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復活とは? 不死の境地とは?
あえてこの主題を ふたたびですが 問います。 かつて 次のような趣旨説明をしました。(少し見直して書き直してもいます)。 * 健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。 そこで持ち上がるのが 人生論です。 哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。 この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。 最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。 1. すべてを 終わり=目的から 始める。まづこう決める。 2. では 終わりは どこにおくか。 3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。 4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。 (二百年なら 実際問題としては もうじゅうぶん人間にとっては 永遠であるだろう)。 ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。 この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。 復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。 不死の境地については 自性清浄心(ブッダター)のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ゴータマ・ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。 あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。 あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。 * さて 考えるにですが ひとつには この《復活なり不死なり》の主題について 幻想を持つべきではないと言いたがっていたのかとも思います。(つまりは われわれの望む社会の再形成 こちらの主題のほうにむしろ目は行っているのかと)。 しかも その反面では 経験世界のことがらを超えた(つまり 因果関係から自由な)非経験の場についても それは想定されうるのではないかと見ようとしています。わが心なる《非思考の庭》と言っています。 前身の質問に寄せてくださった回答を とうぜんのごとく活かしつつ なおすすめることが出来るか。 あるいは 言ってみればこの主題について余計な議論はこれこれだと規定しておくことが出来るか? みなさんの知恵を拝借となります。
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終わりませんね・・ たしか去年の5.6月の頃だった 正確な日付は日誌に書いてあるんですが・・ 庭に出ると、一羽の小鳥が現れて、私の周りから離れない事が幾日か続きました 野性の鳥でした それが終わって、少し日にちが経ってからでした NO.20に書いた通りの事が起きました それら一連の出来事には、私個人の事情に関する明確なサインがありました 子細はいいでしょう 落書き、でいいんです それでいい 奇跡の容認など・・結局馬鹿馬鹿しい・・と みんな作り話だと・・ それでいいんです 結局、私の話した事はBさんにとって無意味な事だったんでしょうね・・ お時間を取らせて申し訳ありませんでした。 さようなら。
場外電波 不思議という計らい=人智を超えた計らい=人が推し量ることの出来ない働き 誓願不思議 不思議という計らいの確かさ=人が推し量ることの出来ない働きを、まざまざと見る事、見せつけられる事 命題については、それを説く資格も無ければ、許されてもいない また、外縁の事象における有益と非有益を断ずる立場さえまだ明らかには得ていない (電波終了 )
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 不思議という計らいの確かさ=人が推し量ることの出来ない働きを、まざまざと見る事、見せつけられる事 ☆ いつ《まざまざと見》たのか? 誰が見たのか? いつ《見せつけられ》たのか? それは どのように? それとも ひとりのわたしの主観の内なる予感としての体験を言うのか。 大きく広く ヒラメキの問題であるのか? ★ 命題については、それを説く資格も無ければ、許されてもいない ☆ ぢゃあ ただのトイレの落書きぢゃん。 ★ また、外縁の事象における有益と非有益を断ずる立場さえまだ明らかには得ていない ☆ ぢゃあ ただのたわごとぢゃん。 ひとをばかにしてはいけません。 もう――心を入れ替えてからでなければ――来るな。
