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自由について
質問がいささか曖昧になりますが、ご容赦ください。 質問の概要: 「自由とは何か」という問いについて、ある程度まとまった見取り図を持ちたいと考えています。「私は比較的まとまった観点から整理できるつもり」と考えている方、あるいは良い本を紹介していただける方はご紹介していただければ幸いです。 もう少し詳しく: そして、「自由」の概念はいままでいろいろな話が語られてきたわけですが、切り取り方が人によってかなり違うので、「自由とは何か」という問いに答えようと思うと、非常に困難です。 個人にとっての経済的な自由/身体の自由/<精神>の自由/選択肢の多元性とかの問題、あるいは自由意志の問題とか。「自由な社会の設計」の問題としてのリベラリズム/リバタリアニズムの話とか、権力論とか、消極自由/積極自由とか。意志論の枠組みで捉えるとどうなるかとか、認識論の枠組みで捉えるとどうなるか、とか。ヘーゲルの自由とカントの自由はまた違うし、、、とか。………議論の単位にせよ、その切り取り方もあまりにも多様であると感じています。 まあ、ゆっくりと色々と勉強していけば、少しずつ見取り図ができてくるのかな、とは思ってはいますが、効率的に「コレはイイ!」といえるものがあると、よいなぁ、と思っています。 ということで、何かご紹介・整理いただければ幸いです。多分私にとって既読の文献などもいくつかご紹介いただいてしまうことにもなるかとは思いますが、そこのところは特に気にしませんので、お願いできればと思います。 ただし、なるべく紹介者の方が既にお読みになられた本でお願いできればと思います。 暇なときにご回答ください。
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NO13の回答を書いていてようやく分かりました、つまりNO10の補足は 脳とか外界の物理現象とか意識の変容とNO3の回答がどうつながるのか ということでしょうか? もしそうだとした場合単純に外界の世界の発生が「で~になる」 自分がやっているなどの意識があれば「して~になる」という意味合い になります、主客身分の場合は外界の世界の発生と自分の行動が相補的で 在る場合です。その時には意識は「~になった」という具合に発生していれば 主客未分であり幾ら相補的であっても意識で思っていなければそうではないという ことになります、なぜかというとNO3の概念に包括されているので基本 的には意識決定ということになりますこれは絶対です
> たぶん、「で~になる」「して~になる」というのは自由意志的な概念が通用する在り方を一つの類型でしかない、として整理していらっしゃるのだろうと思うのですが、その他が「自由」という概念とどうからむのかはいまひとつパッとしませんね。 まあその他と言うと脳とか外界の物理現象とか意識の変容といったところじゃあないでしょうか? それとも個人的な意見を述べてもらいたいと言う事でしょうか? 個人的な意見と言うのは常に変化するので11月27日17:54何たら秒の瞬間しか思っていないことになってなりますがそれで良いんですか?
- ommani
- ベストアンサー率20% (1/5)
自由については、論点がしっかりしていないと質問者の求める回答をしにくいですよね。 例えば、重力があれば、「高いところから低いところへ落ちる」ということになり、自由ではなくなる。 地面があれば、人はその位置にとどまらなくてはならないということで、自由でなくなる。 言い出せばきりがないですね(笑) なにはともあれ、私のお薦めは「神との対話」です。自由ってのがテーマの本じゃないですが、compequalさんが満足いただける内容かと思います。 ※タイトルは宗教臭く、ちょっと厳つめですが、宗教とは真逆な内容なのでご安心を。 ブログでも読めるところがあるので、紹介しときますね!
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
自由ですか。 心に渇愛(執着)がなくなった状態と考えています。 それがあると「欲」「怒」「無知」が心を捕まえてかき乱し苦しむことになります。 純粋なもともとある苦のみで無駄に苦しまない。 これが僕の考える自由です。 スマナサーラ長老の書籍と「テーラワーダ仏教の実践」をオススメします。
お礼
ありがとうございます。 仏教系の方面の議論はまったく無知なので、触れてみたいと思います。
補足ありがとうございます >問題はそれよりも「~である」が主客未分化と括られることの意味ですね。<変化>と<状態>というのはだいぶ違う事態だと思うので、そこのところを補う想像力がどうなっているのかな、と。 なるほどあなた様がなにを言いたいのかよく分かりました。 僕の言う主客未分というのはベクトルが曖昧なものを言っているのです NO.3.6で言いたいのは本人ならびに現象にたいしてベクトルが発生して ルートが外界か自世界的のアプローチが認識できるものを言います 逆に主客未分というのはベクトルが認識しづらいものであると認識していただければわかりやすいかと思うのですがどうでしょうか?
