- ベストアンサー
自由とは何か?
自由とは何だと思いますか? いまのあなたは自由であると思いますか? いまの日本は自由であると思いますか?
- みんなの回答 (19)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
回答(お礼)、ありがとうございます。 誠実に答えてくださったので、私もできるだけ誠実にこの場を借りて、お礼のお礼をしたいと思います。tachaiさんのお礼やこの質問の流れを何度か読み返してみました。 言葉の捉え違いや定義などが共有できないと、話がかみあわないので、tachaiさんのおっしゃることをできるだけ理解して話しをしたいと思います。(相手のことを本当に理解するのは難しいことですが・・) tachaiさんの書かれている「国家」は国家権力のことだと解釈して話します。 明治維新後の日本国家のなりたちを振り返ると・・ご存じのとおり、明治維新は内部からの革命があったわけでなく、国外から容赦ない選択をせまられて、江戸時代の封建社会が終焉したという歴史がありました。 第2次世界大戦後は、アメリカGHQ主導で「民主主義国家」の建設が進められましたが、朝鮮戦争の始まりとともに、アメリカの日本に対する対策(最初は、軍国主義国家から民主主義国家への転換をはかろうとしたが、東西の緊張といった世界情勢の変化からレッドパージを主導)が変わりました。その後、日米安全保障条約が締結されましたが、当時、旧ソ連を仮想敵国とみなした軍事的・経済的同盟だったわけです。(世界情勢の変化とともに、存在意義は変化しているみたいですが) 戦後、日本の経済はGNP世界2位と急成長しましたが、日米の貿易不均衡を受けて、80年代半ばにプラザ合意が締結されました。日本にとっては、利益を損じる合意でした。 歴史をみても主体性がないですね。外部の都合のいいようにされて、風見鶏のように風が吹く方向にあっち向いたり、こっち向いたり・・おっしゃるとおり、現在の日本は、意思がないと思います。 ただ、国家の意思という場合、気をつけなくてはならないのが、人民(国民)の意思が反映されているかということです。その意思が反映されていなければ、第二次世界大戦中の日本やナチスのように、ひとりひとりの人民は、国家権力を守るための道具にされるからです。 10年ちょっと前に、ベトナム(ホーチミン)を旅したことがあります。 小国のベトナムが大国のアメリカに勝利して、南北統一できたのはどうしてなのか・・という疑問があったのですが、「戦争証跡博物館」「ホーチミン博物館」の写真や記事、刻まれている文字を読んでわかりました。 ベトナムは、(フランス、日本、古くは中国などから)侵略に晒されながら闘ってきた二千年の歴史があるんです。ベトナム人民の遺伝子に刷り込まれるくらい、侵略の屈辱感や独立への希求は強かったのではないかと感じました。 「独立と自由ほど尊いものはない」 「北と南がひとつになれば、ベトナムは真に豊かな国になるだろう」 刻まれていたホーチミンの言葉です。 ベトナム戦争は、ベトナム人民の視点からすると、社会主義国家を建設することを第一義に目的とした戦いではなく、民族の自決(独立と自由)と南北統一を求めた、誇りをかけた戦いだったから勝利できたのではいかと、私は考えます。 日本の歴史にも、抑圧に対する民衆の部分的なレジスタンス(抵抗運動)がありましたが、国家権力が変わるほどの大きなものはなく、「民主主義」は外部によって与えられ、主体性が弱いこと。 江戸時代にあった「五人組制度」や村八分、これは日本独特な陰湿な人間関係にも影響しているように感じます。出る杭は打たれる、足の引っ張り合い、いじめなど。 日本人が自分の意思を持ちにくいのは、こういったことも関係しているかと思います。 日本は、主権在民が憲法で保障され、議会制民主主義のある「民主主義国家」ですが、その「民」は未成熟なんでしょうね。 とりとめなく長々と書いてしまいました。 水掛け論的な話題は好きじゃないので、tachaiさんの考えを読むことで考察できました。最近、私も思考停止状態のことが多かったので(苦笑) ありがとうございました。
その他の回答 (18)
- eld3399
- ベストアンサー率4% (16/345)
人間がつくった法律等に、縛り続けられいる私たちには、「真の自由」は無いと考えます。
No.15です。 ちょっとまぎわらしい表現でしたね。 「自由」の名ののもとで=アメリカンリベラル(自由主義) ここでの「自由」はLibertyのことです。 小国の自決権を無視した国益や価値観の押しつけです。 ところで、tachaiさんは、「Freedom」を、どのように捉えているのですか? 「自由」でもいいですが・・。 私も、あなたの視点を知りたいです。 逆質問ですが、差支えなければお聞かせください。