場外通信 信仰の外縁 鳥は知っている 自らのその声が 自らに与えられた言葉だと知っている それのみが自らの言葉だと知っている 人自らに与えられた言葉は この言葉ではないものを 自由が選んだといっては受け入れている 自らの言葉で話す小鳥は 私に近ずき話かける もう言わなくてもいい事も 言っていい事も 私に見せるその振る舞いは何の証なのだろう 閉め切った部屋の机の上に 使い古した辞書の上に 小さな灰色の綿毛を一枚置いていった 私が拾うべき 時と場所に置いていった 舞い戻ってきた 見えない小鳥は 私の絶望と希望の証 小指の先ほどの小さな羽根は 現れてしかるべきと言う ただ 小鳥が教えてくれただけなのに 私は そうは受け取らない 同じ灰色の綿毛は 私に近ずいてきた小鳥の胸の一枚 まだ ここに来たかったのかと問いかける ならば 掌の上で休ませてあげよう ここで いつまでも休むがいい・・と 三礼の先の 見えざる手の導き 形ある小さな知らせを 私は受け取ろう 不思議という計らいの確かさを 私は受け取ろう 何故に とも言わず それは 私が手離した小鳥が帰ってきたことの証なのだから 見えざる御手が伝え そうしてくれた事を頂こう 何の不思議でもない それは私が いつかは必要とした事が与えられた事 小さな奇跡が奇跡ではないと 訪れをもたらすものに話かける 安らかなれと 遠く祈った返事が来たのだと 御手の計らいに私は感謝しよう ・ ・ ・ ・ ・ 私の現実は 非現実を取り込みつつある それは普段は語られぬ現実に違いない 奇跡と名付けるには あまりにも小さなそれらの非現実は 私の信仰の外縁の出来事である 許可された非現実が どのようなものであれ また どれほど数多く起ころうとも 信じることの本質は変わりない 信仰の段階を示すと思われるそれらは 命題をすでに生じつつある 祈りの有効性と共に 信心は他に向けられてゆく という命題である。 (場外通信終了 )
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 不思議という計らいの確かさを 私は受け取ろう ☆ 《不思議という計らい》は ハカラヒが不思議だというのであれば 《無根拠》のことを言っています。 じつは ハカラヒ無きさまのことです。 その不思議という計らいの《確かさ》と言うと どういう意味なのでしょう。 無根拠こそが 人間にとっては確かな根拠となるのだ と言っていましょうか。 あるいはひょっとして ★ 《不思議》という《計らいの確かさ》 ☆ という意味でしょうか? 《不思議〔として表わす真理〕》は つねにこの人間とその世界に対して 摂理というべき配剤・計らいをおこなっている。目に見えないだけだ。いや ときには 目に見えて現われることもあるのだ。その稀なる不可思議こそが 人間にとっては《確かさ》なのだ。――こう言っていましょうか? 後者は やや微妙な意味合いをもふくむかも知れません。その場合には あたかもあなたが神(つまり真理)のスポークスマンとして・あるいは官房長官として(同じことか?) 神のチカラとそのハタラキを説明しているわけですが その説明をするという立ち場は おそらく 《信仰という実践としての動態》の内容とは 少し違うでしょうね。 ★ ~~~~~~~~~~~~ 奇跡と名付けるには あまりにも小さなそれらの非現実は 私の信仰の外縁の出来事である ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは たぶん 《非現実》が 《非思考の庭〔なるわが心の動態〕》であるからには 《奇蹟》は《経験思考の外縁》となるでしょうね。 つまり 《信仰》が 経験事象の外縁であると。その非現実をふくむ世界が―― 一般に現実と呼ばれる経験世界に想定として乗っけられた非現実をふくむ世界が―― じつは人間にとって《大いなる現実》だと考えられます。 ★ 祈りの有効性と共に 信心は他に向けられてゆく / という命題 ☆ は ★ 信心の〔向上して行く〕段階を示すと思われる ☆ か? 《信心》にいくつかの段階があってもよいのでしょうが 一般に基本としては 即身成仏・即得往生です。その究極の段階に初めに一瞬にして到って そのあとあたかも追体験をするかのように一歩一歩ふたたびあらためて段階を上がって行く。というかたちで いくつかの段階があると言ってよいでしょうが ★ 信心は他に向けられてゆく ☆ とは どういうことか? その《他》とは何を言うのか? リスキーな表現ではあります。
場外通信 10.の動態 私は永遠の終わりを知らない そして 始まりも知らない ただ信じるという 永遠があるだけである 私に微笑みかける永遠は 小さな みしるし となって首にかけられた 命ある限り離さぬ しるし である 山のごとく積まれし言葉も 掌を合わす一瞬には およばずと 三度び繰り返す礼にあらはるる わが偽りを確かめつつ呼びかければ そこにあるもの 鎮まりをもってあらはれ わが拙なき呼びかけを聞くもの その慈しみに限りなく その計らいに過ちなきと 心置く安らぎは 灯なり わが信心は他にあらざりし わが身ひとつに与えられし信心は わが身ひとつに来たる 永遠の証なり みしるしは わが命につけられし 子のしるしなり