お礼
ありがとうございます。ベクトルという概念を持ちだしたら確かにわかりましたが、ではそれが「自由」という概念というどういった形で関係してくるのか、がまだ少しよくわかりません。 たぶん、「で~になる」「して~になる」というのは自由意志的な概念が通用する在り方を一つの類型でしかない、として整理していらっしゃるのだろうと思うのですが、その他が「自由」という概念とどうからむのかはいまひとつパッとしませんね。
- ganesha_me
- ベストアンサー率24% (27/109)
ちょっと面白いものに、 ルース・ベネディクト『菊と刀―日本文化の型』というのがあります。 アメリカ人から見た日本の自由なので、 よく論文などで引き合いに出されます。 自由主義の大国アメリカと、 著者が日本に来たことがないという事実から アメリカにおける自由を知るのはそれなりに価値があると思われます。
お礼
ルース・ベネディクトを勧められるというのは、この文脈ではちょっと予想していませんでしたが、みなさん結構、「日本人にとっての自由」という文脈でお考えになられるのですね。 地域/国で区切った自由論というのはあまり想定せずに質問しましたが、米国における自由論という文脈でいえばトックヴィルあたりから勉強しなおしたいところですね。 ありがとうございました。
- tyr134
- ベストアンサー率51% (851/1656)
質問者様が仰るとおり、「自由」というのは曖昧な概念であり、キリ口によって様々な見方があると思います。 それこそ、「自由について、自由に論議せよ」なんてテーマで議論したら、切り口の違い・認識の違いによって、話がかみ合わず、何の益も無い議論のための議論になってしまうでしょうね。 そういう意味では、ちゃんと整理して話した方が良いかもしれません。 以下は、私個人の出した纏め方(自由論)です。参考になれば幸いです。 まずは、形而上学としての「自由の問題」 これの最大の問題は「自由意志はあるか」という問題でしょう。 そして、多くの哲学者が感心を向けたのが、この「形而上学としての自由」です。 しかし、私個人としては、この問題は大した問題ではないと思っています。 それこそ、議論のための議論である場合が多い気がします。(まぁ、理解力が無くてヘーゲルの自由論とか言われてもピンと来ないだけですが) 次に、形而下学(?)としての「自由の問題」です。 こちらは、意外と切り口は簡単で「政治における自由」問題を考えればスッキリする。 所謂、言論の自由・経済活動の自由・身体(身分)の自由などに密接に関わることから、身近な問題から取り組める。 上記の「自由」を「保証」するのも「奪う」のも、政治が密接に関わってくる。 そして、それらを突き詰めて考えていくと、結局、「形而上学としての自由の問題」にも通じるところが出てくる。 そして、「政治」が「自由」を認めるのが、一見「善」であるように見えるけれども、あまりに行きすぎた「自由」は「不自由」に繋がるという「例」が、政治では沢山ある。 例えば「独占禁止法」なんて良い例ですね。 「経済活動の自由」を認めることで、資本の持たない者でも、機会と運と才能が揃えば、一大財産を築くこともできる。 そうして力をつければ、市場を独占して、他の競争者の機会を奪い、結果「経済活動の自由」が阻害されてしまう。 これを防ぐのが「独禁法」ですね。 つまり、「自由を守るために、自由を制限する」という考え方ですね。 参考文献というか、上記のような「政治と自由と人間性」を考察するのに最適なのは、マキャヴェッリの『君主論』と『政略論』でしょうか。 『君主論』は、君主政体について論じ、『政略論』は共和制体について論じています。 (用語として「自由の政体=共和制」というのがありますが、「共和制=現代の民主主義政体」と短絡的に結びつけると、マキャヴェッリの論を見誤りますが) 政治というのは、人間の自由に関するの根源的な問題だと思います。(特に、生活に密接に関わってくるから) 自由は幸せに繋がりますが、行きすぎた自由は不幸せに繋がります。 それを感じさせてくれる二冊だと思います。
お礼
マキャヴェッリですか。 なるほど、ある種の政治一元論みたいなお立場ですね。そういう立場もあるのだな、と興味深く感じました。ありがとうございました。
権力をめぐっての自由の問題です。(そのあと 思想・表現のそれにも 至ります)。 伝えられるところによりますと その昔 オホクニヌシは その祖であるスサノヲの築いたイヅモ(スガの宮)の国を 植林に励み 医薬の開発に精を出して 人びとと共に営んでいたところ アマテラス国から 使者を受け 服属せよと要求されるに至りました。 何度も来ました。数年 数十年にわたって 使者も入れ替わり立ち変わり 来ました。その要求を受け容れたのは 二人の息子に相談し 何でも 腕相撲をして決めたとかでした。むろん 海の沖合いでは 剣を引き立てて それを背景にして 談判に及んでいるという情況もありました。 物語は省略します。主戦論も和解従属論も いづれも人間の弱さから発していると思いますが 要するに オホクニヌシはみづからの国を譲りました。果たして 自由論は どういう主題を構成して争われるか。 