哲学の弁証法についておたずねします
哲学の弁証法についておたずねします。哲学に詳しい方、回答をお願いします。
ある考えAと、それに相反する考えBがあるとき、両者を統合して新たな考えCが生まれる、という発想が代表的な弁証法だと思います。
ところが、どう考えても、こうした考え方は意味のないものに思われます。というのは、最初の考えAが正しく成りたつものでなければ、そもそもこうした発想は成立しないはずです。
考えAが成りたつためには、Aが客観的に正しいとされなけれななりません。ところが、客観的な正しさをうんぬんする時、主体の判断と関わりなく、Aが成りたつものでなければなりません。でも、判断主体がいなければAの正しさを言うことはできないので、Aが客観的に正しいとされることはないはずです。経験的に判断できたとしても、その命題が恒久的な正しさを持つものであることを示せないはずです。
また、考えAが成りたつためには、Aが主観的に正しいとされるのであっても構わないはずですが、この場合、判断主体の判断の正しさを根拠づけるものが必要になります。そうしたものは存在しませんから、この考え方も成りたちません。
正しい認識の仕方は、現象学の方法やヴィトゲンシュタインの言語ゲームによって取り出されたように、共同存在という考え方を背景として考えるしかないと思います。この考え方だと、考えAが成りたつ根拠が存在します。
弁証法をキルケゴールの考えたように人間の実存という問題として考える時、主体と世界は彼の想定とは違って、常に他者との共同存在であるわけだから、断絶はあり得ません。よって、この意味でも弁証法は成りたたないと思います。
また、ヘーゲルの唱えるような抽象的な弁証法ももちろん成立しないと思います。抽象的な弁証法は、弁証法の枠組みの全体が客対物なので、どこまで行っても正しい命題として措定されることはあり得ないはずです。
弁証法の内部に立ち至ってその構造や内容を考えることに意味がないと思うのですがいかがでしょうか。
正しいとする判断はどのようにしてなされるのでしょうかか?---どこまでいっても判断は不可能です。なぜなら、判断は判断主体(縄田さん)がいてこそ可能だからです。自分は傍観しているのであって、判断しているのではありません。客観的正しさが存在するという言い方は背理なのです。