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ただ信じるという 永遠があるだけである ☆ 《信じる》ということは その対象が《永遠》であるということであって――つまりそれは 非対象ということであり したがって非思考なのですが―― その信じるという行為は 経験事象です。 ★ 小さな みしるし ☆ 《永遠》あるいは《無根拠》は 上に触れたとおり 《非対象》です。つまり 象(かたち)はいっさいありません。 仮りに《しるし》があるとすれば それは あくまで仮りの代理としてのモノです。 ★ その計らいに過ちなきと / 心置く安らぎは 灯なり ☆ 無根拠に《ハカラヒ》は ありません。(そういう比喩をあてはめて 説明することはあり得ます)。 《心置くやすらぎ》は 《意志の休息》に似ています。ただ 惜しむらくは 問題は 何か一定の対象をかかげてそれに向けて心を推し進め(心差しをかたむけ) そこに意志のやすらぎを得ようとしているかに見られます。 ★ わが身ひとつに与えられし信心は / わが身ひとつに来たる 永遠の証なり ☆ 《明かし》は わが身〔と心と〕の行動そのものです。《信心》は そのためのものです。 《真理が すべてにおいてすべてである》という復活にあっては すでに・以前には信じていたもの(つまり真理)が目の前にあって それをそのいま見ているのですから もう信じる必要はなくなっています。 信仰をとおしてはたらく愛は そのまま永続しますが 信仰はすでに要らなくなっています。それが 永遠の現在(生身のからだにとっての実際には その動態)です。
こんばんわ。 緊急動議は主宰者の意向により不受理となった。 よって、動議の提出者は速やかに退場すべし。 提示した二枚のカードは、これにより破棄される。 抽象論に対する客観優位の解釈と、主観優位の展開は未確認のままに終わる。 主宰者の動議否決後の再提示の内容は、動議提出前に示されていた内容と同じである。 その内容の再選択の表明により、この動議は無意味なものとなった。 主宰者側において、無意味なものは受理されず、破棄されてしかるべきである。 また、動議の提出者は主宰者に敬意をもって不服とせず退場すべきである。 選択とは、批判を受けるもの 客観批判と主観批判とがあるものの、それは意志にとって勇気の必要とされる事である。 勇気とは意志の可能性を表すものでもある。 Bさんの勇気は、Bさん自身の言葉に向けられている そう思います。 あえて一言いわせていただくならば 一元論に立ち返るのであれば、それなりの明確さをもって対処すべき事のようにも思われます。 ・ ・ ・ ・ ・ これでまた私も自己批判を背負うことになったようです 勉強というやつでしょう・・ これにて退場いたします。 失礼の段ご容赦ください。 それでは。
お礼
ご回答をありがとうございます。 1. 質問者の提出しているたたき台としての仮説は 《抽象論》ではありません。《非思考》のことがらを想定して それを復活の議論に当てはめているものです。 2. 抽象論というのは あくまで経験事象について 象(かたち)を捨てて重要である要素にしぼりそれについて一般的な形象として示すものです。 3. 《非思考》のことがらは 経験世界を超えた場のことを わざわざ勝手に想定した上で しかもその想定上の場(ないしチカラ)とわれわれ人間の一人ひとりとの関係 これを――ここからは おのおの主観の内でのみ――実際に生きたときその経験を 何とか経験合理性にもとづき自己表現するというものです。 4. 言いかえると おそらくこういうかたちでしか 復活の議論は出来ない。こう考えてもいることです。 5. 言いかえると 復活論がもとづく《〔わが心なる〕非思考の庭》においては・つまりその実践としての動態にあっては 一元論しかあり得ません。経験世界を超えた場が ひとつ・ふたつ・・・と数えられるというのは あり得ません。数が特定できるのなら それは 経験事象にかぎります。《元》というのもおかしなことでしょうが 説明としては 一元論ということになります。 6. 一元論だとしても 非思考のことがらは ひとそれぞれに言わば今度は経験事象として展開されます。ヒラメキの内容として 十人十色です。しかもその内容のうち 復活という主題を取り出して 何とか人びとに共通の問題が経験合理性のゆるす範囲で語り合われるように成し得ないか? これを問うています。 7. このようにここでのやり取りの前提を捉えている質問者から見て あばうと72さんのご議論は まだそのご見解が どのような内容であるのかさえ捉えがたいとお応えせざるを得ない。こういう経過とここまでの結果です。(6)までに述べた前提から見て明らかなものでなければ 《明確さをもって対処する》ことは 出来ないという意味です。 8. 