この国譲りのあと 隷属とも言えるような踊りを踊ったのですが 《譲歩》とは 自由な主体性 主体の自由を守ったと言えるかです。 わたくしは 言えるという立ち場です。それは 自由な表現行為が 生命と存在を脅かす悪によっている つまり 無効であった場合 その無効の自由が 現実に実効性を持って 有力となったとしても やはり無効だと見ることができると思われるからです。 ゆづる側は したがって 無力の有効な自由を保っていると。 * ところが さらにその昔 オホクニヌシの先祖であるスサノヲは 自らの役割として課された海原の統治を嫌がり 泣きどおしであったし いっさいその役割を分担せず おまけに 田んぼの溝を埋めるわ 畔を開け放つわで 統治者アマテラス(かれの姉ですが)に対して 嫌がらせばかりをしていたと言います。アマの岩屋戸への雲隠れがあったり あるいは この姉と弟は 互いに心の清きを争って 賭けをもしたりだったと言いますが 要は スサノヲの悪行が極まって かれは 爪を剥がされたりしながら 追放されたという経過が 過去にあったということだと思います。 追いやられたスサノヲは イヅモに来て 自らの場を得るということになり やがてオホクニヌシの歴史に受け継がれます。 問題は スサノヲに任された海原の統治というのは 結局 死者の祭祀を司るということだと考えられます。スサノヲは――推論が貧弱ですが―― 良心・信教の自由を唱え 唱えつづけたと言えるのかも知れないとき その問題です。オホクニヌシの服属以後 この思想・表現の自由も すべて 主宰者である姉のアマテラスのもとに 管理されているという歴史であり現実です。 ひとことで 日本人は 自由を持つか。持っていたか。無効と有効との区別で 認識することができるか。こういう課題にいきつくと思うのです。 言いかえると 自由論は 日本社会論そのものになるのではないでしょうか。おそらく 自由についての認識論だけによっては わたしたち日本人は 満足しないと思われます。 それとも 戦後民主主義社会にあって わたしたちは これら自由を謳歌することができていると言うべきでしょうか。 (負けるが勝ちという認識で 事は足りるか。なぜスサノヲだけが自由なのか。・・・) とりあえず ここまでですが。 日本社会論につきましてはhttp://oshiete1.goo.ne.jp/qa3325968.html そのANo.1を参照いただければありがたいです。
お礼
うーん。回答者さまと私とで前提にしている教養がたぶん色々と違うだろうとは思うのですが、 残念ながら、スサノヲまで話をさかのぼると、日本社会論として受容する気がおきません。非常に抽象的な議論の水準においては、言わんとされていることは想像はつきます。 また、参照されているスサノヲ-アマテラスという区分はオリジナルなのは結構だと思うのですが、繋げている概念が広すぎて、その概念が用いられることの必然性がよくわからない印象です。公/私と、精神/身体の話が接続されるというのは、かなり限定的にしかありえないと思うので、それをざっくり括ってしまうためには、あまり一般的な話としては了解しえない。なので、裏側に色々な前提がなにかあるのだろうな、と考え、一端理解を放棄しようという気になりました。 それはさておき、 どちらの立場も可能だろうとは思いますが、《譲歩》が自由か否か、という論点はそれなりに興味深い論点だろうとは思いました。
補足をいただきありがとうございます。 >ただ、「自世界的、他世界的、主客未分的」という三分類は今ひとつ理解できませんでした。 「~になった」 は変化(特に変化の起点を必要としない)で、 「~して ~になった」 は変化の起点に主体(or自分)がおり、 「~である」 は状態 ということになると思うのですが、「~である」に主客未分的、という言葉が充てられる理由がわかりにくいです。「~になった」ということの方に主客未分化なものも、特に主体が関わらないものも両方含まれてしまうように感じるのですが。 いやなかなか鋭いところをついていらしゃいますね。 そうですねまず「~になった」ですかがこれは他世界つまり外界の変化 によって自分が自由になったという概念です。 つまり他世界から自由なり不自由なりの根源が発生し自由なり不自由なりを感じている状態です たしかに質問者さんが仰るように感じている段階では主客未分的であると いえなくはありません。ただベクトルが他世界発生的であるという意味です 詳しく書けば「~で~になった」と言ったところでしょうか? 言葉足らずでもしわけないです。
お礼
再回答感謝いたします。 たしかに 「~で~になった」 という形で意味を限定していくというのは発想としては思いついたのですが、問題はそれよりも「~である」が主客未分化と括られることの意味ですね。<変化>と<状態>というのはだいぶ違う事態だと思うので、そこのところを補う想像力がどうなっているのかな、と。