お礼
>「自由」の名ののもとで=アメリカンリベラル(自由主義) どうもありがとうございます。勉強になります。 私が考える自由は、 その人の信念に従って行動し、生きること ですね。 自由主義に近いですね。 私の信念が間違っていれば、私は間違った行動をするでしょうが、そんなことは関係なく、信念に従って行動できれば私は自由です。 現在、私は、周囲の習慣や人の目を気にして、自分の信念を貫けないことが多々あるので、自由ではありません。 日本の自由とは、日本という国家が自由であるかどうかです。 国家の意思を貫き通せているかどうかが、日本が自由であるかどうかです。 戦後の日本は、そもそも国家が主体となって物事を考えることや、意思決定がなされるということが殆どありません。国家の意思がありません。 だから、我が国には、我が国が自由であるかどうかを議論する資格すらありません。 国家の意思がなければ、国家の自由は存在しません。 私の考えでは、日本には、世界と共有できるような「思想・価値観」すらないのです(共有が行き過ぎた結果が押し付けです) その証拠に、日本は、外国に振り回されっ放しですね。 なぜなら、国家の意思が存在しないからです。 まぁ、あなたの意見では、国家の意思は価値観の押しつけなのでしょう。 ですがそれが悪いことであるかどうかは別です。 国家の意思がなくなれば、個人、或いは集団(党、軍隊、宗教、テロ集団)の意思によって、それらの価値観を押しつけられるだけです。 国家の意思がなくなれば、政治家も国民もどうして良いか分からなくなってしまうのです。 国家が自由であろうとする限り、個人の自由度は下がります。 全個人が自由であろうとする限り、国家は成り立ちません。 結局はバランスです。 国家の意思とは、国民の意思であるべきです。 国民の意思とは、私たち一人一人の考える「日本はこうあるべきだ」という意思から成るものです。 私たち日本人は、「日本はこうあるべきだ」と議論することは殆どありません。 大多数の人が「堅いこと言うな」と思考停止しますね。 要はバランスが悪すぎるのです。 思考停止する人が多すぎるのです。 この思考停止が圧倒的マジョリティである限り、国家の意思は形成されません。 意思のない者は、自由である資格すらないことと同じように、国家の意思を持たない国は、自由である資格すらありません。
すみません。 補足させてください。 >「しがらみがない」というのは、欧州の「自由」の定義に近いと思います。 以前欧州に住んでいましたが、今は北米なのです。 欧州のカトリック圏やスラヴ圏、特にムスリム圏が保守的なのに比べ、 移民国というのは、欧州国のように長い歴史がなく、その名の通り移民で 構成された国なので、”慣習””風習”という観念そのものが薄いのです。 感謝祭やクリスマスもしなくても構わないし、実際クリスマスは 最近は Merry Christmas!とはあまり言わなくなっている傾向にあります。(公の 場ではHappy Holiday!が多いです) 自分が何かの”標準”とあわせようと無理することなく暮らせるんですね。 冠婚葬祭なんて、もうほんと自由(当事者の意思に周りが合わせるだけ) です。 特にカナダが”居住条件抜きで同性結婚を認めるおそらく唯一の 国である”ことは「自由な結婚」として注目すべき点でしょう。 告別式にも一度参列しましたが、お祝儀といった風習がないばかりか、 服装も派手でなければいい、要するに”うるさくない”感じで、式の後は 笑いながら雑談です。 合理的な考えができるのは「自由な風土精神」に基づくと感じました。 我々家族はこちらに親戚もいないので、そういった意味でも欧州時代の ように親戚で集まるような宗教行事が減り、私には”楽ちん”なんです。(笑)
お礼
良いですね。自由で・・・ そんな国に住みたいなー