敬意をもって不服としないそうですが あえてその姿勢に相い反する物言いがつけ添えられていました。ので ここまでの説明をつづりました。 9. 《客観》というのは 経験事象を超えた場についての《非思考のことがら》と違って そうではなくあくまで経験世界における事象をめぐりその事象どおりの認識が得られると仮定した上で その仮定した認識内容のことを言います。――ですから ここでの復活論は それが抽象論〔であるか無いかの次元での話〕ではなかったのと同じように この《客観》という視点も 復活論そのものに当てはめるには 筋が違うと言わねばならないはずです。 10. 言いかえると 一人ひとりの主観に展開された《非思考の庭》としての動態(つまり 信仰のことですが)をめぐって しかも《経験思考》において人びとに共通の内容があるかどうか。それを互いに自己表現しあって共有することが出来るか出来ないか。これを 問うた質問です。主題は 再生つまりルネサンスです。 11. もし《動議が無意味なものとなった》というのだとすれば それは ここまで述べたきた《復活論をやり取りするための前提》の問題として 互いに共通の出発点に立てなかった――ということなのだと捉えます。 12. 《動議そのものを 〈主宰者〉たるわたしが裁定した》ともあるいは《動議を裁定するというそのことを わたしがおこなった》とも われながら 承知していない。このこともお伝えしておきます。 13. こちらからは すでに初めから復活論を その一二の事例を示しつつ おこなおうとしていました。そちらからは それ以前の段階として 議論の前提を決めあおうということだったのかも知れません。ですから この《議論の前提》とは何か? をめぐって 今回はこちらの考えていることを述べて明らかにしようとしました。 なぜ質問したか? どういう質問のあり方なのか? これらについて質問者の負った文章責任を これで果たしたと考えています。
ところで anāsavāse ですけど、複数形ですよね。 アーサヴァは複数あることになるんでしょうか? あとは、dassanaですけど これを中村元が、「さとり」と訳した理由がわからない。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 水野弘元・パーリ語辞典によれば: まづ ・ aasava (skt. aasrava buddhist-skt. aasaya ) m. 漏れ、流漏、煩悩、酒 という語があって これから派生する形容詞があります。否定形で: ・ anaasava (an-aasava) adj. 漏れなき、無漏の そしてその項目にすでに 注意書きのごとく 複数形は挙げられています。 ・ masc.(男性) pl.(複数) nom.(主格): anaasavaase と。つまり男性の場合です。 そこで 次のように確認します。(パーリ語です)。 ・ a-語基 masc.(男性) 語例:buddha (仏)、dhammma (法) sing. nom. -o: buddho, dhammo pl. nom. -aa: buddhaa ( buddhaase ), dhammaa ( dhammaase ) ☆ つまり 複数・主格形は 活用語尾が -aa とそして -aase とのふたつのかたちがあるようです。 かくして ・ anaasavaase (m.pl.nom.): 漏れなき〔人びと〕・(中村元訳)心に汚れのない人々 のような意味と用法になるのだと思います。(英語で the rich and the poor と形容詞を使って言うと その形容詞の意味の当てはまる《人びと》を言い表わす用法と似ているようです。同じかどうかまでは 分かりません)。 《漏れ aasaa 》とは おのれの内なる心から漏れ出るへそ曲がりの意志であれ ほかの人びとの・それと同じような意志が自分に外から漏れ入って来るものであれ そのような或る種の汚れを表わすのだと思われます。すでに《煩悩》とも辞書に載っているようです。 * ★ dassana ですけど / これを中村元が、「さとり」と訳した理由がわからない。 ☆ dassana (skt. darsana ) は《見ること》そしてこの場合は 《神々しさだとか 或る聖者に神のひかりやしるしを見た》といったときのそれだと思われます。 これが どうして ★ さとり ☆ と訳されるのか? 同じく水野・パーリ語辞典にしたがえば: まづ 動詞およびその名詞形として: ・ dassati (skt. drs, dars, dras, draks) 見る ・ dassana n. (skt. darsana) 見ること と確認されます。この語から スッタニパータ・208の Addakkhi (彼は見た)が活用されて出て来ます。 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・ 208:Addakkhi so santipadaṃ mahesi. ・ かの( so )大仙人( mahesi )は平安の境地( santipadaṃ )を見た( Addakkhi )のである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この addakkhi が dassati 見る の活用形だそうです。 