自由の概念を規定するには 善悪の問題を規定しておくとよいと思われます。 経験世界や人間の存在は 有限ですので やはり絶対を前提として 善を規定することになると思います。 つまり 絶対の存在 もしくは 絶対との関係にある人間の存在 これを善と規定することから始めます。この存在は 生命のことと言ってもよいはづです。 したがって 存在あるいは生命 これを保持することは 善です。保持し――主観的にせよ――良く保つことは 善です。人間の社会的な行為なり人間どうしの関係なり そのような領域においても 互いの存在と生命そしてその保持・向上となることは 善です。 ところで 人間は 相対的で時間的にして有限な存在です。精神・知性にも 限りがあります。したがって この上に見た《善》という事柄を まちがって捉えることもあれば その善じたいを 知らずに失うことがあります。あるいはさらにこれを わざと 失おうとすることさえありえます。 《善》が損傷を受け 欠けた状態 これが 《悪》です。《悪》が初めにあるのではなく はじめの存在とその能力を まちがって使ったり 捨てたりすることが 悪だと考えられます。絶対の善ではないから そのようなまちがいが生じます。 経験世界に生きるわれわれ人間は その存在も――善なのですが――その能力も 相対的な関係世界を超えることが なかなか むつかしいようです。何が善で 何が それの損傷と欠如としての悪であるか 最終的な解答を決定することも むつかしいものです。ですが 思弁的なものながら いまの前提からの議論にもとづく限りで 善と悪との区別をつけたとするなら これによって 自由を規定することができると考えます。 まづ 相対性の世界として見れば すべての行為が自由です。善である存在のおこなうこと すべてが自由です。そうして おそらく 定義からは 善としての表現が 自由な行為であり 悪としての表現は 無効の自由だとなると思います。有効な自由が 自由だという意味になります。 さらに抽象的な思弁をつづけますが 悪は 一般に この世の中に起こると考えられます。たとえ一部においてにせよ むしろ強い力を持っているようにも捉えられます。そうすると その限りで 悪というものは 無効の自由がおこなわれている状態であり これが しばしば 有力となっていると 一般的な見方をしておくことができるでしょう。 この有力の前に 無力となった善(存在)は 考え方としてだけでも 自由であろうとします。自由として 無力ながら 有効な表現行為です。 したがって 簡単に言って 一般に社会にあっては 有効な無力と無効の有力とを両極として そのほかに 中間状態のような部分的にせよ有効とみなされるべき力が 表現の自由のもとに起こっていると考えられます。 うそ(虚言と虚偽)・妊娠中絶・安楽死・いじめ・セクハラ・名誉毀損・不倫・戦争行為・・・大きくは《すべて自由》のもとに しかも 有効か無効かの判断の必要があるとしたなら どう捉えていくかの問題があるようです。具体的にどのように考えるかの段階になると 善悪の基準で 妥協するところも出てくるかも分からないようです。 自分たちの縄張りを守る山賊や海賊行為は 徒党を組んでやれば 不法行為で悪であり 国家が 治安を守るために同じようなことをやった場合には 国際法のもとに善だと見なされるという議論が 昔 ありました。 思想としての問題では 絶対と相対とを区別・峻別するなら かなり 有効な表現の自由を守って 議論を進めて行くことができるように思うのですが。 とは言っても 宗教においては わたし(相対存在 Y)は神(絶対存在 X)であるという《自由な》表現行為をする場合があるわけでありまして・・・。
お礼
ありがとうございます。うーん、ただ、たいへん恐縮ながら、先ほどの回答の明晰さと比べると、だいぶ前提のとばされたところの多い議論になっていると感じました。 倫理学の入門的な話はご存じかとは思いますが、 「善」を支える起源としての存在、というのはまだよいのですが、そもそも「善」という概念を間違って捉える/間違わずに捉える、という発想は「善」の実在性を前提にしている、ということでしょうか?であれば、それは相当に解説を要する話になるはずですので、ここを端折られると少し厳しかったです。 また、国際法の議論が出てきますが、善悪の話をする場合、倫理/道徳/法といった次元の区分けもしていただければ、より理解しやすいかと存じます。 「表現の自由」の概念が、何かコアになっているのだな、ということはなんとなくわかりました。その発想は少しオリジナルな感じがして興味深く感じました。
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お礼
ありがとうございます。ノーフォロー度合いの高いところから攻められてきた感じですね…。そうきたか、と。 Amazonのレビューとかをちょいちょい見ましたが、どうも自己責任とか言い出すのが好きそうなアメリカ人が<哲学的>な言い回しを絡めてハイテンションになった状態で書いた本っぽいだなぁ、という印象を持ちました。Amazonでこれだけ、☆5が並んでいるのもちょっと不気味な感じがしますし、多少まともそうなインテリ系の人のコメントがさっぱり見あたらないというのも不思議な感じがします。あくまで読む前の印象なので、不遜なことを書いてしまって恐縮ですが。。 なにわともあれ、回答者さんに答えていただいたのとは別の意味で読みたくなりました。ご回答感謝します。