「自由」の捉え方は、いろいろな視点があるでしょうが・・ 英語では「Liberty」「Freedom」といった単語がありますね。 乱暴な括りかもしれませんが、「Liberty」は、「拘束のない自由」 「Freedom」は、どう表現すればいいかなぁ。 「他者の尊厳も認めた自由」といったところでしょうか。 私は、「思想・信条の自由」「表現の自由」は、他者の尊厳を否定したりするのでなければ、保障されるべきものだと思います。ただ、経済は、野放しにすれば、不幸を招くのではないでしょうか。 例えば・・規制緩和によって、非正規雇用労働者が増えワーキングプアが社会問題になったり、最近あったツアーバスの事故も安上がりの労働力を求めた結果ではないかと。 Libertyな社会であって、Freedomな社会とはいえないと思います。 歴史を振り返ると、 ‘80年代にあった旧ソ連のアフガン侵攻、アメリカのニカラグアへの介入といった史実は、 傲慢な大国主義が引き起こしたもの。被害を被ったのは、当事者である小国。 大義名分であろうと、「自由」の名のもとであろうと、許される行為ではないでしょう。 改めて、「Freedom」とは何か?ですね。 最後に、フランスの詩人エリュアールの「自由」を紹介しておきます。 若い頃、好きだった詩です(今も、いいと思いますが・・) http://www.geocities.jp/oshimahakkou/eluard/jiyuu.html
お礼
良い詩ですね。 清々しい空気のような詩であると思います。 自由とはなんでしょうかね。 明確な定義はできないのでしょうかね。 freedom が実現して欲しいものですね。 ですが、私は「他者への尊厳」と「自由」は本来分けて考えられるべきだと思いますね。 >傲慢な大国主義が引き起こしたもの。被害を被ったのは、当事者である小国。 これは「自由」という大義名分を悪用している例に過ぎないですよね。 これは「自由」というよりも「身勝手」に近いですね。 「自由」という大義名分が必要になることもありますよね。独裁者からの開放、自主独立のために。 てゆーか自由の定義がますます分からなくなってきましたね。。。
- kyo-mogu
- ベストアンサー率22% (3398/15358)
自由とは、制限が無い状態。故に自ら制限を作り制御しないと、気がつけば制御出来ない状態になる。 自由を与えるのなら制限を認めるか、自分で制御出来る人に与えるべきだろう。
お礼
>自由とは、制限が無い状態。 わかりました。 本来、人間は自由である。だから、制限を認める。 本来、人間は神の羊であり、神に背く行為は許されない。耐えがたい制限がある。だから、人間は自由を求める。 あなたの「自由」は前者ですね。
心身を大きく成長させる事が自由を意味すると想います。
お礼
回答ありがとうございます。 「自由を意味する」とはなぜでしょうか?
自由とは感情を誰かによって縛られない事だと想います。 自由とは人生を誰にも邪魔されずに好きなように生きる事です。
- KoalaGold
- ベストアンサー率20% (2539/12475)
No1です。 選択の自由は、宿題をやるかお風呂に入りなさい、とゲームをしている子どもに迫る事でもあります。子どもが自分で「お風呂」を取ったら、「風呂に入れ」と一方的にゲームを取り上げられるよりも自分で選択したからしょうがないや、ちぇっと言う気分で結局納得するのです。 自分にとって不満な条件だけを並べられた場合、その中でも最低選ぶ事はできるのが自由かな、と。 不細工10人並べられて、一人と結婚しなければならない状況で、それはそれで別の良さを見つける事もある訳です。 もしかして自由のレベルが「お金持ちで健康で美しくて何不自由ない生活」とまで上がっているのかも知れません。何不自由ない生活イコール天国ですよね。
お礼
では、「死ぬ」、「奴隷になる」のどちらかの選択しかあなたにないとしたら? >不細工10人並べられて、一人と結婚しなければならない状況 確かに、この状況なら、10人から選べるので、「選択の余地」はありますね。 ですが、あなたの論法ですと、「選択の余地があるのだから、その中から選べるだけでも良いじゃないか。」、というある種の、諦め、を含んだ結論に達するように思います。 それって「自由」なんですか?? この「自由」の定義はおかしくないっすか?? 私から言わせれば、あなたの「自由」は「選択の余地があること」に過ぎません。 私にはどうしても納得できません。 他の方の回答と照らし合わせても、あなたの「自由」の定義は、他の方の「自由」とは真反対の意味を指 していますね。 この認識の違いはなぜ生まれるのか?客観的に観ても興味深いですね。 たぶん、あなたは、普段の生活で、「選択肢があることが自由だよね~」と言っても、誰も何の疑問も持たないでしょう。 それはなぜか? 日本人は、これまで「自由」を勝ち取った経験(歴史)がないからだと思うんですよね。 だから、日本人の「自由」の定義がこんなにもメチャクチャなんだと思うんです。 だから、私の考えでは日本は自由ではないんです。 だって、日本人には「自由」という明確な「定義」すらないんだもの。 日本には、与えられた「自由みたいなもの」しかないとは思いませんか?