時制は 直説法で アオリストという時制。これは 時点を過去とか未来とかに限定(‐オリスト)しない(ア‐)用法で 通常は 意味として《過去》を表わします。 ギリシャ語にもアオリスト時制があって その活用は 動詞の語幹の語頭に e- を そして語尾に -sa をそれぞれつけます。言いかえると 動詞の語幹を e-・・・・-sa で囲むかたちです。 ・ paideu- : まなぶ > aorist: e-paideu-sa (彼はまなんだ) サンスクリットないしパーリ語も おおむね同じようです。ただ 水野・パーリ語辞典を見ると このいまの問題の動詞 dassati の活用は 特殊なようです。三つの種類があるようです。そこでは e-・・・-sa の代わりに a-・・・-si で語幹をつつむのですが: ・ das (skt. drs) (= dassati 見る の語幹) >aorist: a-das-si / da-kkhi-si / ad-da-kkhi (いづれも 《彼は見た》) 一つ目の a-das-si は 規則的に活用しています。 二つ目の da-kkhi-si は 語頭の接辞 a- が抜けている。そして語尾の接辞 -si はふつうのかたち。 ただし 語幹では -kkhi- という余分なかたちが現われている。 -k- は サンスクリットのほうで 活用形に現われています。 ・ dassati (skt. drs, dars, dras, draks) 見る 三つ目の ad-da-kkhi では 語頭に 接辞の a- が 語幹のあたまの d- を重複させて ad- と変化している。そして 語尾の接辞 -si がもはや抜け落ちている。 かくして ▼ (208) かの( so )大仙人( mahesi )は平安の境地( santi-padaṃ または 安寧の道)を見た( Addakkhi )のである。 ☆ となるようです。《安寧もしくは寂静の道 ないし 平安の境地》を見たというのなら 《さとり》に通じているとは思われますが この場合の《見る》は 心の目で見た・つまり知った ということでしょうから それでいいのかなと思うと同時に いくらか 飛躍があるのではないかとも思われます。 ダッサナ(見ること)が 神の顕現(エピファニ―?)といった意味合いを持っているとすれば かんたんに言わば《知恵》の領域へと飛躍してしまっているかとも思われるからです。 そうして 《ブッダ(めざめた)》というような さとり を表わす言葉とも 毛色が違うとすれば そのあたりについて 異同をとらえることは 無益ではないと思われます。わたしにいまその用意は ざんねんながら ありません。
こんばんわ。 私の希望に沿って、質問の主旨を絞り込んで提示して頂いたのはありがたい。 素直に礼を言います。 ありがとう。 ところで・・ なんですが・・ それは かなり抽象的ですね。 掴みにくい感じがします。 なので Bさんに 二枚あるカードのうちの一枚を引いて頂けたらと思います。 私が用意できるカードです。 両方は駄目です。 また、両方とも引いて頂けなければ、これで私は終了とさせて頂こうと思います。 狭い選択を突き付けて申し訳ないですが、はっきりとさせて頂いた方がいいように思います。 一枚目 この文における抽象性は、そこに含まれる個々の言葉の解釈を上回るものであり、その事を前提として創られた一種の仮定である このような抽象的仮定を咀嚼するための条件としては まず、それら各々の言葉の解釈をもって始まりとし 次に、言葉どうしの関係及び関連性の状態を見て さらには、それらの事柄を踏まえて、全体の意味の解釈を図ってゆく といった順序に基ずく方法が適切だと思われます まず、個々の言葉の解釈から 「意志」 考え選び決心する心の働き 考え選び、とは、広く物事を捉えてその中から選択を行うという、いわば感性的な働きを従えたものである、というように考える事ができます 決心とは・・ (未) 二枚目 まだ見ぬ時間は まだ見ぬ復活 試される時間の 試される復活 私の手足に埃が被っていようとも訪れる 重い空気を吹き払ってくれるものを待つように 下を向いた瞳が すこしだけ動いている 指の一二本が動けば 物を触り 私の自由の胎内に届くものを確かめている ・ ・ ・ (未)
