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自由の限界について

内心の自由については100%、です。 よろしくお願いいたします。

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回答No.7

 こんにちは。  ★ 内心の自由については100%、です。  ☆ このとおりです。  ほかに何もつけ加えることはないと知るべきです。

kurinal
質問者

お礼

B様、でも、有意義なご回答をたくさん頂けたと思っております。

その他の回答 (8)

回答No.9

>でも、「責任」は、お願い致しますよ?  そうお願いされても、果たすべき責任が思いつきません・・・  昨日食べた牛ヒレ肉のステーキは美味しかったですよ。  ステーキ屋さんや食肉業者への感謝以前に、この牛が命を贄して私の命をつないでいることに深く感謝しています。それ以上に、この牛にできることは思いつかず、食べてしまった責任をとることができません。

kurinal
質問者

お礼

「美味しかった」で、十分と思われます。

noname#194996
noname#194996
回答No.8

>内心の自由については100%、です。 これが真であるか偽なのか?というご質問なのでしょうか。 たしかにどんな犯罪の妄想も妄想に留まって具体化させなければ逮捕されるようなことは無いかもですね。 自分が想像できる範囲において、それは限度がない、限界はない、こういうことを考えるべきではないといった拘束を受けるいわれも必要もない。 その通りかもしれませんが、私は、やはり妄想にも限度はあるのではないか、と思っています。人間の空想力の限度です。 それは言葉に拘束されます。いまある事象に拘束されます(必ずそれからの連想ですから)。人間であるということにも拘束されます。そしてそれ自身内心に留まっていなければならないということで拘束されます。 あなたがそれを口にすればたちまち他人がよってたかって口封じに掛るということです。 そこまでが限界です。 ご参考になれば。

kurinal
質問者

お礼

komaas88様、ありがとうございます。 >「たしかにどんな犯罪の妄想も妄想に留まって具体化させなければ逮捕されるようなことは無いかもですね」 ・・・「かもですね」では、ありません。 無い。 >「自分が想像できる範囲において、それは限度がない、限界はない、こういうことを考えるべきではないといった拘束を受けるいわれも必要もない。 その通りかもしれませんが、私は、やはり妄想にも限度はあるのではないか、と思っています。人間の空想力の限度です。 それは言葉に拘束されます。いまある事象に拘束されます(必ずそれからの連想ですから)。人間であるということにも拘束されます。そしてそれ自身内心に留まっていなければならないということで拘束されます。 あなたがそれを口にすればたちまち他人がよってたかって口封じに掛るということです。 そこまでが限界です。 ご参考になれば。」 いや、あまり参考にならなかったようです。 妄想や空想を口にすれば、「妄想だ、空想だ」と批判されるのは、当たり前でしょう。 (と、今回のkomaas88さんのご回答を批判していますよ?私は。)

noname#210533
noname#210533
回答No.6

設問が短すぎて意味不明ですが、ま それは良しとして。 究極の自由は死、或いは崩壊して忘却の彼方に去る事です。 何故って、自由とは自分以外の存在に支配されない、ということ。 でも、自分、というものは肉体的にも精神的にも、全て自分以外の 他、で構築されているものだからです。 自分の考え、感覚と思っているものは全て知っていること、学んだことを 土台に生まれてきますし、新しいものを生み出すプロセスも、詳しく見て みるとモデルやモチーフを見て真似したり、異なる記憶を結び付けたり して生まれてきます。 その材料も方法も、元からあったものではなくて、外来のものが変化 しながら自分と言う器を通り抜ける過程での「相」に過ぎません。 支配から解き放たれることを究極に求めるならば自分を全否定せねば 有りえないことになる。 だから、疑似的に自由を感じるために、他者を支配することで全能感という 疑似自由を得ようと足掻き続ける・・・ 良し悪しを論じる訳ではなく、疑似であれ自由を渇望する者達の飽くなき 情熱や欲望が、世界を構築して来た。 その意味では、達成感こそが、刹那的ではあるけれど、瞬間的な自由、と 言えるかも知れません。 不自由から逃れようと足掻き続ける事、それこそが自由と言うものの 裏返しの実体なのかも知れません。 不自由は、自由。 自由は、不自由。 それらは、つまり、同じものの裏表です。 名前が違うだけのことです。 だから、最初から限界などないのでしょう。 ガラスの塊の中に入ったヒビの面が、 目には見えても厚みなど無いように。 そのヒビ面こそが、自由と言うものの実相でしょう。 私はそのように感じます。

kurinal
質問者

お礼

rasenkaidan様、ありがとうございます。 >「疑似的に自由を感じるために、他者を支配することで全能感という 疑似自由を得ようと足掻き続ける」 いや、どうですかね。 「全能」というのは必ずしも「自由」と同義ではない、と思います。

