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祈ってたよ?文法的な解釈を教えてください
- 僕は祈って来たんだよ、かと思いますが正しいですか?
- この場合の‘른’について文法的な解釈をお願いします。
- この訳ですが、【また、見つめているだけである僕を】が正しいでしょうか?
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こんにちは。毎度、お世話になっております。 1. 나 기도해 왔죠. >逐語訳は、僕は祈って来たんだよ、かと思いますが正しいですか? そうですね。直訳するとその訳になります。 2. 푸르른 나무처럼(青々とした 木のように) >この場合の、른について文法的な解釈をお願いします。 私も歌の歌詞で푸르른となっているのを見た事があり、調べてみました。これだけを見ると、まるで푸르르다(青い)のような形容詞があり、それが名詞나무(木)の前で連体形の푸르른になっているように思えますが、韓国語の標準語に푸르르다という形容詞は存在しません。「青い」の意味を表す形容詞では푸르다があり、連体形は푸른となります。つまり、푸르른は存在しない間違った形の連体形であり、푸른が正しい「青い」の連体形ということになります。なぜ、このような間違いが歌詞などで頻繁に使われているかという要因ですが、一番有力な理由は、푸르다が数少ない'러'不規則活用の述語だということが挙げられます。通常、'르'で終わる述語は、흐르다(流れる)→흘러、빠르다(早い)→빨라のように'르'不規則活用をするものです。が、'러'不規則活用の場合、푸르다→푸르러のように活用するのが特徴で、これに慣れていないと、푸르르다→푸르러のように勘違いしてしまい、あたかも푸르르다という形容詞が存在しているかのように錯覚してしまうのです。実際、푸르다(青い)、푸르르다(青々とする)のように二つの形容詞があると考えている韓国人も少なくないです。 3. 또 바라만 보고 있는 나를(また 見つめるだけで 見ている僕を) >この訳ですが、【また、見つめているだけである僕を】が正しいでしょうか? 바라보다(見つめる、眺める)は바라다(願う、望む)と보다(見る)が結合した動詞です。바라보고 있다に助詞만(~だけ)を結合させる時は、바라만 보고 있다、もしくは바라보고만 있다のどちらも使われます。違いは、바라다と보다のどちらの動詞をより強調させたいかということなのですが、바라보다の日本語の訳を「見つめる」と考えるのであれば、「見つめるだけで」の訳でも十分なような気がします。「見つめるだけで見ている」という訳は、出来るだけ韓国語の原文に訳を合わせたかったからではないでしょうか?
お礼
こんにちは。 → こんにちは。毎度、お世話になっております。 いえいえ、こちらこそお世話になっております。 そしてまたまた、名回答! 【푸르다(青い)、푸르르다(青々とする)のように二つの形容詞があると考えている韓国人も少なくないです】 って、え~!ホントですか~ すっかり理解しました。 ありがとうございます。