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 提示されて切られるのを俟つカードは わたしに言わせれば いづれも復活論に遠すぎます。 あるいは 反・復活のご議論かも知れないと思い その筋として考えても それも判断をくだすには意味内容が捉えがたい。――率直に言って こう反応せざるを得ません。 何とか議論をつなぐにはと思って 思いついたのは 次のくだりです。 ★★(回答No.13) ~~~~~~~~~~~ >真理が すべてにおいて すべてである きれいな言葉だと思います そして、誰も否定できない ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このような命題が 復活につながる。という単純な例示を あらためておこないます。 《誰も否定できない・きれいな言葉》としてその意味内容を持つ一定の判断 これが 復活につながる。 あるいはまた さらにいまひとつ例示するとすれば ○ 無根拠 です。すなわち じつはむしろ《意味内容を〔ほとんど〕持たない》一定の命題ないし概念 これが 復活につながる。こういう例示です。 そのような命題例において復活につながるというのは ★ まだ見ぬ復活 ☆ が その命題を捉え返しつつ 自己の存在とその世界における位置関係を思うとき すでに――むろん主観内において――予感されるということを言っています。そのように問うています。 これは じつは・じつに 生身のからだでいるあいだは 《予感》までなのですが それでも ★ 私の手足に埃が被っていようとも訪れる ☆ というふうに捉えた想念の問題なのではなく すでに起こった予感であり 予感としての復活(その状態)なのです。 それに対して誰かが そんなものは まぼろしだよ 何の証拠も根拠もないぢゃないかと言ったとしますと そこで ○ 無根拠 なる・すでに言ってみれば《神》が お出ましになる。こういう寸法です。これが 主観における――人間という存在にかんするかぎりでの――復活なる状態です。 ★ 抽象性 ☆ ――これも 多少なりとも 思考にかかわっているからには――の問題ではなく そうではなく 《非思考》の次元なのです。
こんばんわ。 う~ん・・ 「意志の休息」という矢印を ありがとうと言うべきか否か・・ 戸惑います。 >意志はもし休息を取ろうとするなら ここにおける 「もし」 と 「取ろうとするなら」 が どうしても引っ掛かってしまいます。 これ以降の記述は、この二重の仮定から発した展開のように感じられてならないのです。 そこには主観あり、客観ありという印象を受けるのですが 不思議に思われるのは 主観を客観視し、それをまた主観に取り入れる、というような いわば自己完結の形式を取っているように見受けられるのです。 厳しく言わせていただくならば・・ 我が主観を客観に尋ねる、或いは、仮定的客観の主観的解釈を求める、というどちらかの選択が見受けられない そうした印象を持ってしまいます。 (悪いね・・厳しくて・・) 書き替えることが許されるのなら・・ですが 《意志が自由な休息を取ろうとするなら》 と 一仮定の文にさせていただけるのでしたら、楽に答えられると思います。 あまり勝手に・・Bさんの文をいじりたくないので、できましたら「意志の休息」について 絞り込んだ質問の形式をとって頂けたらと思います。 まあ、私は意地悪なんでしょう・・ 復活という動態と、休息という無動態というべきもの、対称的なものを持ち出した事は、何となく分かります。 抽象論で終わりたくないのでしたら以上の事をお願いできればと思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ○ 意志の休息が――それが 移ろい行かないものであるなら―― 復活という状態につながるのではないか。 こう問うたまでです。 《社会への貢献》という《おわり=目的》の例を出しましたが これは 経験行為であるからには その理想とするところを成就したとしても まだそこにおける休息は うつろ行く安寧であろうとも述べました。 では どういう《おわり=目的》があるか。それは 自分でもとめて 得たならばそれをかかげる。――というふうに述べました。 それ以上のことは 例示として《無根拠》をちらつかせつつそれ以外は 何も言っていません。 それは 一人ひとりの問い求めとなる。こう考えるからです。 たぶん《厳しく言われる》ようなところまでは 何も書いていないと思いますよ。 ぎゃくにこちらからきびしい言葉を述べるならば これまでに説明してもらった文章は 復活について何がしかのことを述べておられるようながら 心の休息をそこで取るというようには感じませんでしたと言っていると思います。 だって 分からない。または 分析を繰り広げているのであって 《おわり=目的》をどう生きているかは まだつたわって来ない。のですから。