回答No.5

あなたが見ている「世界」は、心の中のもの (内心)です。 「内心は自由だ」と言えるほど、人は自分に ついて深く知ってはいない=何かに操られて 生かされている。 自己存在の本質に根差し=自己の必要とし ての世界の自覚化(愛)において生きる時、 内心であれ外界であれ、100%自由となる。 肉体に付属する感覚器官に依存して生じる 意識は、不完全な認識において自己存在の 補完としての環境を把握できず、自己チューな 意志において、自己矛盾として環境にぶつかる (物体)のです。

kurinal
質問者

お礼

psytex様、ご回答ありがとうございます。 舌足らずな質問だったかもしれません。 「行動(言論も含むと思いますが)に出ない限り、責任を負わない」ということ(意味)です。 >「自己存在の本質に根差し=自己の必要としての世界の自覚化(愛)において生きる時、 内心であれ外界であれ、100%自由となる」 それはそれで、了解致しました。

回答No.4

完全に自由です。無限です。

kurinal
質問者

お礼

ukiyotonbo様、ありがとうございます。 その言や、よし。 (でも、「責任」は、お願い致しますよ?)

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.3

”自由の限界について ”    ↑ 人は皆自由を持っています。 しかし、そういう人は社会に生活しています。 社会で生活してこなかった人間は二足歩行すら ままなりません。 人間と社会は密接不可分であり、人間は社会的 動物なのです。 このように、人間が社会で生活している以上 自由も他の人間の自由により制限されることに なります。 誰もが平等に自由を享受できるようにするためには 自由が制限されます。 ”内心の自由については100%、です。”     ↑ 自由の制限を上のように考えるなら、内心の自由は 他人の自由と衝突しませんので、無制限である はずです。 しかし、そうは考えなかった国家もありました。 旧ソ連の物理学者が言っていました。 何が我慢できないか、と言って、内心の自由まで 制限されるのが我慢できない。 社会主義というのは、内心の自由まで制限しようと するのです。

kurinal
質問者

お礼

hekiyu様、ご回答ありがとうございます。 >「内心の自由は他人の自由と衝突しませんので、無制限であるはずです。 しかし、そうは考えなかった国家もありました。 旧ソ連の物理学者が言っていました。 何が我慢できないか、と言って、内心の自由まで制限されるのが我慢できない。 社会主義というのは、内心の自由まで制限しようとするのです」 それは「社会主義」とはちょっと違うのではないか、とも思います。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.2

自由は、自制の上に成り立つものでしょう。荒唐無稽、てんでバラバラな暴虐無人、放逸を自由とは呼びません。 端正な、完全にコントロールの効いた状態を自由といい、法則を支配していることを言うのだと思います。 従って、限界のあること、制約のあることが寧ろ自由と呼びうるでしょう。あえてそれらを受けるからこそ、自由が発揮されるのだと考えます。

kurinal
質問者

お礼

a_hona様、ご回答ありがとうございます。 仰る通りと思います。 だからこそ、自由にならなかった事については、責任を負いかねる。 そういう理屈と思います。

回答No.1

私にとって自由の限界は、お金が無くなった時です。自由を謳歌するためには経済力が必要です。 そうじゃなければホームレスです。福本伸行氏の無頼伝涯という作品の第2巻に「自由とはなんでも出来るという意味ではない。自由とは自分に由る事だ」とのセリフがでてきます。無頼伝涯の第2巻は私のバイブルです。

kurinal
質問者

お礼

osakanoobachn様、ご回答ありがとうございます。 >「そうじゃなければホームレスです」 極端な印象です。 >「自由を謳歌するためには経済力が必要です」 >「私にとって自由の限界は、お金が無くなった時です」 「自由を謳歌」とは、お金が必要でしょうか

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