主観的な自由とは、”しがらみがない”ということでしょうか。 そういう意味では日本はどんなときにも束縛があると感じます。 それは〇〇の風習(慣習)に従わなければいけない、とか 義理(のつきあい)が主に含まれます。 女性のマナー(および タブー)についても細かくあると感じます。 今住む社会では”~のとき、~は ~するべきだ”のような一律の 慣習がなく、たいていどんな時も Make yourself comfortable ”(自分のいいように)楽にしてよ”と言ってもらえるので、すごく 楽です。 自由と感じます。
お礼
そうですね。「主観的な自由」と「客観的な自由」で言葉の定義を分けるのは良い考えですね。 「自由」と「自分勝手」を区別できない人も多いですしね。 heartoheart さんが挙げて下さった例は非常に良いと思いますね。 「しがらみがない」というのは、欧州の「自由」の定義に近いと思います。 けれども、私たちの身近に近い事例を挙げて下さっています。 ありがとうございました。
自由というのは、自分の言動・行動に責任を持つことだと思います。 私は自由にさせてもらっています。 今の日本については、舵取りの方向を模索中のように感じます。
お礼
>自由というのは、自分の言動・行動に責任を持つことだと思います。 なるほど。そういう見方もありますね。 わたしの考えでは、これは自立ですね。 別にあなたに反論する訳ではないですが、わたしは、こういった、一見混同され易い言葉の「定義」をはっきりと区別するべきだと思いますね。 >今の日本については、舵取りの方向を模索中のように感じます。 私は、日本の本来あるべき方向が開かれていないから、方向の模索中状態が終わらないように感じています。だから日本は自由ではないと思います。
- 1
- 2
お礼
なんだか申し訳ないですね。 時間を割いて、こんなに参考になることを書いて頂いてありがとうございます。 >tachaiさんの書かれている「国家」は国家権力のことだと解釈して話します。 そうですね。まぁ国家権力と見なせるかもしれませんね。 でも、権力を持たぬ国家など世界中にありません。もしあったとしても、その国家は国家と呼べないでしょう。 dr24 さんは、「国家権力」という言葉に敏感なようですね。 つまり、国家権力の暴走を危惧されているのだと思います。 >ただ、国家の意思という場合、気をつけなくてはならないのが、人民(国民)の意思が反映されているかということです。その意思が反映されていなければ、第二次世界大戦中の日本やナチスのように、ひとりひとりの人民は、国家権力を守るための道具にされるからです。 あなたのような聡明な人が、国家権力の暴走を危惧することが不思議でなりません。 どう客観的に見ても、いまの日本はまったく逆の危機に瀕していますよね。 ベトナムに行った経験があるならば、そう感じませんか。 >ベトナムは、(フランス、日本、古くは中国などから)侵略に晒されながら闘ってきた二千年の歴史があるんです。 日本は島国であることから、これまで他国に犯された経験が一度もありませんね。(沖縄を除いて) だから、 >侵略の屈辱感や独立への希求 がないのでしょうね。 これはその通りだと思います。 >第二次世界大戦中の日本やナチスのように 「国家」という言葉が出ただけで反射的に、あなたのような人は、第二次世界大戦中の日本の話を持ち出しますね。 私も(おそらく)あなたも、あの時代を生きた人間ではありませんね。 日本やナチスだけに焦点を当て過ぎずに、公平に、広い視野を持って、当時を見るべきではないでしょうか。 少なくとも言えることは、 >第二次世界大戦中の日本やナチスのように という考えが行き過ぎた結果が今の日本です。行き過ぎた結果、「日本人が自分の意思を持ってはいけない」となっているのではありませんか。だから日本人は主体性がない、とも考えられますよね。 >主権在民が憲法で保障され 自分の国を自分で守れない憲法で、主権があるとは言い張っても、事実上、それでは主権を保てないことは火を見るより明らかでしょう。 自分の国を自分で守れないことが国民の意思であるとでも言うのですか。 我々は、他国に犯されても文句を言いません。これが国民の意思であるとでも言うのですか。 >ただ、国家の意思という場合、気をつけなくてはならないのが、人民(国民)の意思が反映されているかということです。 今の憲法に、国民の意思は反映されていますか。 とまぁ、長々と付き合って下さって感謝しています。 終わりが見えそうにないので、そろそろ締めます。 結論を出すことは難しいですね。どんな議論をしても、結局は水掛け論になる気がします。 それでは