ゴータマ・ブッダ(釈尊)について 第14回 引用『ゴータマ・ブッダ(釈尊傳)』中村 元著(法蔵館 東方双書 昭和40年刊)より ☆釈尊の悟りの内容ははっきりしていない 「さとりの内容に関して経典自體の傳えているところが非常に相違している。いったいどれが本当なのであろうか。経典作者によって誤り傳えられるほどに、ゴータマの得たさとりは、不安定、曖昧模糊たるものであったのであろうか? 佛教の教えは確立していなかったのであろうか。 まさにそのとおりである。釈尊のさとりの内容、佛教の出発点が種々に異なって傳えられているという点に、われわれは重大な 問題と特性を見出すのである。」(114頁) http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/archives/11119386.html ゴータマ・ブッダ(釈尊)について 第15回 引用『ゴータマ・ブッダ(釈尊傳)』中村 元著(法蔵館 東方双書 昭和40年刊)より ☆安心立命の境地を得ようとする 「まず第一に佛教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に應じて異なった説きかたをした。だからかれのさとりの内容を推しはかる人々が、いろいろ異なって傳えるに至ったのである。」 第二に、特定の教義が無いということは、決して無思想ということではない。このようにさとりの内容が種々異なって傳えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。既成の信條や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。」(114頁) http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/archives/11120400.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ちなみに、岩波文庫 ブッダことば スッタニパータ 中村元訳 297ページ 208の註釈に、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 見た―― 「さとる」とは見ることなのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ と書いてあるわけです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Yo jātamucchijja na ropayeyya, Jāyantamassa nānuppavecche; Tamāhu ekaṃ muninaṃ carantaṃ, Addakkhi so santipadaṃ mahesi. Sutta Nipāta 1.12 Munisutta http://suttacentral.net/snp1.12/pi/ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ マガダ語の話は本当に古いのかどうか疑問だし、 そもそもそんなものないとかいわれたら そうですか。では、仏教書に書いてあるのはなんなのさ そして、どこがどうして古いのさ 本当にブッダのことばが書いてあるのかよ と質問しても反応もなく 自分なりに調べてみてはみたものの、もう知るかよ、と思う。 正直、これ以上は時間の無駄だと思いました。 学習意欲をなくしました。 どうせ縁起とか空とかいっていればいいのです。 思想史なんてものがあるのに。 言葉ではないとか言いながら 正法眼蔵の解説ばかりする人が嫌いです。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 見た―― 「さとる」とは見ることなのである。 ☆ この主題ですね。 まづはスッタニパータの読み解きから。 ▼ (208) ~~~~~~~~~~~~~~~~ Yo jātamucchijja na ropayeyya, Jāyantamassa nānuppavecche; Tamāhu ekaṃ muninaṃ carantaṃ, Addakkhi so santipadaṃ mahesi. ▼ (同・中村元訳) ~~~~~~~~~~~~~ 208 すでに生じた(煩悩の芽を)断ち切って、新たに植えることなく、 現に生ずる(煩悩)を長ぜしめることがないならば、 この独り歩む人を<聖者>と名づける。 かの大仙人は平安の境地を見たのである。 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ すでに生じた(jātam-)(煩悩の芽を)断ち切って(-ucchijja)、新たに植える( ropayeyya)ことなく( na )、 現に生ずる( Jāyantamassa )(煩悩)を長ぜしめる( -anuppavecche)ことがない( na-)ならば( Yo )、 この( Tam- )独り( ekaṃ )歩む人( carantaṃ )を<聖者>( muninaṃ )と名づける( -āhu )。 かの( so )大仙人( mahesi )は平安の境地( santipadaṃ )を見た( Addakkhi )のである。 ・現に生ずる( Jāyantamassa ):これが はっきりしません。 Jāyanto は jāyati 生まれる の現在分詞形。そのあとのつながりが分かりません。 ・平安の境地( santipadaṃ ):安寧・寂静(Skt. zAnti )の道( pad ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《見る》というのは ▼ 平安の境地を見た(寂静の道を見た) ☆ のそれですよね。