的でしょう。グラデーションでしょう。著名な俳人の句に、「白牡丹と言ふといへども紅ほのか」というのがあります。云い得て妙、と思いませんか? (2)そもそも正邪の区分なんてものは、「時間と空間の交点、すなわち、いつどこで」が定まらなければ決められませんよ。ニケーアの宗教会議でアタナシウス派が正統で、アリウス派が異端と決めつけられたのは史上有名ですが、それも「西暦325年の某月某日、ニケーアで」あったからそう決められたのであって、それ以外の時空点であったらまったく逆だったかも知れないわけですから。 (3)また、正邪の区分ほど相対的・恣意的なものは他にあまりない、とまで言えるかも知れません。同じ一個の人間の内面における区分でさえ常に揺らいでいるではあ~りませんか。古代ギリシャの哲人トラシュマコスはこう言ったそうです。「何が正義か、それは時の支配者が決める」、と。
補足
ヘルムホルツの定理 「任意のベクトル場は、発散ベクトル場と回転ベクトル場の2つに分解可能である。」 これを哲学的に解釈するとどーなるか。 世界の動きをベクトル場における動的現象であると考えるのである。 ヘルムホルツは世界の動きは発散現象と回転現象の絡み合いであると捉えたのである。
- hekiyu
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革新が正しいなんて、それこそ歴史を知らないのですか。 封建制、資本制、そして社会主義になり、最終的には 共産主義になる。 これが歴史の必然である、として見事恥書いたのは 誰でしたっけ? 社会主義が生んだのは、独裁と貧困と自国民の大虐殺 でした。 これが正だというつもりなのでしょうか。 保守がどうして邪なのですか。 保守とは人間の理性に対する懐疑です。 人間の理性など信用できません。 それは社会主義の崩壊で実証されたと思います。 理性などよりも、試行錯誤の結果である、伝統、習慣、 常識などのほうがはるかに信用できます。
お礼
>社会主義が生んだのは、独裁と貧困と自国民の大虐殺 でした。 これが正だというつもりなのでしょうか。 北朝鮮を社会主義国家って考えるところからそのよーな間違った認識が生まれます。 北朝鮮は社会主義国家ではなく、反社会主義国家である。 実際この地球上で真の社会主義国家を実現した国などただの1つも存在しません。 真の社会主義国家は永遠のユートピアなのであり、人類がそう簡単に実現できるものではありません。
- sparkle719
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真っ直ぐなものを正義と捕えるならば、邪は曲がったものということになりますね。 曲がったことが大嫌い、原田泰三です、というのを思い出しました。
- Key_A
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ヘーゲルとか弁証法とか持ち出さなくても、集合論のベン図を思い出せばいい。 ある一定の規則、価値観、法律、別に何でもいいが、その集合に含まれるかどうかに 過ぎない。ベン図なんて中学数学で出てくる。もっとシンプルに考えればいい。 まっすぐが発展性があって正しいとか、それは質問者の妄想であり、 正しい事と善い事の区別がつかない子供と同レベルの発想に過ぎない。
お礼
>「ヘルムホルツの定理」は、ベクトル解析の問題でしょう? それは電磁気学などの物理や自然科学の世界での話であって、正邪の問題にはとても結びつかないと思いますが、いかがですか? 「ヘルムホルツの定理」は、ベクトル解析の問題に違いはありません。 しかしベクトル解析が辿り着いた1つの答えが哲学と無縁の代物と考えるのは大きな誤りであると思います。「ヘルムホルツの定理」はこの世界の動きを解明する一つの手がかりを与えたのであり、宇宙に対する深い真理を示しものです。 我々の脳内世界とて1つのベクトル空間であると見なすことは可能です。 その脳内世界にて我々の心は絶えず動きまわるベクトルであると捉えるのです。 我々の心は複雑に動きまわるが、我々の心には絶えず2つの大きな力が加わっている。 1つは変化を起こそうとする力、もう1つは変化を拒否しそこに留まろうとする力である。 変化を起こそうとする力は外に向かって働く力であり直線的である。 変化を拒否しそこに留まろうとする力は変化を起こそうとする力に直交するものであり、ねじれており常に同じ所をぐるぐる回るだけである。 我々の心は変化を求めるときは直線的に動くが、変化を拒否するときは渦を巻いて一箇所にとどまるのである。