弁証法について
--最近、弁証法に関心を持って勉強しようとしているところです。若き頃は、自称マルキスト達から弁証法について聞かされ、煙に巻かれていました。ところが、最近、弁証法について考えるに、これはただの問題解決のための方法にすぎないのではないかと思うようになりました。
問題解決の方法としては古来より試行錯誤法があります。どちらも、有力な方法として意識的に使用されてゆくうちに、試行錯誤法なり弁証法なりの名がつけられたものと推測されます。
試行錯誤法の場合、考えをたくさん思いついて、それらを全部試せば、より有効かつ精度の高いものになるはずです。ところが、それには時間がかかります。それに、直感的に、また経験的にこのやり方はダメだとわかるものまで試してしまうことになります。
弁証法であれば、全部試さなくとも、最初の時点で有効な考えが大体絞り込めるのであまり時間をかけなくてもよいと言えます。ただし、思いこみや偏見が混入する余地があるように思います。
結局、どちらのやり方にもそれぞれにふさわしい局面があるのではないかと思います。弁証法で説明すると結果的にうまくいくような場面においてのみ、弁証法がうまく働くというふうに感じています。逆に結果的にうまくいかないような場面において使うと、粗雑で強引なものになったり、場合によっては詭弁に堕するのではないかと思います。この理解で正しいでしょうか。
もう一つ、問題解決が現実になされるためには、現実の日常生活のレベルや社会生活のレベルの問題でなければ解決はあり得ないと思います。よって、神とかかわることや、人間の持つ不変の理性(ヘーゲル的な意味での)といったものを問題解決の方法とで、つまり弁証法で扱うことに意味がないのではないかと思うのですがいかがでしょうか。
以上の2点についてご教授願えればありがたいです。また、それ以外の論点でおかしな点があればご指摘をお願いします。
それと、問題解決の方法でもっと有力なものがあるようなら、簡単に紹介して頂けるとありがたいです。
お礼
ありがとうございます!非常に参考になりました.参考URLや,ヘーゲルからマルクスへの流れがわかるような本を読んでみます.