けっきょく《煩悩から自由な世界》ということなのでしょうか。 中村元は この《煩悩》をおぎなって読み取っている。 そして 原文では 《煩悩から自由な生き方――すなわち 煩悩に影響を受けても左右されないような・しかもなお煩悩とともにあゆむ生活――》ではなく 煩悩を断ち切るとか消すといった感じになっているようです。それを見たと。 あと いわゆるミッシング・リンクの問題は 研究者がけっきょく――或る意味で思想家となって――自分で言ってみれば勝手に埋めるということになるのではないかと考えます。 学者にとどまるなら その失われた鍵の部分が資料として出て来ないなら もうそのままにしておくかも知れません。 そういう問題だと思います。 要領を得ない応答でしたが。・・・
こんばんわ Bさん。 どうやら、私は身の上話がヘタなようだ・・ 私の中で繋がっているものが、Bさんの中では繋がらない でも 無理に繋ごうとも思わない 私にとっての復活とは、再出発だったと思う それは、その時においては、決してきれいなものではなかった 今となっては抽象論に、まとめ上げる事もできるし、美化することもできる 追憶といってもいいかもしれない でもそれを、上手く話す必要はないような気がする ただ、こうだった、とあっさり言えばいいだけの事だと思う ざっくばらんに言えば 男の身の上話なんて、それぐらいでいいのだと思う 勝手だが・・ >復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。 >真理が すべてにおいて すべてである きれいな言葉だと思います そして、誰も否定できない 真理は不滅であるがゆえに永遠である 常に永遠は湧きおこる 復活という泉から それは 見る者を求めずして 見た者だけが知る永遠の姿である 私に足りないものを 永遠が指し示すなら 受けとるべき掌に 光が生まれよう 名を付けずに生まれくる光は 永遠の子 再びという命の掌に 与えられしもの みしるし の無きがままに 今の私が みしるしであると 永遠は語りつぐ 言葉なき愛を受け取る資格は 今ここにあると 呼ぶこともなければ 尋ねることもない 私が知る愛に 偽りがなければ きっと 私をいざなってくれるに違いない とまあ こんな感じで 真理、復活、永遠、愛といったものを詩にしてみましたが やはり 神や超越的無意識といったところに行きたくなってきます それでいいといった感じもしますが・・ Bさんが それ以外のものを求めておられるのなら、それは何なんでしょう? イマイチ分かりません・・ 不死の境地・・? う~ん・・ お互いに訳の分からない事を言い合って それでよしとするのも悪くはないかもしれませんが・・
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ☆☆(趣旨説明欄) 《終わり=最終目的=意志の休息》の議論 ☆ と述べています。つまり こんどは 《意志の休息》という捉え方に注目してみます。 たとえば《理想》 つまり理想の生き方 これがなんらかのかたちであるとします。 そうですね。無難なところで 《社会への貢献》としましょうか。 そうしますと この貢献は 経験行為であって かたちがあります。文字や音楽や絵画のしごとであっても かたちがあります。とすると 意志はもし休息を取ろうとするなら その目に見えるかたち(あるいは 文章表現による作品について 心の目に見えるかたち) これが そこで休息を取ろうとする場になります。 つまり 好きな小説だとか絵画や音楽だとかに 意志の休息を見い出すことは 出来ますし およそふつうにあり得ています。 ところが このように経験事象に意志が休むというのは そのかたち(つまり 概念的思想的な内容をも含み 総じて言った場合の かたち)の上に・またはその中に 心を休めることになる。 これは かなしいかな うつろいゆかざるを得ない休息なのではないでしょうか? いかんせん 長くはつづきません。 つまり《復活》というのなら・または《永遠の現在》というのなら うつろい行くことのない《意志の休息》がのぞまれます。 《最終の目的=おわり》というのは 人間の考えたものですから これもその中身は 相対的な経験的な・うつろい行くものです。 しかも意志の休息は 移ろい行かない中身をもとめています。そういう休息をです。 ○ 真理が すべてにおいて すべてである ☆ たとえばこれなら そうするかどうかを別として そこに心を休めるとすれば なかなか移ろい行くとも思えません。 そういう表現をもとめているのではないでしょうか。つまり そういう心の休息の得られる命題のようなもの これが 復活につながるのではないでしょうか。 けっきょく言いかえるなら 《認識されうるかたちのある対象》は 心の休息を 一時的にしかもたらさない。となるはずです。 無根拠 ここに――もしたとえばとして一例を出すなら――意志の休息を得ようとしても よい。となるはずです。
お礼
さようなら。